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《 サッカー人物伝 》 ロベルト・バッジオ

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「美しき修験者」ロベルト・バッジオ(イタリア)

優れたテクニックとイマジネーション溢れるプレー、そして輝きを放つ個性で観客を魅了し、リアリズムと化した現代サッカーで最後のファンタジスタと言われるのが、「イタリアの至宝」ことロベルト・バッジオ( Robert Baggio )である。

決して身体は大きくないが、的確な状況判断とスピーディーなドリブルやパスでゲームを組み立て、さらにはゴールゲッターとしての高い能力も示し、典型的なファンタジスタと呼ばれたバッジオ。またストイックな姿勢とその特徴的な髪型から「コディーノ・ディビーノ(偉大なるポニーテール)」のニックネームでもイタリア国民に愛され尊敬されたプレイヤーだ。

22年間に及ぶプロ生活で数々の実績を残したバッジオだが、10代の頃から膝の故障に悩まされ「孤高の10番」として監督たちとも衝突。94年のワールドカップではPK失敗で優勝を逃し、そのサッカー人生は苦悩と悲哀の連続だった。しかしバッジオはそのたびに苦難を乗り越え、アズーリの歴史に名を刻む存在となった。

度重なるケガとの戦い

バッジオは1967年2月18日、北東イタリア・ビチェンツァ州のカルドーニョに生まれた。幼い頃からサッカーに熱中し、9歳で地元のジュニアチームに入団。その豊かな才能を認められ、14歳で当時セリエCに所属するヴィアチェンツァにスカウトされた。

82年、ヴィアチェンツァでのある試合でバッジオの左足に激痛が走る。ゲーム中に半月板を痛めてしまったのだが、これが選手生活における怪我との闘いの始まりとなった。それでも1年後には期間限定でトップチームに引き上げられ、16歳でプロデビューを果たすことになった。

次第にトップチームでの出場を増やしていったバッジオは、84-85シーズンに12得点を挙げてヴィアチェンツァのセリエB昇格に貢献、有望選手としてその名を知られるようになった。

この将来のスターを抱えるヴィアチェンツァに対し、セリエAのクラブによる激しい争奪戦が発生。一時はトリノへの移籍が発表されたが、数日後に一転、28億リラの移籍金でフィオレンティーナとの契約が決まった。

ところがこの契約が決まった2日後、シーズン最終戦のゲームでバッジオは相手選手と交錯、右膝十字靱帯断裂という重傷を負ってしまった。選手生命を失いかねないほどの大怪我だったが、フィオレンティーナはバッジオの回復を待つことにした。

そしてフランスで受けた手術は成功。バッジオはその後イタリアに戻って半年以上に及ぶ厳しいリハビリに取り組み、86年1月のコパ・イタリアで復帰する。

しかし9月には再び膝を痛め、12月には半月板の手術を受けて、フィオレンティーナに加入してからの2シーズンは僅か5試合の出場に留まってしまった。相次ぐ怪我に悩まされたバッジオは、心の安定を東洋の精神に求め、21歳で日本の仏教系宗教団体に入信する。

87-88シーズンには膝の状態も良くなり、リーグ戦27試合とカップ戦7試合に出場して計9得点、その真価を発揮し始める。翌88-89シーズンはリーグ戦30試合で15ゴール、89-90シーズンは32試合で17ゴールを挙げ、あの特徴的な “ポニーテール・スタイル” の確立と相まってフィレンツェ市民のアイドルとなった。

ユベントスへの移籍

88年、初めて代表に招集されたバッジオは、翌年4月のウルグアイ戦でFKによる初得点を挙げ、自国開催となる90年Wカップのメンバーにも選ばれて初の大舞台に臨むことになった。

だがそんなバッジオの活躍とは裏腹に、所属するフィオレンティーナには暗い影が差し始めていた。Wカップ開催に備えてホーム・スタジアム改修に投資したことから多額の負債を抱えることになり、経営危機に陥ってしまったのだ。

W杯開催を直前に控えた5月17日、フィオレンティーナが損失補填のため、バッジオをライバルチームのユベントスに160億リラで譲り渡すことが発表される。するとチームの象徴となる選手の放出を知った市民は暴徒化。フィレンツェの街は2日間混乱し、負傷者50名、逮捕者15名を出すという大騒ぎになった。

翌年ユベントスで古巣フィオレンティーナと対戦したバッジオは、指名されたPKキッカーを拒否。監督の怒りを買って即座に交替を命じられるが、首にはピッチに投げ込まれたフィオレンティーナのマフラーが巻かれていた。それまでフィオ・サポーターに裏切り者扱いされていたバッジオだが、古巣への愛情を示した彼にはスタンドから拍手が送られた。

