「 マラドーナになれなかった男 」 アリエル・オルテガ ( アルゼンチン )
165㎝の小さな身体を活かしたスピードある切り返しと、緩急の効いたボール運びでディフェンスラインを切り裂いた天才ドリブラー。その切れ味鋭いプレーで「ポスト・マラドーナ」と期待され、アルゼンチンの10番を背負った選手がアリエル・オルテガ( Ariel Arnaldo Ortega )だ。
若くして名門リーベル・プレートの中心選手となり、クラブ90年代の黄金期を支えて活躍。96年にはコパ・リベルタドーレス優勝に貢献し、南米年間最優秀選手にも選ばれる。しかし98年に移籍した欧州のクラブでは、自分の意見を曲げない性格でレギュラーを外されることも多く、これといった結果を残せずに終わる。
アルゼンチン代表では94年W杯に20歳で出場すると、96年アトランタ五輪では銀メダル獲得に貢献。98年W杯ではマラドーナの後継者として注目されるが、準々決勝のオランダ戦でGKファン デルサールに頭突きをお見舞いして一発退場。ベスト8敗退の戦犯とされた。02年のW杯にも出場するが、もはや代表で輝きを見せることはなかった。
アリエル・オルテガは1973年3月4日、アルゼンチン北東部・ボリビア国境に近いフフイ県にある山岳地帯の村レデスマで生まれた。元職業軍人の父親は溶接工として働き、オルテガはその父から貰った愛称「エル・ブリート(小さなロバ)」を大人になっても名乗り続けたほど大事にした。
小さな頃はリーベル・プレートのラモン・ディアスに憧れ、そのプレーを真似しながら、家の外の荒れ地でフェイントしたりドリブルしたりして遊んだ。勉強は苦手で何度も落第を繰り返した末、14歳のときに学校を辞め、地元クラブのアトレティコ・レデスマ(フィフィ県2部リーグ)でサッカーに専念する。
そのレデスマで少年オルテガのドリブルを止められる者はなく、大人を抜き去るプレーでたちまち注目を集めた。そしてボカ・ジュニアーズなど有名クラブから関心を寄せらる中、16歳の時にリーベル・プレート主催のサッカーイベントに参加。その卓越したドリブルスキルはコーチ陣の目を釘付けにし、憧れだった名門クラブへの入団を果す。
リーベルでは4部リーグからプレーを開始。すると入団から1年も経たない91年12月、ダニエル・パサレラ監督の引きを受けてトップチーム昇格。同月のプラセンテ戦でプリメーラ・ディヴィシオン(1部リーグ)デビューを飾ると、翌92年7月のキルメス戦で初ゴールを記録する。
当初は「ボールを持ちすぎる」「無駄なドリブルが多すぎる」と批判されるが、パサレラ監督の指導を受けてプレーの質は向上。そのおかげもあって、93-94シーズンの前期ステージには主力としてリーグ優勝に貢献した。
94年夏にはアルゼンチン代表監就任のためパサレラがチームを離れるも、欧州で活躍するエンツォ・フランチェスコリが古巣のリーベルに復帰。オルテガはリーグ得点王となったフランチェスコリとともにリーベルの攻撃をリードし、94-95シーズンの前期ステージを制す。
95年、横浜マリノスで現役を引退したばかりのラモン・ディアスがリーベルの新監督に就任。オルテガ、エルナン・クレスポ、マルセロ・ガジャルド、パブロ・ソリンと才能のある若手を揃えたリーベルは、96年のコパ・リベルタドーレスで10年ぶりとなる決勝へ進出する。
決勝の相手はコロンビア王者のアメリカ・デ・カリ。敵地での第1戦は0-1と敗れるが、ホームでの第2戦はクレスポが2ゴールを挙げ2-0の勝利。リーベルが2度目の南米クラブ王者に輝く。
オルテガはトップ下からのドリブル突破でクレスポ(10得点)とフランチェスコリ(6得点)のゴールを引き出し、南米制覇に大きく貢献。その活躍により南米年間最優秀選手に選ばれる。
アルゼンチン代表には93年に初招集され、12月の親善試合ドイツ戦でデビューを飾る。そして翌94年には、ほとんど代表での実績がないにもかかわらず、20歳でアメリカW杯のメンバーに選出された。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。マラドーナ率いるアルゼンチンは、G/L初戦でギリシャを4-0と一蹴。ベンチスタートのオルテガは後半83分、マラドーナとの交代でW杯初出場を果す。
続く第2戦もナイジェリアを2-1と下し、早くも1次リーグ突破を確定。前回のG/L初戦で躓いたアルゼンチンが今回は内容の良さを見せ、2大会ぶりの優勝に向けて好発進を切った。
だがこのナイジェリア戦後に行なわれたドーピング検査で、マラドーナの尿から違法薬物が検出。マラドーナは大会を追放され、大黒柱を失ったアルゼンチンは第3戦でストイチコフ擁するブルガリアに0-2の完敗。オルテガは負傷したカニーヒアに代わって26分に出場するも、手負いのチームを助けることは出来なかった。
