《 サッカー人物伝 》フランツ・ベッケンバウアー(前編)

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「カイザーの戴冠」 フランツ・ベッケンバウアー ( 西ドイツ )

卓越した戦術眼とエレガントなプレーで、リベロのポジションに革命的なスタイルを確立。バイエルン・ミュンヘン、そして西ドイツ代表の「カイザー(皇帝)」としてチームに君臨し、あらゆる栄冠を手にしたフットボール界の巨星が、フランツ・ベッケンバウアー( Franz Anton Beckenbauer )だ。

スイーパーとしての役割を果たしながら、チャンスと見るや攻撃のオーガナイザー(旗振り役)に変身。フィールドの最後尾から攻め上がると、中盤でのボール回しで試合を展開、機を窺いながら決定的なパスを送って得点を演出した。

優れたキャプテンシーでチームを統率したベッケンバウアー。4度のブンデス・リーガ優勝とドイツカップ優勝、UEFAチャンピオンズ・カップ3連覇、インターコンチネンタル・カップ優勝、さらに西ドイツを率いて欧州選手権とワールドカップを制するなど、栄光に満ちたキャリアでペレと並ぶレジェンドとなった。

青年の過ち

ベッケンバウアーはドイツ敗戦後間もない1945年9月11日、ミュンヘン南東部にあるギーシングで生まれた。54年、西ドイツがWカップ・スイス大会で初優勝、英雄フリッツ・ヴァルターに憧れた8歳のフランツ少年は、地元クラブの下部組織に入団して本格的にサッカーを始めた。

58年、バイエルン・ミュンヘンに誘われユースチームでプレー、この頃は攻撃的な選手として沢山の得点を記録している。60年、ギムナジウム(義務教育機関、日本でいう中学校)を卒業したベッケンバウアーは保険会社に就職、社会人見習いとしての生活を送りながらバイエルンでプレーを続けた。

西ドイツの全国プロリーグ「ブンデスリーガ」が発足したのは62年、それまではアマチュアの地域リーグしかなく、選手は本業をこなしながら試合を行っていた。またドイツでは義務教育を終えると、すぐに専門課程に進むか職人見習いを始めるなどして、上級職やマイスターを目指すのが一般的だった。

保険会社で見習いをしていたベッケンバウアー、17歳のとき交際していた同僚女性との間に子供が生まれる。その女性とは別れてしまったため未婚で子供を育てることになったが、このことがユース選手権代表選考の際に問題となる。当時サッカー連盟のユース委員は学校教育者の面々が務めており、未婚の子持ちをユース代表入りさせることに反対の声が挙がったのだ。

そんなベッケンバウアーの窮地を救ったのが、ドイツサッカー界の重鎮ゼップ・へルベルガーと、彼の愛弟子でユース代表監督だったデットマール・クラマーである。彼の将来性を高く買っていた二人の指導者は「若い者には過ちもあるが、未来もある」と青年を擁護、委員会を説得して代表入りを承認させた。

バイエルン・ミュンヘンの台頭

そして教育係となったクラマーがベッケンバウアーを指導、まだ粗削りだった若者に基礎を叩き込み、リーダーたる土台を作り上げた。そしてクラマー監督に率いられたユース代表は、64年3月からオランダで始まった欧州ユース選手権に出場する。

ベッケンバウアーがゲームメイカーを務めた西ドイツ代表はG/Lでオランダと対戦、1-3と地元チームに敗れてしまった。この時オランダ代表の中心にいたのはヨハン・クライフ、のちにライバルとなる男との最初の対戦だった。

64年6月、バイエルンのトップチームに昇格。ユーゴ人監督チャイコフスキーは、フィジカルの弱かったベッケンバウアーにトレーニングを課し、タフなシーズンを闘い抜ける選手に鍛えた。最初の頃はCFとしてプレーしていたベッケンバウアーだが、怪我をした選手の代役としてCBを務めることになる。

だがベッケンバウアーは守備だけに飽き足りなくなり、しばしば前線に駆け上がって攻撃に参加する。最初の頃そのプレーを注意していたチャイコフスキー監督だが、結果が出だすと「思うがまま自由に続けなさい」と認めるようになった。

64-65シーズンには主力として31試合に出場、16ゴールを挙げクラブの1部リーグ昇格に貢献する。当時のバイエルン・ミュンヘンは、ドイツの最古参クラブ「1860ミュンヘン」に人気・実力とも遅れをとっており、62年のブンデスリーガ発足時には参加クラブに選ばれていなかったのだ。

翌65-66シーズンにはドイツカップ優勝、まだ中堅チームに過ぎなかったバイエルン・ミュンヘンだが、チャイコフスキー監督のもとベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ゼップ・マイヤーら若手が台頭、欧州屈指の強豪クラブへと変貌を遂げていくことになる。