悲劇のヒーロー

まだ騒動の余韻が残る6月、Wカップ・イタリア大会が開催。最初の2試合をベンチで眺めていたバッジオだが、グループリーグ1位を懸けたチェコスロバキア戦で先発出場。試合終盤にドリブルで相手をかわすシュートを決め、鮮やかなWカップデビューを飾った。準決勝でアルゼンチンに敗れてしまうが、バッジオには次世代エースとしての注目が高まった。

ユベントスでの3年目となる92-93シーズン、バッジオはリーグ戦でキャリアハイとなる21ゴールを挙げ、UEFAカップ優勝にも貢献。この年のバロンドールにも選ばれ選手としての絶頂期を迎えた。当然バッジオには94年Wカップでの活躍が期待されたが、開幕直前に右脚のアキレス腱を痛めてしまい、万全の調子で大会に臨めなくなってしまった。

94年6月に開幕したWカップ・アメリカ大会で、イタリアは予想以上の苦戦を強いられることになる。初戦のアイルランド戦は0-1で敗戦、第2戦のメキシコ戦では開始21分でGKパリウカが一発退場となり、窮地に追い込まれてしまう。

代わりのGKを入れるためベンチに下げられたのが、10番のバッジオだった。このあとイタリアはどうにか1次リーグを3位で勝ち上がることになるが、屈辱を感じたバッジオと交代を告げたアリゴ・サッキ監督との間には確執が生まれることになる。

バッジオは足の痛みに苦しみながら決勝トーナメントで奮闘、貴重な得点を挙げてイタリアを決勝に導いた。しかし決勝のブラジル戦は延長120分を戦って0-0で終了、痛めた足はもはや限界にきていた。そしてPK戦では5人目バッジオのキックがゴールを外し、イタリアは準優勝。深い失望とともに、アズーリの10番は大会を去って行った。

4年前の雪辱

94-95シーズン、ユベントスは9年ぶりとなるスクデットを獲得。だがバッジオは故障による長期離脱と新星デル・ピエロの台頭、さらにはマルチェロ・リッピ新監督の構想から外れ、出場機会を失っていた。リーグ戦では17試合の出場で8ゴールと低迷、高給取りの10番は翌シーズンの放出候補となる。

95年6月、バッジオは自らの意志でACミランへ移籍。ファビオ・カペッロ監督の管理サッカーに苦慮しながら28試合に出場し、95-96シーズンのリーグ優勝に貢献する。しかし翌96-97シーズンの途中、アリゴ・サッキがミランの新監督に就任、バッジオはたちまちベンチへ追いやられた。

ミランが優勝を逃した翌シーズン、カペッロが監督に復帰、バッジオは移籍リストに載せられることになった。97-98シーズン、中堅クラブのボローニャへ移籍。チームの主役となったバッジオは輝きを取り戻し、30試合で22ゴールを挙げた。そしてその活躍で、98年のWカップメンバーにも選ばれたのである。

98年、31歳となったバッジオはWカップ・フランス大会に出場。マルディーニ監督がエースと期待したデル・ピエロが不調、代わりに先発出場したバッジオが初戦のチリ戦で同点となるPKを決め、4年前の雪辱を果たした。

1位でリーグ戦を突破したイタリアは、準々決勝で開催国フランスと対戦。緊迫したゲームは両チーム無得点のまま進み、バッジオはデル・ピエロに替わって67分に途中出場、ジダンと互角に渡り合った。試合は延長の120分を終わって0-0、PK戦に突入する。1人目のキッカーとなったバッジオは確実にゴールを決めるが、勝利の女神はフランスに微笑んだ。

故障と付き合いながら、サッカー人生をまっとう

98年、バッジオはインテル・ミラノへ移籍。だが、さかんに選手や監督を入れ替えるオーナーのやり方にチームは混乱、怪我が再発したバッジオもあまり活躍できなかった。99年、リッピが新監督に就任、バッジオの出場機会は激減する。

00年には弱小クラブのブレシアに移籍。膝の故障に苦しみながら4度目のWカップ出場を目指すが、ついにその望みは叶わなかった。ブレシアの03-04シーズン、史上5人目となるセリエA200ゴールを達成。バッジオはこの偉業を置き土産とし、04年5月に37歳で現役を引退した。

10年にはイタリアサッカー連盟・技術部門の責任者に就任するが、13年に辞任。その後は無役のまま余生を楽しんでいるようだ。

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