長短のパスでリズムをつくり、広い視野と一瞬の判断力でチャンスを演出。エレガントなパスワークで魅了するフランスのシャンパン・サッカーをリードし、ユベントスでも一時代を築いて欧州の「将軍」となったのが、ミシェル・プラティニ( Michel François Platini )だ。
また、積極的な飛び出しによるシュートや、“プラトッシュ” と呼ばれる正確なフリーキックで得点を量産、セリエAで3年連続の得点王に輝き、名門ユベントスに多くのタイトルをもたらす。
そして3度出場したWカップでは黄金の中盤を率いていくつもの名勝負を演じ、84年の欧州選手権では圧倒的なパフォーマンスを発揮。レ・ブルーを初の栄冠に導き、フランスの英雄となった。
バロンドールには3回、世界最優秀選手には2回選ばれ、UFEAチャンピオンズ・カップ優勝やトヨタカップ優勝など、Wカップ・チャンピオンを除くあらゆるタイトルを手にしたプラティニ。現役引退後も要職を歴任し、そのキャリアを極めるかに思えた。
プラティニは1955年6月21日、フランス北東部のロレーヌ地方にある小さな町ジェフで生まれた。祖父の代より一家はイタリアからフランスへ移り住み、父親はアマチュアとしてプレーする数学教師だった。小さい頃は友達との遊び程度でボールを蹴っていたプラティニだったが、父親とFCメツの試合を観戦してからその迫力に目を奪われ、本格的にサッカーと取り組むようになる。
地元のASジェフでその豊かな才能を示したプラティニは、プロを目指して16歳でFCメツの練習に参加する。彼の申し分ないテクニックと潜在能力が認められ契約寸前までいくが、呼吸器のテストで専属医の厳格な診断に引っかかって不合格となってしまった。
やむなくプラティニは父親の所属する田舎クラブ、ASナンシーと練習生契約を結ぶ。そこで急成長を見せたプラティニは、1年後の73年5月にトップチームデビュー、その2週間後の試合では1部リーグの初得点と2点目を記録した。
だが翌73-74シーズンの試合で左脚を骨折、戦線離脱を余儀なくされ、チームも18位と低迷して2部へ降格した。だが故障が癒えた74-75シーズン、プラティニは33試合17ゴールの成績でチームの1部昇格に貢献する。
76-77シーズンは38試合22ゴールでチームを過去最高のリーグ4位に押し上げ、77-78シーズンのフランス・カップ決勝では、優勝を決める得点を決めて初タイトルを獲得。プラティニはフランスサッカー界の新星と注目されるようになった。
フランス代表に選ばれたのは20歳の時、76年3月のチェコスロバキア戦でデビューを果たした。FKのチャンスで名乗りを上げ、キッカーを譲って貰ったプラティニは、いきなり代表初ゴールを記録。そのあとデンマーク、ブルガリア、アイルランド戦でも立て続けに得点を挙げ、同年夏のモントリオール五輪でも活躍している。
77年11月、Wカップ欧州予選の最終戦。プラティニのロングシュートで先制したフランスはブルガリアに3-1の勝利、12年ぶりとなるWカップ出場を決めた。そして78年2月に行われた親善試合のイタリア戦では、ゴールを守る伝説的名手ディノ・ゾフから必殺の “プラトッシュ” で2点を奪い、その名をヨーロッパ全土に轟かせる。
6月、Wカップ・アルゼンチン大会に初出場。1次リーグでアルゼンチン、イタリア、ハンガリーと同居する “死のグループ” に入ってしまい、プラティニは1得点を挙げたものの、2連敗を喫して早々と大会を去ることになった。
79年、ディビジョン・アンの強豪サンテティエンヌに移籍。80-81シーズンは30試合で20ゴールを記録し、チームのリーグ優勝に貢献した。翌81-82シーズンも36試合で22ゴールの活躍を見せ、もはやプラティニはディビジョン・アンに収まらない選手となる。
そんなプラティニには、国外名門クラブから熱視線が送られるようになった。アーセナルやインテルとの交渉がなされる中、最終的に彼が選んだのはユベントス。名将トラパットーニ監督率いるユベントスは、ディノ・ゾフ、ガエターノ・シレア、アントニオ・ガブリーニ、マルコ・タルデッリ、パオロ・ロッシらイタリア代表を揃える、文字通りのスター軍団だった。
ユベントス契約後の82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。キャプテンとなったプラティニは、ジレス、ティガナ、ジャンジーニと 「カーレ・マジック”(魔法陣)」と呼ばれた中盤を形成、芸術的なサッカーで「最も美しいチーム」と賞賛された。準決勝では西ドイツと激闘を繰り広げたが、PK戦で惜しくも敗退、初のビックタイトル獲得はならなかった。
ユベントス移籍当初は慣れない環境とヘルニア苦しんだプラティニだが、間もなく10番としての能力を発揮、攻撃陣をリードした。82-83シーズンはリーグ2位、チャンピオンズ・カップでも準優勝に終わってしまうが、翌83-84シーズンには20ゴールを挙げチームをリーグ優勝に導き、カップウイナーズ・カップ優勝にも貢献した。