トーナメント1回戦は初の先発出場。勢いを失ったチームは好調ハジ擁するルーマニアに2-3と敗れてしまうが、前線で何度もチャンスをつくったオルテガは、「ポスト・マラドーナ」として注目されるようになる。
94年W杯後、パサレラ新監督のもと95年のパンアメリカン競技大会優勝とキング・ファド・カップ(のちコンフェデレーションズカップ)準優勝に貢献。
そして96年7月にはアトランタ五輪に出場。オルテガは1次リーグで2得点を挙げるなどベスト8進出に貢献。準々決勝はスペインに4-0、準決勝はポルトガルに2-0とイベリアの強豪を次々と打ち破り、アルゼンチンが68年ぶりとなる決勝へ進んだ。
決勝の相手は「スーパーイーグル」の愛称を持つナイジェリア。開始3分、オルテガの縦パスからクレスポが抜け出し、折り返しをクラウディオ・ロペスが決めて先制。だが28分にババロヤのヘディングゴールを許し、1-1で前半を折り返す。
後半50分、クレスポのバスに抜け出したオルテガが倒されPKを獲得。これをクレスポが確実に決め、再びリードを奪う。しかし74分にアモカチのループシュートで追いつかれると、ロスタイム直前の90分にはアムニケに決勝ゴールを決められ逆転負け。惜しくも金メダルを逃してしまった。
それでも卓越した個人技でアルゼンチンの攻撃を牽引したオルテガは、世界の舞台でその実力を証明した。
97年2月、同郷出身のホルヘ・バルダーノが監督を務めるスペインのバレンシアに移籍。5年契約20億ペセタという、大きな期待を背負っての移籍だった。
そして移籍したバレンシアでは、シーズン途中からの加入ながら12試合7ゴールの好成績。オルテガはアルゼンチン代表の仲間であるC・ロペスとともに攻撃の中核を担った。
しかし翌97-98シーズンの序盤、チームの成績不振によりオルテガを呼んだバルダーノ監督が解任。後任のクラウディオ・ラニエリ監督とはプレー内容や練習への態度を巡って衝突し、レギュラーから外されてしまう。
「レギュラーじゃないのはこれが初めてだ。プレーをさせて貰えないなら、他に移るしかない」と憤慨するオルテガに、ラニエリ監督は「力はあっても練習嫌いときている。いつもだるそうにしていていて、今度のワールドカップに疲れを残さないため、手を抜いているんじゃないか」と応酬。チーム内で微妙な立場となったオルテガは記者とも口をきかなくなり、孤立を深めていった。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦の日本戦では、新しく10番を背負ったオルテガのパスからバティストゥータの決勝ゴールを演出。続く第2戦もオルテガの2得点1アシストの活躍に加え、PKを誘うプレーでジャマイカを5-0と粉砕。早々とG/L突破を決めた。
第3戦もオルテガのアシストでクロアチアを1-0と下し、G/L全勝でベスト16進出。トーナメント1回戦ではイングランドと対戦する。序盤にそれぞれがPKで1点ずつを取り合ったあとの16分、マイケル・オーウェンにスーパーゴールを決められ1-2のビハインド。だが前半終了直前にサネッティの得点で追いつき、同点でハーフタイムを折り返す。
後半立ち上がりの47分、シメオネに倒されたベッカムが報復行為で一発退場。これで優位に立ったアルゼンチンだが、イングランドの堅守を崩しきれずにPK戦に持ち込まれてしまう。それでもどうにかPK戦を4-3と制し、2大会ぶりとなるベスト8に進む。
準々決勝の相手はオランダ。開始12分にクライファートの得点でリードされたアルゼンチンだが、その5分後にC・ロペスが同点ゴール。試合は互いに譲らぬ熱戦となった。だが終盤に入った77分、オランダDFヌーマンが2枚目の警告で退場。流れはアルゼンチンに傾いた。
そして後半終了が近づいた87分、浅いDFラインをかいくぐってオルテガがドリブルでPAに侵入。スタムの出した足にオーバーアクションでダイビングした。主審からシミュレーションの判定を下されたオルテガは、その行為を咎めようと近づいてきたファン・デル・サールの顎に、立ち上がりざまの頭突きをお見舞い。レッドカードで退場となってしまう。
その直後の89分、ベルカンプの美技から決勝点を許して敗戦。オルテガの退場から流れが変わり、アルゼンチンは掴みかけた勝機を失ってしまったのである。この大会でチームの10番は2得点3アシストとそれなりの働きを見せるも、最後の愚行で全てを台無しにしてしまった。
99年にはマルセロ・ビエルサ新監督のもとでパラグアイ開催のコパ・アメリカに出場するが、若手のリケルメにポジションを奪われるなど、その存在感は薄れていった。
