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《 サッカー人物伝 》 エジムンド

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「 リオと野獣 」 エジムンド ( ブラジル )

足裏を巧みに使った効果的なフェイントを駆使し、卓越したドリブル技術で敵を翻弄。またゴール前で決定的なシュートを打つだけでなく、巧みなラストパスでチャンスも演出。その活躍でJ2降格の危機にあった東京ヴェルディを救ったブラジルのFWが、エジムンド( Edmund Alves de Souza Net )だ 。

ブラジルの名門ヴァスコ・ダ・ガマで頭角を現し、93年に移籍したフラメンゴではパウリスタ選手権とブラジレイロン(全国選手権)優勝の原動力となった。その活躍により97年にはイタリアのフィオレンティーナへ移籍するが、数々の問題行動を起こして帰国。気性の荒さから「オ・アニマウ(野獣)」のあだ名で呼ばれた。

毎年故郷で行われる “リオのカーニバル” を愛した男としても知られたが、あだ名通りの暴れっぷりと素行の悪さで行く先々でトラブルを起こし、毎年のように各地のクラブを転々。終生荒野をさまよう野生動物のようなサッカー人生を送るも、最後は古巣のヴァスコ・ダ・ガマへ戻って安住の地を得た。

スラム街で生まれた第2のペレ

エジムンドは1971年4月2日、リオ・デ・ジャネイロ市の対岸にある港町ニテロイに生まれた。父レイナルドは祖父の代からの床屋で、母は清掃人として働く貧困家庭だった。スラム街で育ったエジムンドは、まともな教育を受けることもなく、ひたすらストリートやビーチで仲間とサッカーをして過ごす。

9歳のとき叔母のボーイフレンドに連れられ、フォンセカという小さなクラブの練習試合に参加。その時のプレーがヴァスコ・ダ・ガマのスカウトの目に止まり、リオの名門クラブの下部組織に入団する。

ヴァスコのジュニアユースでしばらく育成期間を過ごしたあと、15歳となった87年には同じリオのボタフォゴへレンタル移籍。ここで経験を積んでさらに才能を伸ばしたエジムンドだが、クラブの敷地内を裸で闊歩し、叱責を受けるという最初のトラブルを起こしている。

89年にはヴァスコへ復帰。マラカナン・スタジアムで行なわれたユースチームのゲームでは、中盤後ろから4人のDFとキーパーを鮮やかなドリブルで抜き去りゴール。「第2のペレ現る」とマスコミに注目される存在となった。

20歳となった92年にトップチーム昇格。エースのベベトーと2トップを組み、さっそく24試合8ゴールの成績。カリオカ選手権(リオ州選手権)優勝に貢献し、その活躍によりサンパウロの強豪パルメイラスに引き抜かれる。

当時のパルメイラスは、リバウドロベルト・カルロスフレディ・リンコン、セザール・サンパイオ、エジウソン、エバイールら錚々たるメンバーを揃えたタレント軍団。若きエジムンドはそんなチームでも攻撃の中核を務め、93年、94年のパウリスタ選手権(サンパウロ選手権)とブラジレイロン2連覇に大きく貢献した。

アニマルのふるまい

しかしその激しい気性によるラフプレーや退場も多く、マスコミから「オ・アニマウ(野獣)」というあだ名を付けられたのもこの頃だった。93年パウリスタ選手権の決勝では、挑発してきたコリンチャンスの選手に一発お見舞。翌年の試合でもサンパウロの選手に蹴りを入れ、もう少しで訴えられるところだったという。

チームメイトとの関係も良好と言えず、「態度を改める」と言いながらも監督と衝突を繰り返し、チームメイトとは殴り合いの喧嘩。サポーターにも嫌われる始末だった。

また94年のコパ・リベルタドーレスでは、アウェーの地で試合に敗れて、インタビュアーとカメラマンに暴力を振るうという蛮行。別の試合では途中交代させられたことに怒り、監督への暴言。長期の謹慎を言い渡されてしまう。クラブはそんな問題児に手を焼き、95年にはエジムンドを移籍金600万ドルでフラメンゴに売却する。

移籍した95年には「悪童」の異名を持つロマーリオが、スペインのバルセロナを離れてフラメンゴに加入。問題児コンビのエジムンドとロマーリオは、メディアに「バットボーイズ」と名付けられたツートップを形成。若きスターのサビオを加えた攻撃陣は「ドリーム・アタック」と呼ばれたが、案の定この布陣はうまく機能しなかった。

そのフラメンゴでも、野次ってきた相手サポーターに向かって性器を丸出しにして振ってみたり、3-0と快勝した試合で相手DFと乱闘を演じたりと、素行の悪さはエスカレートするばかりだった。

そんな振る舞いを繰り返していた95年12月、飲酒運転により同乗者の女性と対向車に乗っていた2人を死亡させる自動車事故を起こしてしまう。裁判の一審に勝訴して処罰は逃れたものの、「人殺し」などの野次も受けるようになり、フラメンゴから去らざるを得なくなった。さすがにこの事故は野獣の心に大きな痛手を負わせ、長らく罪の意識にさいなまれたと後年告白している。