84年、母国フランスで欧州選手権が開幕。ジャンジーニに代わってフェルナンデスが黄金の中盤に加わり、守備が安定したフランスは優勝候補の筆頭に挙げられていた。開幕のデンマーク戦では、89分にプラティニが決勝点を決め薄氷の勝利。続くベルギー戦では黄金の中盤が爆発、プラティニのハットトリックなどで5-0と圧勝した。
第3戦では、プラティニが2試合連続のハットトリック、ユーゴスラビアに3-2と競り勝った。全勝でグループリーグを勝ち上がったフランスは、準決勝でポルトガルと対戦する。
フランスはプラティニがダミーとなりドメルグが蹴ったFKで先制するも、終盤ポルトガルに追いつかれて1-1で延長戦に突入する。すると97分にポルトガルの勝ち越し弾を許し、焦るフランスの反撃は空転。延長も後半に入り、残り5分と追い詰められてしまう。
その時プラティニが強引に前線を突破、左に流したボールをドメルグが蹴り込んで同点とした。さらに終了直前の119分、ティガナが深く切り込み折り返しのパス、それをプラティニが合わせ劇的な決勝弾を決めた。
決勝の相手はスペイン。前半を折り返した57分、プラティニの蹴ったFKは綺麗な放物線を描いて壁を越えると、GKアルコナーダのファンブルを誘い先制弾となる。終了直前にも追加点を決めたフランスはスペインの反撃を抑え2-0と快勝、初の欧州チャンピオンに輝いた。
プラティニは5試合で9得点の大活躍。得点王とMVPも獲得し、最高の勲章を得た将軍はフランスの英雄として称えられるようになった。
85年5月、ユベントスはチャンピオンズ・カップの決勝へ進出。対戦相手は、熱狂的なフーリガンの存在で知られるリバプールだった。決勝の舞台となったベルギー・ブリュッセルの “ヘイゼル・スタジアム” は試合前から異様な雰囲気に包まれた。
開始1時間前、両チームサポーターの間に罵り合いが始まると、リバプールのフーリガンが暴徒となって間の柵をなぎ倒し、ユベントスの応援ゾーンになだれ込んできた。ここからスタンドは修羅場と化し、死亡者39名、負傷者400人以上の「ヘイゼルの悲劇」と呼ばれる大惨事が起きてしまう。
悲惨な現場を目にした選手たちはショックを受けるが、試合は強行され、プラティニがPKを決めてユベントスが1-0と勝利、初のチャンピオンズ・カップ制覇となった。しかし勝利の歓びは虚ろさでかき消され、プラティニは罪悪感から「人生最悪の試合」とインタビューに答える。この事件が、サッカーへの情熱を失っていくきっかけとなった。
同年12月、東京の国立競技場で行われたトヨタカップに出場。アルゼンチンのアルヘンティノスをPK戦で打ち破り、ユベントスは世界一クラブの称号を得た。この試合プラティニは鮮やかな美技でネットを揺らすが、オフサイド判定で幻のゴールとなってしまった。
しかしこのプレーは、ふてくされて寝そべる姿と共に語り継がれるものとなり、彼自身も「この時がピークだった」と振り返る事になる。この直後に左脚踵を痛めたプラティニは、もはやトップコンディションを保てなくなってしまうのだ。
86年、プラティニは足の痛みを抱えたままWカップ・メキシコ大会に出場した。準々決勝ではジーコ擁するブラジルと対戦、「夢のカード」と言われたこの対決をPK戦で制し、ベスト4へ勝ち上がる。しかし準決勝ではまたもや西ドイツに敗れ、悲願達成はならなかった。
Wカップ終了後に現役引退を決意したプラティニだが、周囲に説得されもう1シーズンプレーを続けた。だが足の故障とモチベーションの低下による衰えは隠しようもなく、僅か2ゴールの成績に終った86-87シーズン終了後、プラティニは32歳の若さで選手生活に別れを告げる。
数々の優勝タイトルに加え、セリエAでの3季連続得点王と代表キャップ72試合で41ゴールの実績、そして3年連続のバロンドール賞、2度の世界最優秀選手賞獲得は、まさに「将軍」の名にふさわしい勲章だった。
引退後の88年、フランス代表監督に就任。92年のユーロ・スウェーデン大会(予選Gで敗退)まで指揮を執った。その後フランスWカップ組織委員長、フランスサッカー連盟副会長、UEFAとFIFAの理事・部門委員長など要職を歴任する。
07年、UEFAの会長選に立候補。現職のレナート・ヨハンソンを破り、6代目UEFA会長およびFIFAの副会長に就任した。これらの実績により次期FIFA会長の最有力候補となったプラティニだが、15年に組織内の汚職事件が発覚。この事件に関与したとしてプラティニは活動停止処分となった。
そして無役となった19年には、カタールWカップ招致に関する不正疑惑で、警察による取り調べを受けたとの報道がなされる。だがこれらの疑惑に対して、人のいいプラティニが嵌められてしまった、という見方もされている。
追記:22年7月8日にスイスの裁判所で無罪判決が下された。