98-99シーズン、バレンシアとの契約を解除しイタリアのサンプドリアに移籍。サンプドリアでは27試合8ゴール7アシストと好成績を残すも、チームは16位に沈みセリエB降格。99-00シーズンはセリエAの新興勢力、パルマへ活躍の場を移す。
パルマで再開したクレスポとコンビを組んでイタリアスーパーカップ優勝に貢献するが、リーグ戦では今ひとつ精彩を欠き18試合3ゴールの成績。翌00-01シーズンは本人たっての希望もあり、古巣のリーベル・プレートに売却されることになった。
復帰したリーベルでは、アイマール、サビオラ、アンヘルといった若手とともに活躍。オルテガを含めた4人の強力な攻撃陣は「クアトロ・ファンタスティコス(ファンタスティック・フォー)」と呼ばれ、ファンを楽しませた。
若手3人は翌年それぞれ欧州のクラブへ引き抜かれるが、代わってダレッサンドロとカベナギの二人のFWが台頭。14ゴールを挙げたオルテガとのトリオで得点を量産し、01-02シーズンの前期シーズンを制覇する。こうして古巣で輝きを取り戻したオルテガは、02年W杯のメンバーにも選ばれる。
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。南米予選で圧倒的な強さを見せていたアルゼンチンは、前回王者フランスと並ぶ優勝候補と目されていた。チームの司令塔はボランチのベロンが担い、オルテガは攻撃のフリーマンとしての役割が与えられた。
G/L初戦はナイジェリアに1-0と勝利し、第2戦は前大会の因縁が残るイングランドとの戦い。ともに体をぶつけ合う激しい攻防戦が繰り広げられた前半の44分、DFボチェッティーノがオーウェンを倒してPK。これを前回対戦の汚名返上に燃えるベッカムに決められ、リードを許したままハーフタイムを折り返す。
アルゼンチンは後半開始、足首を負傷したベロンに代わってアイマールを投入。そのあともクレスポ、C・ロペスと次々に攻撃の駒を送り込んで反撃を試みるも、ゴール前を固めるイングランドの必死の抵抗に遭い、0-1の敗戦を喫する。
グループ突破を懸けた最終節の相手は、北欧の雄スウェーデン。ビエルサ監督は不調のベロン代わり、運動量に優れたアイマールを先発に起用。その狙いは当たり、オルテガ、アイマール、C・ロペスらが再三のポジションチェンジで相手を翻弄。攻撃の3人を中心に圧倒的にボールを支配した。
しかしスウェーデンの高い壁に好機を阻まれ、後半の59分にはセットプレーから失点。終了直前の88分にPKのこぼれ球を押し込んだC・ロペスのゴールでようやく追いつくが、猛攻実らず1-1の引き分け。アルゼンチンはグループ3位に沈み、優勝候補は早々と姿を消した。
29歳のオルテガはG/L3試合にフル出場したが、往年のスピードには衰えが隠せず、これといった見せ場もなく大会を去って行った。
02年10月、4年契約でトルコのフェネルバフチェへ移籍。しかし「最初の瞬間から、この国は自分に向いていないと気づいた」というオルテガは、トルコの環境に馴染めず半年で無断帰国してしまう。オルテガの契約違反に激怒したフェネルバフチェは、彼に多額の違約金を請求。騒動は泥沼化し、ついにはFIFAが介入する事態となる。
その結果オルテガには4ヶ月の公式戦出場停止処分が下され、フェネルバフチェへの違約金1100万ドルの支払いも課せられた。プレーへの意欲を失ったオルテガは現役引退を表明。しかし04年にプリメーラ・ディヴィシオンのニューウェルズがフェネルバフチェへ移籍金350万ドルを支払うことで和解が成立し、同年8月に現役復帰を果す。
06年にはリーベルの監督に戻ったパサレラ監督に呼ばれ、古巣へ2度目の復帰。だが長年のアルコール依存症でプレーは精彩を欠き、ピッチの外では飲酒運転による事故を何度も起こす始末。自動車事故で息子を亡くしていたパサレラ監督は、我が子のようにオルテガを心配したという。
07年、ディエゴ・シメオネがリーベルの監督に就任。練習中も酒の匂いを漂わせるオルテガに対し、シメオネ監督は「試合で使うわけにはいかない」と厳しい姿勢で臨む。それによりオルテガのチームでの居場所は奪われてしまった。
リーベルとの関係が悪化したオルテガは古巣を離れ、いくつかのクラブを渡り歩きながらリハビリ治療での再起を図るが、ついにアルコールを断ち切ることが出来なかった。
10年4月、マラドーナ監督に呼ばれてアルゼンチン代表へ7年ぶりの復帰。ハイチとの親善マッチを1試合だけプレーし、デビューから18年にわたる代表活動を終えた。代表では88試合に出場、17ゴールの記録を残している。
13年7月、def.ベルグラーノ(3部リーグ)でのプレーを最後に39歳で現役を引退。引退後はリーベルのアドバイザースタッフとして活動するなど、サッカーに関わり続けている。