「ヴンダーチームの悲劇」マティアス・シンデラー(オーストリア)
卓越した戦術眼を持ち、強力なシュートと高いテクニックで得点を重ねていったCF。エレガントなプレースタイルで観客を魅了し、細身の身体でDFの間をスルリと抜けていく様子から「紙の男」のニックネームで呼ばれた。その活躍で今なおオーストリア史上最高の選手と言われるのが、マティアス・シンデラー( Matthias Sindeler )だ。
ウィーンのヘルタで才能を開花し、名門FKアウストリアへ移籍。チームの主力として2度のミトローパ・カップ(中央ヨーロッパ杯)優勝を果たすなど、クラブの黄金期を築く。「ヴンダーチーム(驚異のチーム)」と呼ばれ恐れられたオーストリア代表でも、中心的存在となって欧州にその名を知らしめた。
34年W杯では優勝候補と目されたが、ファシスト政権で大会制覇を至上命題とされた地元イタリアの前に敗れ去る。その4年後の大会に雪辱を期すが、オーストリアがナチスドイツに併合され「ヴンダーチーム」は消滅。戦争の時代に翻弄されたシンデラーにも、悲劇的な結末が待ち受けていた。
マティアス・シンデラーは1903年2月10日、モラビア(現在のチェコ)にあるコスロフ村で生まれた。父はレンガ職人として働いていたが、家族が増えて(妹3人が誕生)生活が苦しくなったため、一家はハプスブルグ帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の首都、ウィーンの工業地帯に移住。同郷の移民友達と、ストリートサッカーで遊びながら育つ。
その後、第一次世界大戦(1914~18年)の敗北でハプスブルク帝国は崩壊。戦勝国によって民族ごとに領土が切り刻まれ、シンデラーたちの住むウィーンは共和国オーストリアの首都へと変わる。
17年には徴兵されていた父親がイタリア前線で戦死。14歳のシンデラーは洗濯婦として一家を支える母親を助け、機械工の見習いとして働き始める。その仕事の合間に小さなクラブでサッカーを楽しんでいたが、やがて非凡なドリブル技と得点力で頭角を現し、18年にヘルタ・ウィーンのユースチームに入団。21年のオーストリア選手権でトップチームデビューを果たす。
細身の体(179㎝63㎏)で接触プレーに弱かったシンデラーだが、体格のハンディを高いテクニックで補い活躍。巧みなドリブルで相手選手の間をスルリと抜けていく様子から、「デル・パピアン(紙の男)」のニックネームで呼ばれた。
こうして将来を嘱望される選手となるも、3年目の23年5月、余暇で出かけたスウィミングプールでつまずき転倒。右膝半月板損傷の深刻なダメージを負い、選手生命の危機を迎える。
当時の医学では治療不可能とされたが、リスクを承知でウィーンの名医として知られたDr. ハンス・スピッツィに執刀を依頼。手術は成功を収め、怪我から順調に回復して1年半後には戦線復帰。以降は右膝にサポーターを巻いてプレーするようになり、それがシンデラーのトレードマークとなった。
だが無事チームに戻ったものの、クラブが財政危機に陥ってしまい、シンデラーは数人の選手とともに契約を打ち切られてしまう。イタリアクラブからのオファーに心動かされるも、ウィーンに留まることを決意。ユダヤ系中産階級の強豪チーム、ビエナーASと新たな契約を交わす。
ビエナーASは24-25、25-26シーズンとオーストリア・カップを連覇。国内リーグがプロ化を果たし、クラブがFKアウストリア・ウィーンと改称した26年には、オーストリア・ブンデスリーグで優勝。シンデラーは強豪チームの中心を担う選手として、プロリーグ初優勝に貢献。ピッチを奏でる軽妙でエレガントなプレーから「サッカーのモーツアルト」の異名が付けられた。
26年にはオーストリア代表に初招集。デビューとなった9月のチェコスロバキア戦で、さっそく初ゴールを記録して2-1の勝利に貢献する。翌10月のスイス戦でも2得点、11月のスェーデン戦では3試合連続ゴールを決め、たちまち代表のエース格となった。
27~30年にかけて行なわれた第1回中央ヨーロッパ国際カップ(欧州選手権の前身)では、イタリアに続く準優勝。この時のオーストリアは、欧州の強豪としての地位を築きつつあった。その代表を率いていたのが、第一次大戦前から監督を務めるフーゴ・マイスル。のちに「オーストリアサッカーの父」と呼ばれる名将である。