セレソンでの活躍

ブラジル代表には、92年に21歳で初招集。7月のメキシコ戦で後半ベベトーに代わって投入され、セレソンデビュー。11月に行なわれたウルグアイ戦で代表初ゴールを記録する。

93年6月には、エクアドル開催のコパ・アメリカに出場。G/Lのパラグアイ戦でゴールを挙げてベスト8進出に貢献するが、準々決勝でライバルのアルゼンチンにPK戦で敗れ、優勝に手が届かなかった。

同年8月から始まったW杯南米予選にも参加するが、豊富なタレントを擁する攻撃陣にあって出番は限られた。ブラジルは予選で苦しみながら94年W杯アメリカ大会への出場決めるも、クラブで長期の謹慎処分を受けていたエジムンドがメンバーに招集されることはなかった。

95年6月には、イングランドで開催されたアンブロ・カップ(1年後のユーロ96開催に向けた、4チームによるプレ国際親善大会)に出場。新星ロナウドとツートップを組んだエジムンドは、初戦のスウェーデン戦でゴールを挙げて1-0の勝利に貢献する。

続く第2戦は日本を3-0と退け、最終戦はエジムンドとロナウドのゴールで地元イングランドに3-1の勝利。エジムンドは3試合すべてにフル出場し、セレソンで初の優勝を味わった。

翌7月にはウルグアイ開催のコパ・アメリカに出場。順調にグループ首位突破を果たしたブラジルは、準々決勝で前回と同じくアルゼンチンと対戦。試合は開始2分に先制を許すも、9分にエジムンドが同点弾。29分にバティストゥータのゴールを許して再びリードを奪われるが、終盤の81分にトゥーリオの得点で追いつく。

試合は延長120分でも決着が付かず、勝負の行方はPK戦へ。先攻のブラジルは3人目が外すも、後攻のアルゼンチンはシメオネら2人が失敗。ブラジル5人目エジムンドがPKを沈め、前回の雪辱を果たして準決勝に進む。

準決勝ではアメリカを1-0と下し、決勝で開催国ウルグアイと対戦。試合は1-1でまたもPK戦にもつれるが、先攻のウルグアイが5人全員成功させたのに対し、後攻のブラジルは3人目が失敗。5人目に控えていたエジムンドの出番がないまま勝負は決着し、準優勝という結果に終わった。

孤立する野獣

96シーズン、同じサンパウロの名門クラブであるコリンチャンスに入団。しかしパウリスタ選手権の開幕戦で乱闘を繰り広げ、出場停止処分を受けるなどさっそく問題児ぶりを発揮。ほとんど活躍を見せることもないまま、翌97年には古巣のヴァスコへ戻っていった。

97シーズン、28試合で29ゴールを挙げて得点王を獲得。その中には、エジムンド1人で6得点を決めた試合もあった。そしてそれまでの最多得点記録を20年ぶりに更新し、ブラジレイロン優勝の立役者になる。

だが最終節前の試合でイエローカードを受け、累積警告で次戦に出られないことが分かると、審判に平手打ちをお見舞いして40日の出場停止処分となるいう騒動も起こしている。

それでもエジムンドは97年のブラジル最優秀選手に選ばれ、直後にセリエAの強豪フィオレンティーナへの移籍を果たす。そして98-99シーズンにはルイ・コスタバティストゥータと並ぶ攻撃の中心となり、フィオレンティーナを首位に押し上げる活躍を見せた。

しかし優勝争いも佳境に入ったシーズン終盤戦、エジムンドは “リオのカーニバル休暇” の契約条項を行使。さっさとブラジルへ帰国した。その直前にはエースのバティストゥータが故障で離脱しており、2トップがいなくなったチームは一気に失速。ACミランとラツィオに抜かれて3位に後退し、30年ぶりの優勝を逃してしまう。

さらにチームに馴染めなかったエジムンドは、ほとんどの選手やコーチと不仲になっていた。バティストゥータを「負け犬」、ルイ・コスタを「やっかみ屋」となじり、自分を途中交代させたトラパットーニ監督をテレビカメラの前で非難するという有様だった。

またこの年には、息子の誕生パーティーでチンパンジーに酒を飲ませ、動物愛護団体から抗議されるという「チンパンジー飲酒事件」も起こしていたエジムンド。これらの行為はチームメイトやファンからの信頼を失わせ、シーズン終了後には再びヴァスコへ舞い戻ることになる。

98年W杯決勝、怒りのスタメン落ち

97年7月、ボリビア開催のコパ・アメリカに出場。ブラジルはコロンビア、メキシコなどの難敵を相手に、G/Lを首位突破。エジムンドもコロンビア戦でゴールを記録してベスト8進出に貢献する。

そして準決勝でペルーを2-0、準決勝ではペルーを7-0と下し、2大会連続の決勝に勝ち上がる。決勝の相手は地元ボリビア。前半40分にエジムンドが先制ゴールを決めるが、ロスタイムの45分に追いつかれて前半を折り返す。