ワールドカップデビュー

65年9月26日に行なわれたWカップ欧州予選のスウェーデン戦でA代表デビュー。この試合で2-1と勝利を収めた西ドイツは、Wカップ本大会への出場を決めた。このまま代表に定着したベッケンバウアーは、66年Wカップ・イングランド大会のメンバーに21歳で選ばれる。

代表では中盤に起用されベッケンバウアーは4ゴールの大活躍、好調西ドイツも決勝へ進んだ。賜杯を争う戦いは地元イングランドとの対決。西ドイツのヘルムート・シェーン監督は、準決勝のポルトガル戦で2ゴールを挙げたボビー・チャールトンを警戒し、ベッケンバウアーをマーカーとしてつけた。

大熱戦となった決勝だが、延長に入ってハーストによる疑惑のゴールが生まれ、イングランドが西ドイツを4-2と下して初優勝を果たした。ベッケンバウアーの攻撃力を犠牲にしてマーカーに廻したことは、結局作戦として失敗だったと言われている。

66-67シーズン、バイエルンはドイツカップを連覇。その勢いで、カップ戦王者として出場したカップウィナーズ・カップにも優勝した。そして68-69シーズンにブンデスリーガを初制覇、大黒柱となったベッケンバウアーはチームの強さを象徴する存在だった。

「アステカの死闘」

70年、Wカップ・メキシコ大会に出場。するとバイエルンの同僚ゲルト・ミュラーが大爆発、G/L7得点の活躍で西ドイツは準々決勝へ進んだ。準々決勝の相手は、前回の決勝で因縁を残したイングランドだった。

試合は後半の中頃までイングランドが2-0とリードするが、68分にベッケンバウアーが鮮やかなドリブルからのシュート、1点差として反撃を開始した。76分にウーベ・ゼーラーの同点弾が決まり延長へ突入、108分にミュラーの決勝点が生まれ、イングランドに3-2と勝利して4年前の雪辱を果たした。

そして準決勝はイタリアとの対戦、のちに「アステカの死闘」と呼ばれる歴史的勝負となった。試合は開始早々の8分にイタリアが先制。連戦で疲れの見える西ドイツは、後半に入ると2人の選手を入れ替えた。だがその直後にベッケンバウアーが肩を脱臼。西ドイツが既に2人の交代枠を使い切っていたため、ベッケンバウアーは包帯で腕を固定してプレーを続ける。

後半ロスタイムに入った92分、西ドイツのシュネリンガーが起死回生の同点ゴール、試合が延長に入ると一転して壮絶な点の取り合いとなった。そしてミュラーのゴールで3-3となった直後の111分、リスタートからジャンニ・リベラが一瞬の隙を突いて決勝点。リベラの前にはベッケンバウアーがいたが、満身創痍の彼に得点を阻止する力は残っていなかった。

欧州選手権初優勝

チャンピオンズ・カップには69-70シーズンに初出場、だがこの時は1回戦で敗退を喫してしまう。71-72シーズンにブンデスリーガ2度目の優勝、翌シーズンのチャンピオンズ・カップに再チャレンジすることになった。

72年、西ドイツは欧州選手権決勝大会に初出場、前年にキャプテンとなっていたベッケンバウアーがリベロとして代表を引っ張った。敵地ウェンブリー・スタジアムで行われた準々決勝のイングランド戦、ベッケンバウアーは深い位置から前線のギュンター・ネッツァーと交互にゲームを組み立て、フィジカル一辺倒の相手を翻弄する。

こうしてイングランドに3-1と快勝、準決勝では開催国ベルギーを2-1と下し決勝へ進む。そして決勝でもソ連を3-0と一蹴、西ドイツは圧倒的な強さで欧州選手権を初制覇した。ベッケンバウアーはこの大会の活躍で、バロンドール賞を獲得する。

欧州選手権の優勝メンバー6人を擁するバイエルンは対戦相手にも恵まれて、72-73シーズンのチャンピオンズ・カップを順調に勝ちあがった。だが準々決勝で彼らの前に立ち塞がったのが、大会2連覇中のアヤックスとトータルフットボールの申し子、ヨハン・クライフだった。ベッケンバウアーとクライフの対決は、ヨーロッパ中の注目を集めることになる。

ライバル、クライフとの対決

第1レグ、アウェーのバイエルンはまず守りを固め、前半を0-0で終えた。しかし縦横無尽に動くクライフに掻き回された後半の54分、GKマイヤーが弾いたボールをハーンが押し込み、アヤックスに先制される。さらに69分、ベッケンバウアーが痛恨のミス、追加点を許してしまう。

直後にハーンがCKを直接ゴールに蹴り込み0-3、そして終了直前の88分には、突如ゴール前に現れたクライフがヘディングシュート、とどめを刺す4点目となった。試合は0-4でバイエルンが完敗、アウェーゴールも奪えず、もはや勝ち上がりは難しくなってしまった。