マイスル監督は12年のストックホルム五輪で主審として笛を吹いた経験を持ち、オーストリアのプロリーグ創設にも尽力。イタリア代表のヴィットリオ・ポッツオや、アーセナルのハーバート・チャップマンといった各国の名指導者とも親交が深く、オーストリアサッカーのレベル向上に手腕を振るう。
代表では革新的な戦術を求め、以前から交流のあったスコットランドのジミー・ホーガンをコーチとして招聘。即興を好む芸術家肌のオーストリアサッカーと、スコットランドの巧みなボール回しを融合させたショートパス戦術、「ダニュービアン・スタイル」を構築する。
しかし29年に行われた南ドイツ選抜との試合で、オーストリアは0-5と惨敗。これに激怒したマイスル監督は、敗戦の責任がトリッキーなプレーを好むシンデラーとグシュバイデルの2トップにあると考え、二人を代表から外した。
そのあとマイスル監督は多くの選手を呼び、試行錯誤するも戦術は機能せず、得点力不足に陥ったオーストリア代表は低迷を続ける。そんなとき、国民やマスコミからはシンデラー待望論が沸き上がった。
さすがのマイスルも世論に抗しきれず、シンデラーとグシュバイデルを2年ぶりに呼び戻すことを決断。さらに鋭いシュートを放つ新鋭シャルも前線に加え、新生オーストリア代表が始動した。
31年5月16日、オーストリアは当時ヨーロッパの強豪だったスコットランドとホームで試合を行った。シンデラーとグシュバイドルの2トップは、絶妙のコンビネーションを発揮。代表デビューとなった若い両ウィング、チェシクとフォーゲルも躍動を見せ、スコットランドの堅守を突き破る。
シンデラーはFWとしてゴールを陥れるだけでなく、囮となる〈偽9番〉としても巧みに機能。これが新生オーストリア代表の強力な攻撃力を生んだ。ブルームとシュラムサイスが固める後方の守備も万全で、スコットランド戦の結果は5-0の快勝。ここからオーストリアの快進撃が始まった。
その後ドイツ代表に対し6-0、5-0と圧倒的な内容で連勝。シンデラーはホームでの2戦目でハットトリックを記録し、エースとしての貫禄を見せつけた。そんなオーストリアの華麗な攻撃は「まるでウィーン・ワルツのよう」と観客を熱狂させ、この頃から「ヴンダーチーム」の異名が定着する。
31年からは第2回中央ヨーロッパ国際カップが開始。初戦は敵地でイタリアに1-2と敗れるも、1年後ホームで行なわれた対戦ではシンデラーの2得点で2-1とリベンジ。宿敵をかわして大会初優勝を遂げた。
さらに当時欧州最強と言われたハンガリーとの親善試合では、シンデラーが「人生最高のプレー」を披露。厳しいマークをかいくぐり、ハットトリックの活躍で強豪を8-2と粉砕した。
敵地での対戦となったイングランド戦では、3-4と惜しくも負けてしまったが、いまだかつてホームで負けたことのない “サッカーの母国” をあと一歩というところまで追い詰める。こうして「ヴンダーチーム」は、31年5月から34年6月までの3年間で、30試合21勝6分け3敗という圧倒的な強さ。30年代前半の黄金期を築いていく。
33年、FKアウストリアはミトローパ・カップ(欧州チャンピオンズカップの原型)の決勝へ進出。ホーム&アウェイで行なわれる決勝は、イタリアの強豪インテル・ミラノ(当時アンブロシアーナ・インテル)との戦いとなった。
アウェーでの第1戦は、ジュゼッペ・メアッツァの先制ゴールを許して前半を0-2のビハインド。後半77分にシンデラーのアシストから1点を返すも、試合は1-2と敗れてしまった。
ホームでの第2戦は、前半45分にシンデラーがPKを沈めて先制。後半80分にもシンデラーが追加点を決め、リードを広げる。しかしその5分後にはメアッツァにゴールを決められ、2戦合計2-2と追いつかれてしまう。だが終了時間が近づいた88分、シンデラーが値千金の勝ち越し弾。
エースのハットトリックで強豪を2戦合計3-2と下し、クラブ初の国際タイトルを獲得。通算5ゴールの活躍でFKアウストリアを初優勝に導いたシンデラーは、好敵手メアッツァとともに大会得点王に輝く。
オーストリアはウルグアイで開催された第1回ワールドカップに参加しなかったが、その後初めて行なわれた欧州予選を順当に勝ち抜き、第2回ワールドカップへの出場を決める。
34年5月、Wカップ・イタリア大会が開幕。大会は出場16ヶ国によるトーナメント方式で行なわれた。優勝候補に挙げられていた「ヴンダーチーム」だが、大会直前に怪我人が続出。選手層も全体的に高齢化しており、思わぬ苦戦を強いられる。