後半の60分過ぎ、相手DFのハードタックルを受けたエジムンドが、審判の見ていない隙を狙って報復のパンチ。それを見ていたマリオ・ザガロ監督は、カードが出ないうちに直ぐさまエジムンドをベンチに下げた。

そして71分にはロナウドの勝ち越し点が生まれ、終了直前の90分にも追加点。ブラジルが3-1と勝利し、4大会ぶりの優勝を果たす。

98年6月、ブラジルはディフェンディングチャンピオンとしてWカップ・フランス大会に出場。チームの規律を乱すとされたロマーリオは落選となったが、もう一人の問題児であるエジムンドはメンバーに残った。

しかし大会に入るとDFジュニオール・バイアーノと喧嘩し、仲裁に入ったレオナルドには「お前はいつも良い子ちゃんだな」と悪態。粗暴な言動は相変わらずだった。優勝候補のブラジルは決勝に進むが、ベンチウォーマーに回ったエジムンドの出番は、G/Lモロッコ戦の18分間に留まっていた。

決勝の相手は開催国フランス。その試合の6時間前、ホテルの部屋にいたロナウドが痙攣を起こし、泡を吹いて卒倒。驚いた同室のR・カルロスが、廊下にいたエジムンドに助けを求めた。部屋に入ったエジムンドは「ロナウドが死んでしまう」と叫びながら懸命の蘇生処置を施し、なんとか病院へ搬送する。

このため試合前に提出された先発メンバー表には、ロナウドに代わってエジムンドの名前が記載された。しかし病院で回復したロナウドがチームに戻り、ザガロ監督に懇願して強行出場。キックオフ直前に晴れ舞台のスタメンを降ろされた野獣は、ロッカーで怒り狂ったと言われている。

エジムンドは2点をリードされた後半74分に今大会2度目の出場を果たすが、試合はエースの体調不良がたたって地元フランスに0-3の完敗。以降エジムンドはロナウドについて聞かれると、見下すようなコメントを吐くようになったという。

このあとセレソンに呼ばれることも少なくなり、2000年に行なわれたW杯南米予選のコロンビア戦が最後の代表キャップとなった。9年間の代表歴で37試合に出場、10得点の記録を残した。

Jリーグに放たれた野獣

ヴァスコでは再びロマーリオとツートップを組み、今度はうまく機能して二人は大活躍を見せる。そして00年にブラジルで行われた第1回FIFAクラブワールドカップに出場、開催国枠で参加したコリンチャンスと決勝を戦った。しかしこの試合でエジムンドがPKを失敗し、コリンチャンスに優勝を奪われてしまう。

その後ロマーリオと仲違いし、「バットボーイズ」コンビを解消。移籍したサントスからイタリアのナポリにレンタルされ、01年にはブラジルに戻ってクルゼイロでプレーした。だがクルゼイロでは古巣ヴァスコ・ダ・ガマとの対戦で故意にPKを外し、チームから追放となっている。

フリーの身となったエジムンドは01年10月、J1降格危機にあった東京ヴェルディへ急遽入団。Jリーグデビューとなったセレッソ大阪戦で初ゴールを記録すると、続くヴィッセル神戸戦でも得点を決めた。

そして最終節のFC東京戦でも貴重な決勝点をアシスト。エジムンドが参戦した5試合でヴェルディは3勝1敗1分けの好成績を残し、ともに残留争いを演じたアビスパ福岡を振り切って、J1生き残りに成功する。

翌02年も16ゴールを挙げる活躍を見せるが、故障を理由に開幕3試合を欠場。その間ブラジルに戻り、ちゃっかり “リオのカーニバル” を楽しんでいた。

日本では最初こそ紳士的に振る舞っていたエジムンドだが、あからさまな守備放棄や、パスがズレると足を伸ばそうともしないなど、尊大な振る舞いが目立ち始める。03年には浦和レッズに移籍。しかしオフト監督と意見が合わず、カップ戦2試合に出場しただけでブラジルへ無断帰国してしまった。

 ヴァスコ・ダ・ガマでの引退

ヴァスコ・ダ・ガマに3度目の復帰を果たしたエジムンドだが、やがてチームメイトと揉めて退団。04年にフルミネンセへ移籍し、ここでもロマーリオとツートップを組む。

それからも移籍を繰り返したあとの08年、エジムンドは愛するヴァスコ・ダ・ガマでのプレーを最後に37歳で現役を引退。引退後はテレビコメンテーターとして活動し、ワールドカップやユーロ大会などで解説者を務めた。

2011年には、16年前に起こした自動車死亡事故の控訴審で敗訴。処罰を恐れたエジムンドはサンパウロ市内のアパートに身を隠すが、警察に見つかって逮捕・拘留。20時間留置場に放りこまれるも、弁護士の出した人身保護令状により釈放。その後最高裁判所によって時効が認められ、自由の身となっている。

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