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《 サッカー人物伝 》 ルート・フリット

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「縦横無尽の万能リベロ」ルート・フリット( オランダ )

類いまれな肉体的資質と柔軟なボールテクニックを併せ持ち、ドリブル、キック、パス、ヘディングと全てに高い能力を見せてフィールドを縦横無尽に駆け抜けた選手が、オランダのルート・フリット( Ruud Gullit )だ。

長いドレッドヘアーに均整のとれた186㎝の身体で「黒いチューリップ」の異名を持ち、チームに影響を与えるカリスマ性とインテリジェンスで存在感を発揮、キャプテンとしてオランダ代表を引っ張った。右ウィングまたは攻撃的MFとして数々のゴールを挙げながら、判断の良さと走力でゲームメイクやリベロもこなした万能選手だ。

ACミランではマルコ・ファン バステンフランク・ライカールトとともにオランダトリオを形成、クラブ黄金期を築く立役者となった。自身も87年にバロンドール賞を受賞、88年にはオランダ代表の一員として欧州選手権優勝に貢献するなど、80年代後半に輝かしい実績を残している。

ピッチを駆ける自由人

フリットは1962年9月1日、スリナム(旧オランダ領ギアナ)出身で教師の父親と、オランダ人の母親の間に生まれた。アムステルダムのハーレム地区で育ったフリットは、父親が元サッカー選手だったこともあって自然とボールに親しみ、8歳になると地元の少年チームで本格的なプレーを始める。

ボールのキープ力と突進力に優れ、周囲の子供たちよりひと回り大きかったフリット、年上との試合に起用され次々とゴールを決めていった。そして79年に1部リーグのHFCハーレムと契約を交わし、16歳でプロデビューを果たす。

さっそくフリットは新人らしからぬ存在感で活躍。3シーズンで91試合32得点の成績を残すとたちまち激しい争奪戦が起こり、82年に名門のフェイエノールトへ移籍する。ヨハン・クライフとプレーした83-84シーズンには主力として、リーグ優勝とカップ優勝の2冠達成に貢献している。

85年にはオランダリーグ3強の一角、PSVアイントホーフェンに移籍。ここでもフリットは68試合46得点の活躍でチームを85~87シーズンのリーグ連覇に導き、オランダ国内だけではなく世界中に「優勝請負人」としてその名を知られるようになった。

ポジションに縛られないフリットはフィールドを縦横無尽、ボールあるところに姿を現し強烈なシュートを叩き込んだ。また前線でも、ただボールを奪いに行くだけではなく、自軍の最終ラインまで追いかけ奪い返すと、直ちにチャンスへ繋げた。まさに強烈なプレーでピッチを駆け回るリベロ(自由人)だったのだ。

ミランのオランダトリオ

86年、ベルルスコーニが新オーナーとなり、アリゴ・サッキが監督に就任したACミランはチームを大改造、豊富な資金力で有力外国人選手の補強に乗り出す。そしてこの時アヤックスのファン バステンとともに白羽の矢を立てたのが、PSVのフリットだった。ミランはPSVに高額な移籍金を払い、オランダの「優勝請負人」を獲得する。

87年、ミランへ移ったフリットは1年目から大活躍、デビュー戦でゴールを挙げると、たちまち攻撃の核となってチームを引っ張った。ミランはマラドーナ擁するナポリをかわし、9年ぶりとなる87-88シーズンのスクデッドを獲得。フリットはその活躍が認められ、同年のバロンドール賞に選ばれた。

翌88-89シーズン、ライカールトがミランに入団。ここにオランダ・トライアングルが完成し、彼らの活躍でミランはチャンピオンズ・カップを20年ぶりに制覇、翌89-90シーズンも連覇を果たす。さらに89年と90年のトヨタカップも2年連続で制し、2000年代まで続くミランの黄金期が始まったのである。

オランダ 欧州選手権初優勝

代表には81年、19歳の時に初選出され、9月1日のスイス戦でデビューを飾った。だがこの時期オランダ代表が低迷期に入ってしまったため、フリットもWカップなどの大舞台を経験する機会に恵まれなかった。しかし88年、西ドイツで行われた欧州選手権にオランダが8年ぶりの出場を果たす。フリットは錚々たるメンバーの中で10番を任され、キャプテンも務めることになった。