初戦はフランスと対戦。前半18分に先制を許すも、34分にシンデラーのゴールで同点。試合はこのまま終盤まで1-1で進み、ワールドカップ史上初の延長戦に突入する。延長に入るとフランスのエースFWニコラが負傷退場。数的有利(当時は選手交代が許されていなかった)となった延長100分には、シャルのゴールで勝ち越す。
延長後半の109分、21歳の新星ヨージェフ・ビカンが強烈ミドルで追加点。このあとフランスの反撃をPKの1点に抑え、オーストリアが3-2の辛勝。激戦を制してベスト8に進む。
準々決勝の相手は強豪ハンガリー。開始8分に先制ゴールを奪うと、後半の51分にはビカンのパスからチェシクが2点目。60分に「ハンガリーの英雄」と呼ばれたジョルジ・シャロシのPKで1点を返されるも、終盤の追撃を振り切って2-1の勝利。ベスト4へ勝ち上がる。
準決勝は、独裁者ムッソリーニによって優勝を厳命された地元イタリアとの戦い。試合当日の激しい雨でぬかるんだピッチは、細かいパス繋ぎを身上とするオーストリアに不利な状況。しかもスウェーデン人主審のジャッジは、明らかにイタリア寄りだった。
試合開始から闘志をむき出しにし、「ヴンダーチーム」へ襲いかかるアズーリたち。開始18分、オーストリアGKブラッツァーが弾いたボールを、イタリアのメアッツァが詰めてシュート。ブラッツァーはこれも辛うじて弾き出すが、突進したメアッツァとともに転倒。ルーズボールを拾ったグアイータにネットへ押し込まれてしまう。
オーストリアはメアッツァにファールがあったとして抗議をするも、これは主審に認められず、イタリアの先制となった。頼みのシンデラーは、ルイス・モンティの厳しいマークに押さえられ不発。イタリアに主導権を握られ続ける。
それでも試合終了直前、チェシクがイタリア守備網を切り裂きシュート、満員の観客を凍り付かせた。だがそのシュートは惜しくも枠を外れ、試合は0-1で終了。オーストリアは開催国の執念の前に散っていった。このあとドイツとの3位決定戦が行われるが、モンティのタックルで負傷したシンデラーは欠場。2-3と敗れた「ヴンダーチーム」は大会4位に終わった。
FKアウストリアは、36年のミトローパ・カップを3年ぶりに制覇。すでに33歳となっていたシンデラーだが、変わらずチームの大黒柱として活躍した。もはや彼はヨーロッパを代表するスター選手であり、その人気による商品広告の副収入も多かったが、控えめな性格で贅沢を嫌い質素な生活を送っていた。
一方、オーストリアは34年のW杯敗退後に勢いを失い、37年1月には代表を率いるマイスル監督が心臓発作により死去。同年9月には予選を突破して2度目のW杯出場を決めるが、W杯フランス大会開幕を控えた38年3月、アドルフ・ヒトラー率いる「ドイツ第三帝国」にオーストリアが併合されてしまう。これでW杯への参加は不可能となり、「ヴンダーチーム」は一瞬にして消え去った。
シンデラーは「統一ドイツ」チームへの参加を要請されるが、チームメイトや多くの友人を持つユダヤ人への弾圧を行なうナチス・ドイツに反抗。怪我や年齢を理由にドイツ代表入りを断り続けた。
しかし4月に行われた “大ドイツ帝国統一”(ゲルマン民族国家統合)を祝うエキシビションゲームには、「オストマルク(旧オーストリア)」チームのキャプテンとして参加。「アルトライヒ(ドイツ帝国)」チームと対戦する。
シンデラーはナチス側の「祝典ゲームらしく引き分けるように」の指示を無視し、「オストマルク」を2-0の勝利に導く。しかも後半には自ら得点を決め、ナチ党幹部が観戦するVIP席の前で歓びを爆発させたと伝えられている。
これが最後の代表キャップとなり、12年間の代表歴で43試合に出場、27得点の記録を残した。
このあとユダヤ人が運営するFKアウストリアはナチスによって活動を停止させられ、国内プロリーグも廃止。最後のゲームとなった38年12月のヘルタBCS戦では、シンデラーがゴールを決めて18年の選手生活に終止符を打った。
FKアウストリアの仲間と共に失業したシンデラーは、ウィーンのコーヒーショップを買い取り経営。イタリア系ユダヤ人である恋人カミーラと、アパートを借りてひっそりとした生活を送った。
だが翌39年1月23日、シンデラーとカミーラが自室で死んでいるのが友人によって発見される。享年35歳だった。検死の結果で一酸化中毒による事故死と発表されたが、今なお自殺説やゲシュタポ(秘密警察)による謀殺説が噂されているという。