映画監督 森﨑 東さん 死去

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人情喜劇の名手

「時代屋の女房」や「ペコロスの母に会いに行く」などで知られた森﨑 東(もりさき・あずま)監督が16日午後10時15分、脳梗塞のため神奈川県茅ヶ崎市内の病院で死去した。

6月24日に意識不明となり入院、小康状態が続いたが16日に夜帰らぬ人となった。享年92歳。庶民の反骨精神、たくましさをユーモラスに描き続けた人情喜劇の名手だった。

亡くなった兄の影響

森﨑 東さんは1927(昭和2)年11月19日に長崎県島原市で生まれ、小学校のときに大牟田市へ移った。3つ上の兄・湊さんと同じ大牟田市立商業学校に通ったが、兄が開校以来の秀才といわれていたのに対し弟の東さんはいつもビリのほうの成績だった。

東さんが2年生の新学期のとき、5年生の級長だった兄の湊は「われわれは何のために学問をするのか」というようなことを新入生に向かって大声で演説を始め、「恐れ多くも天皇陛下のためであるぞ」と叫んだそうだ。またある日、彼の履いていた学校指定の革靴が盗難に遭い、それ以来一切靴を履かず裸足にゲートルを巻いて登校したというエピソードもある。

それを見た配属将校が諫めると、湊はダーと走って行ってその将校をぶん殴り、校長のところへ行ってもう学校を辞めますと宣言、そのあと廊下に居座ったと言われる。まさに天才と狂気の紙一重のような人物であり、東さんは兄が何をやらかすかといつもビクビクしていたそうだ。

だが日本の敗戦が決まった1945年8月16日の未明、海軍少尉候補生だった湊は、三重海軍航空隊にほど近い香良州海岸において割腹自殺してしまう。湊の死は東に大きなショックを与え、兄への消えないコンプレックスが監督になっての映画作りに影響を与えることになった。

『男はつらいよ 』へのかかわり

その後森﨑は3浪の末、旧制熊本第五学校(現、熊本大学)に進み、そこで1年学んだあと京都大学に入学した。そして新聞部に入って『学園新聞』の編集を担当、この時映画人の座談会を企画したことが映画界入りのきっかけとなった。

京都大学卒業後は映画雑誌『時代映画』の編集に携わり、58年に試験を受けて松竹京都に入社、主として大曽根辰保監督についたが、やがて京都撮影所は閉鎖となって大船に移った。そこでついた野村芳太郎組のチーフ・山田洋次が監督として一本立ちすると、年上ながら東さんは助監督となり「なつかしい風来坊」からシナリオにも協力するようになった。

監督第一作は69年の『喜劇・女は度胸』。また “男はつらいよ” シリーズ初期2作に脚本参加し、70年のシリーズ第三作目『男はつらいよ フーテンの寅』の監督も担当している。山田洋次監督が綺麗にまとめた作り方をするのに対し、森﨑監督は過剰に風刺を効かせてしまう傾向があり、寅さんに立ち小便をさせるなど型破りな描き方が会社に嫌われこの1作でシリーズから外された。

フリー転向

その後『喜劇・女は男のふるさとヨ』、『喜劇・女生きてます』(71年)などのコメディーを手がける。しかし作品はあまりヒットせず、ジョッキで小便を飲ませるなどの汚いシーンが松竹の伝統精神に反すると撮影所所長・城戸四郎の逆鱗に触れ、75年に監督契約を打ち切られてしまった。

フリー転向後はATG映画などで作品を発表していたが、83年に夏目雅子が神秘的な女を演じた『時代屋の女房』がスマッシュヒット、そのあと『ロケーション』(84年)『塀の中の懲りない面々』(87年)などを手がけ、96年の『美味しんぼ』も三國連太郎・佐藤浩市の親子初共演で話題となった。

しばらく低迷期はあったが、04年の『ニワトリはハダシだ』で再評価される。遺作となった13年の『ペコロスの母に会いに行く』では、認知症の母と息子の日常をペーソスに包んで描き、キネマ旬報第1位など国内の映画賞を数々受賞、当時89歳だった赤木春恵さんに毎日映画コンクール女優主演賞をもたらしている。

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