ホームでの第2レグはクライフが負傷を理由に欠場、バイエルンは2-1と一矢を報いたが、トータル2-5で敗退が決定した。勝ち上がったアヤックスは準決勝でレアル・マドリードを退け、決勝ではユベントスに1-0と勝利、チャンピオンズ・カップ3連覇を達成する。

72-73シーズン、バイエルンはブンデスリーガを2連覇、翌73-74シーズンのチャンピオンズ・カップに3たび挑戦する。そして決勝でアトレティコ・マドリードを再試合の末4-0と破って、ついに念願の欧州クラブ王者となった。このあと今度はバイエルンがチャンピオンズ・カップ3連覇を成し遂げることになる。

転機となった東ドイツ戦の敗北

74年6月、Wカップ・西ドイツ大会が開幕。優勝を義務づけられた開催国の重圧に加え、チームにゴタゴタを抱えた西ドイツは、不調に悩みながらも1次リーグを連勝、最終節を待たずに2次リーグ進出を決めた。そして1次リーグの組み分けを決める順位戦となった最終節の相手は、公式試合で初の対戦となる東ドイツだった。

ドイツ中の注目を集めた試合は、後半途中まで0-0の展開。このまま引き分けに終わるかと思えたが、77分に東ドイツが絵に描いたようなカウンター、1点を奪うとそのまま逃げ切り優勝候補の西ドイツを1-0と下した。こうして不覚をとった西ドイツは、グループ2位で2次リーグに進むことになった。

ベッケンバウアーはこの敗戦について後に、「我々はそこで恥を晒し、このままでは先に進めないことを悟った」と述懐することになる。代表監督のシェーンは優れた戦術家だったが、慎重過ぎるうえに臆病、選手をまとめきれずにいた。そんな状況に危機感を覚え、選手たちはベッケンバウアーを中心に結束するようになる。

東ドイツ戦の敗戦は国民をがっかりさせたが、結果的に選手の目を覚ませることになった。また1次リーグ2位になったことが、却って西ドイツに幸いする。

2位で2次リーグB組に入った西ドイツの対戦相手は、ポーランド、スウェーデン、ユーゴスラビア。もし1位で勝ち上がってA組に入っていたら、オランダ、ブラジル、アルゼンチンといった強敵との組み合わせになっていた。

チームを掌握したベッケンバウアーは、ヘルツェンバインやボンホフといった若手の起用を進言。結局この用兵が大当たりすることになる。一方、72年の欧州選手権で活躍したネッツァーはベンチから外されることになった。

ベッケンバウアーは、細かいパス繋ぎを得意とするオベラートとの連携で攻撃を組み立て、B組を全勝で抜けて決勝に勝ち進んだ。一方のA組ではオレンジ軍団オランダが、アルゼンチンに4-0、東ドイツに2-0、ブラジルに2-0と圧倒的な強さを見せ、決勝で西ドイツと雌雄を決することになった。

カイザー戴冠

試合はオランダのキックオフで開始。ゆったりしたボールを回しから、クライフがあっという間に西ドイツ陣内を切り裂きペナルティー・エリアに侵入。するとたまらずウリ・ヘーネスがファールを犯し、PKを告げる笛が吹かれた。

これをニースケンスが沈めオランダが先制、まだ試合開始から1分も経っておらず、西ドイツはボールにさえ触っていなかった。しかしこれで気が緩んだのか、オランダの攻撃が停滞し始める。だがフォクツのマンマークに身動きが取れなくなっていたクライフが、カウンターのチャンスからフリーとなってドリブルで攻め上がってきた。

その前に立ちはだかったのは、西ドイツのキャプテン、ベッケンバウアーだった。クライフと1対1になったベッケンバウアーは、二人の距離を保ちつつドリブル突破を阻止。そこでクライフが左サイドを走るヨニー・レップにパスを送るが、GKマイヤーの飛び出しで未然にピンチを防いだ。

25分、オランダ陣営に切り込んだヘルツェンバインがペナルティーエリアで倒され、今度は西ドイツがPKを得る。キッカーのブライトナーが確実に決め1-1、試合は振り出しに戻った。43分、ボンホフが中盤から抜け出し右サイドを突破、そこからのクロスを中央で受けたミュラーがトラップミスするが、素早い反転でボールを捉え逆転弾を叩き込んだ。

後半オランダは反撃を開始、防戦一方となった西ドイツはベッケンバウアーを中心に相手の波状攻撃を凌ぎ、ついに2-1と逃げ切った。旋風を起こしたライバルのクライフに打ち勝ち、最後のビッグタイトルを手にしたベッケンバウアー、「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」の言葉とともに優勝トロフィーを掲げた。

後編「皇帝の栄光と落日」に続く

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