「 最強アヤックスの10番 」 ヤリ・リトマネン ( フィンランド )
サッカー協会設立1907年という古い歴史を持ちながら、いまだワールドカップや欧州選手権の舞台を踏んだことがない( ユーロ2020が初出場 )北欧の小国フィンランド。そんな小国の出身ながら名門アヤックスの10番として世界を制し、フィンランド史上最高の選手と謳われたのが、ヤリ・リトマネン( Jari Olavi Litmanen )だ。
非凡な技術に加えて優れた判断力を持ち、トップ下の位置でドリブル、パス、シュートを的確に使い分けてチームを牽引、ゴールゲッターとしても活躍した。そしてルイ・ファン ハール監督率いる「最強アヤックス」の中核を任され、95年のスーパーカップ、チャンピオンズ・リーグ、トヨタカップ優勝の3冠を達成、その名を世界に響かせた。
その後ボスマン判決の影響で「最強アヤックス」が崩壊、同時にリトマネンのキャリアも下降線を辿ってしまったが、依然としてフィンランド最高の選手という称号に変わりはない。
1971年2月20日フィンランドのラハチに生まれたリトマネンは、幼い頃からアイスホッケーとサッカーに親しんで育った。両方で優秀なプレイヤーと認められるようになるが、元フィンランド代表選手だった父親の意志を継ぎ、15歳の時にプロを目指してサッカーへ専念する。
87年、かつて父親がプレーしていたレイパス・ラハチに入団。卓越したテクニックとサッカーセンスを持つリトマネンは、ストライカーとゲームメイクを同時にこなす高い能力を見せた。
すると89年に19歳でフル代表に招集され、10月22日のトリニダード・ドバコ戦でデビューを飾る。そして90年にはトップ下の位置でリーグ戦14ゴールを挙げて、フィンランドの年間最優秀選手に選ばれた。
91年にフィンランド最大のクラブHJKヘルシンキへ移籍、ここでも16ゴールを挙げる活躍で注目される。92年には移籍したMyPaでフィンランド・カップ優勝に貢献、その存在が国外にも知られるようになり、92年にオランダの名門アヤックスへの移籍を果たした。
移籍1年目は控えに甘んじることになったリトマネンだが、エースのベルカンプがインテルに移籍した93年に彼の10番を引き継いでレギュラーを獲得。中盤のどこでもこなせるポリバレントな能力をファン ハール監督に重用されるようになる。
91年にアシスタントコーチからアヤックスの監督となったファン ファールは、経験は浅いが伸びしろのある選手をどんどん引き上げ育てていった。ここで鍛えられたのが、ファン デルサールやデブール兄弟、そしてダーヴィッツ、セードルフ、クライファートら将来性のある若手選手たちである。
平均年齢23歳に満たない若いチームだったが、リトマネンはベテランのライカールトとともに、3-4-3のフォーメーションを敷くダイアモンド型の中盤を牽引する。そして93-94シーズンに26ゴールの活躍で得点王、アヤックス4シーズンぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
翌94-95シーズンもアヤックスはリーグを連覇。全員がマルチな能力を発揮し躍動するアグレッシブな軍団は連勝を重ね、ファン ハール監督率いるチームはクライフ時代に匹敵する「最強アヤックス」と呼ばれるようになった。
欧州チャンピオンズ・リーグにも3年連続の出場、(それまでのチャンピオンズ・カップから規模を拡大し、93年にチャンピオンズ・リーグとなっている)決勝でACミランを1-0と下し、クライフが君臨した71~73年以来の欧州クラブ王者に輝く。決勝では途中交代となってしまったが、6ゴールを挙げたリトマネンは隠れなき優勝の立役者だった。
95年11月、アヤックスは東京の国立競技場で行われたトヨタカップに出場、世界1クラブの座を懸けてフェリペ・スコラーリ率いるブラジルのグレミオと戦う。ファン ハールはクライファート、オーフェルマルス、フィニディ・ジョージと持ち味の違うアタック・トリオを前線に配置、それをリトマネンがコントロールする攻撃的布陣を敷いた。
だがピッチコンディションの悪さに阻まれ、得意のパスワークが生かせないアヤックス。ボールは支配するものの、なかなかチャンスまでに繋がらないでいた。リトマネンもグレミオのハードマークに悪戦苦闘、効果的な仕事が出来ないままでいた。
それでも56分、クライファートからのこぼれ球をリトマネンが拾い絶好のシュートチャンス。しかし薄い芝と硬い地面に引っかかってミスキックとなり、ボールは力なくGK正面に飛んでいく。最大の好機を逃したアヤックスは連戦の疲れから運動量が次第に少なくなり、終盤にヌワンコ・カヌーを投入して挽回を図るも空回りするだけだった。
膠着状態に入った試合は延長120分を戦って0-0のスコアレス、勝負はPK戦にもつれた。結局PK戦でグレミオを4-3と振り切ったアヤックスが世界1クラブの称号を手にしたが、ファン ハール監督は試合後の記者会見で国立競技場のピッチ状態の悪さに不満と怒りを爆発させている。
翌95-96シーズン、アヤックスはエール・ディヴィジを3連覇。その勢いでチャンピオンズ・リーグも2年連続で決勝へ勝ち上がり、欧州の王座を懸けてユベントスと戦った。前半12分、DFフランク・デ・ブールとGKファン デルサールの連携ミスから失点、前回王者アヤックスは苦しい立ち上がりとなる。
しかし41分、F・デブールのFKがGKに弾き返されたところを、リトマネンが素早く反応してシュート、1-1の同点とした。だが延長を戦っても勝負はつかずPK戦に突入、結局アヤックスは2-4と敗れチャンピオンズ・リーグ2連覇はならなかった。
それでもアヤックスはユベントスとの決勝に敗れるまでチャンピオンズ・リーグ19連勝を達成、9ゴールを挙げたリトマネンは、95-96シーズン大会の得点王に輝いた。
97-98シーズンもリーグ優勝を果たして最盛期を迎えたアヤックスだが、95年12月に下された「ボスマン判決」の影響によりそれも終焉の時を迎える。それまでクラブ有利の契約と外国人出場枠制限に縛られていた選手の移籍が、EU圏内では事実上自由となったため、若い才能の宝庫だったアヤックスはビッグクラブの草刈場となってしまったのだ。
そして97年にフアン ハールがバルセロナに引き抜かれると、監督のラブコールを受けたリトマネンも99年にセロナへ移籍する。だがバルセロナでは戦術にフィットせず出番は減少、01年にはプレミアのリバプールへ活躍の場を移した。だがここでも故障や選手層の厚さで機会に恵まれず、ベンチを温める日々を過ごすことになる。
02年、アヤックスへ復帰。その後いくつかのクラブを渡り歩き、08年には故郷ラハチに舞い戻って2シーズンプレーする。そして11年、40歳になったリトマネンは古巣のHJKヘルシンキで1シーズンを過ごし、そこを最後に現役から退いた。
代表では21年のキャリアで137試合に出場して32得点。今のところこの記録に迫るフィンランド選手は現れていない。