オランダはファン バステンの活躍で決勝へ進出、欧州選手権の初優勝を懸けてソ連と戦うこととなった。試合前半の32分、右CKからのクリアを拾ったエルウィン・クーマンがクロス、それをファン バステンが頭で折り返す。そして浮いたボールをフリットが頭で突き刺し、オランダの先制点が生まれた。

そして54分にはファン バステンの伝説的ボレーシュートで2-0、オランダがソ連を下して初のビッグタイトルに輝いた。大会ヒーローの座こそファン バステンに譲ることになったが、フリットはチームを牽引するキャプテンとして優勝に大きく貢献したのである。

さらにフリットはサッカーだけではなく、音楽の世界でも活躍を見せるようになる。25歳のとき「レベレーション・タイム」というレゲエバンドを持ち、ボーカルとベースを担当、発売されたレコードはオランダでヒットした。彼のトレードマークであるドレッドヘアーは、ジャマイカ音楽とボブ・マーリーへのリスペクトだった。

ミランからの決別

こうして輝かしい実績を積み上げていったフリットだが、89-90シーズンに膝を故障、治療とリハビリのため1年を棒に振ることになる。どうにか90年のWカップ・イタリア大会には間に合ったが、万全からほど遠いコンディションで大舞台に臨むことになった。

優勝候補に上げられていたオランダだが、不協和音が響くチームの戦いは低調、3引き分けでようやく1次リーグを勝ち上がった。決勝T1回戦では宿敵西ドイツと対戦、乱戦の末1-2と敗れてしまう。1次リーグのアイルランド戦で1点を挙げたフリットだが、不完全燃焼のまま大会を去ることになった。

91年、サッキに替わりファビオ・カペッロがACミランの監督に就任。制約が多いカペッロの戦術に、フリーなプレースタイルを求めるフリットは反撥。ただでさえ怪我で苦しんでいた中、次第に彼の出場機会は減っていった。

93年6月、契約満了を待たずにミランから中堅クラブのサンプドリアへ移籍。自由なプレーを取り戻したフリットはチームの中核を担い、リーグ3位への躍進とコパ・イタリア優勝に貢献した。その活躍で94年にミランへ復帰するが、結局出場機会を与えられずに2ヶ月後サンプドリアへ戻っている。

代表ではスウェーデンで開催されたユーロ92に出場、前回王者のオランダはベスト4に留まった。それからしばらくフリットは代表から遠のくが、94年のWカップ直前に招集を受ける。しかし監督のアドフォカートとは意見が合わず、チームに内紛が起きたこともあって、大会1ヶ月前の合宿中に代表を辞退した。代表では64試合に出場、17ゴールの記録を残している。

プレミアリーグでの活躍

95年にはプレミアのチェルシーへ移籍、ここではDFとしてリベロを務めている。翌年にはクラブの指揮官グレン・ホドルがイングランド代表監督に就任したため、フリットがプレーイング・マネージャーとして後任を引き受けることになった。

その1年目となる96-97シーズンにはヴィアリ、ゾラ、ディ・マティオら、イタリア代表級の選手が入団。フリット率いるチェルシーは、27年ぶりとなるFAカップ優勝を果たした。

そのシーズン終了後、34歳で現役を引退。翌97-98シーズンは専任監督としてチームを指揮した。しかしフロントとのトラブルでクラブから解任、98年にニューカッスルの監督となる。ニューカッスルでは「セクシー・フットボール」を掲げて戦うが、成績は振るわず1年の短命政権に終わった。

その後しばらく解説者を務め、04年に古巣フェイエノールトの監督に就任、当時若手のディレク・カイトや小野伸二を指導した。だがここも1年で辞任、07年にはMLSロサンゼルス・ギャラクシーの監督を務めるも、やはり良い成績を収められずに終わってしまった。

現在はテレビコメンテーターとして活躍中。風貌はすっかり変わってしまったが、あの強烈なプレーは今も人々の記憶に残っている。

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