「 皇帝の栄光と落日 」 フランツ・ベッケンバウアー ( ドイツ )
前編「カイザーの戴冠」より続く
フランツ・ベッケンバウアーが君臨するバイエルン・ミュンヘンは、71-72シーズンからブンデスリーガ3連覇、欧州チャンピオンズ・カップでも72-73シーズンから3年連続制覇を果たし、欧州にその名を轟かせる強豪クラブとなった。
欧州王者として出場権を得たインターコンチネンタル・カップ(のちのトヨタカップ。ホーム&アウェーで行われていた)は、過激なサポータで知られるアルゼンチンでの危険な試合を回避し、2年連続で辞退する。ようやく76年にブラジルのクルゼイロと対戦、南米王者を下して初のクラブ世界一に輝いた。
76年、予選ラウンドを突破し、ユーゴスラビアで開催された2度目の欧州選手権本大会に出場。2大会連続で決勝に勝ち上がるが、伏兵チェコスロバキアにPK戦で敗れ準優勝に終わってしまった。翌77年、ベッケンバウアーは2月27日のフランス戦を最後に、32歳で代表を退いた。
12年の代表歴ではAマッチ103試合に出場、14得点を記録し、50試合でキャプテンを務めている。そして3回出場したWカップでは中心選手として優勝、準優勝、3位をそれぞれ経験。2回出場した欧州選手権では優勝と準優勝に貢献するなど、輝かしい実績を残した。
76-77シーズン、バイエルンはリーグ戦を7位で終え、連覇を続けていたチャンピオンズ・カップもベスト8止まりとなる。全てのタイトルを手にした選手たちは、目標を失ってしまったのだ。それはベッケンバウアーも同じことで、30歳を過ぎてからモチベーションの低下に悩むようになっていた。
77年5月、ベッケンバウアーは長年プレーしたバイエルン・ミュンヘンを離れ、北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスへ移籍する。皇帝が新天地を選んだのはモチベーションを取り戻すという理由もあったが、所得隠し、離婚、新恋人といった私生活の問題でマスコミにバッシングされ、静かな環境を求めたのだった。
ニューヨーク・コスモスではペレと1年間プレー、中盤で活躍したベッケンバウアーはチームを北米チャンピオンに導き、選手投票でMVPにも選ばれた。80年にハンブルガーSVに移籍、3年ぶりに西ドイツに戻った。
しかしこの頃から相次ぐ怪我に苦しむようになり、83年にニューヨーク・コスモスへ復帰、ここで1年を過ごし38歳で現役を引退した。19年のプロ生活で公式戦587試合に出場し81ゴール、数々のタイトルをクラブにもたらし、個人でもバロンドール賞2回、ドイツ年間最優秀選手賞に4回輝いている。
84年、フランスで行われた欧州選手権本大会で西ドイツはG/L敗退を喫する。その責任をとって辞任したデアヴァル監督の後任として、ベッケンバウアーが選ばれた。この時ベッケンバウアーは監督ライセンスを持っていなかったが、チームの統括責任者として代表を指揮することになった。
ベッケンバウアー率いる西ドイツは、86年のWカップ・メキシコ大会に出場。エース、ルンメニゲのコンディション不良やチーム内の派閥争いで1次リーグは苦戦、最終節ではエルケーアとミカエル・ラウドルップの強力2トップを擁し、「ダニッシュ・ダイナマイト」旋風を起こしたデンマークに0-2の完敗を喫してしまう。
それでもグループ2位で決勝Tに進出、第1回戦ではマテウスのFKでモロッコを1-0と打ち破り、準々決勝では地元メキシコをPK戦で退けて準決勝へ進む。そして準決勝ではプラティニ率いるフランスと対戦する。それまで好調とは言えなかった西ドイツだったが、激戦続きで疲労が隠せないフランスを2-0と撃破、強敵を下して2大会連続の決勝へ進んだ。
決勝ではアルゼンチンにリードされるが、後半に追いついて2-2、西ドイツがさすがの粘りを見せた。しかし最後はマラドーナのスルーパス一本にやられ、惜しくも優勝を逃してしまった。だが決して下馬評の高くなかったチームを、ベテラン中心の堅実な戦いで決勝戦に導いたベッケンバウアーの手腕は高く評価された。
88年に行われた自国開催の欧州選手権では、ミラントリオを擁するオランダと準決勝で対戦。ファン バステンによる決勝ゴールの前に惜しくも1-2と敗れてしまったが、新鋭クリンスマンがレギュラーに定着するなど着実に新旧交代が進む。
90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕する。1次リーグの初戦では、マテウス、クリンスマン、フェラーのゴールでオシム監督率いるユーゴスラビアを4-1と一蹴、第2戦もUAEに対し5-1と力の違いを見せつけた。最終節は無理をせずコロンビアと1-1の引き分け、順調にG/L1位で決勝Tに勝ち上がった。
決勝T1回戦はライバル、オランダとの対戦だった。試合はフェラーとライカールトが揉み合いから両者退場になる波乱の展開。フェラーの人種差別発言に怒ったライカールトが頭に唾を吐きかけ、その場面がテレビに映されてしまうという醜態を晒してしまう。
ゲームは白熱化するが、攻守の要を失ったオランダのダメージは大きく、51分にクリンスマンのゴールで西ドイツが先制。82分にはブレーメが追加点を決め、オランダの反撃をPKの1失点に抑えてベスト8へ進んだ。
最難関の相手を倒した西ドイツは準々決勝でチェコスロバキアをマテウスのPKで退け、準決勝では延長PK戦の末にイングランドを破った。こうして3大会連続で決勝に進んだ西ドイツは、前回の雪辱を果たすべくアルゼンチンと戦う。
アルゼンチンはカニーヒアら4人の主力が累積警告で出場停止、頼みのマラドーナも脚の故障に苦しみ、万全の状態とは言えなかった。試合はキックオフから西ドイツの一方的展開、ブッフバルトがマラドーナの動きを完全に封じ、FKによるシュート一本のみに抑えた。
圧倒的に押し込む西ドイツだが、堅い守備に阻まれ攻めあぐねてしまう。68分、モンソンがクリンスマンを倒して退場。1人少なくなったアルゼンチンはさらに守りを固め、一発カウンター狙い、もしくはPK戦に持ち込む作戦に出た。
そしてゲームが延長に入るかと思えた85分、フェラーがペナルティーエリアで倒され、主審がゴールを指し示す。重大な局面となったが、キッカーを務めるはずだったマテウスが責任の重さに怖じ気づいてしまった。
代わりに大役を譲られたブレーメが冷静にシュート、今大会PKを止め続けた守護神ゴイゴチェアの指先をかすめ、ボールはゴールネットを揺らした。このあとアルゼンチンはもう1人退場者を出して試合は1-0で終了、西ドイツがWカップ3回目の優勝を果たす。大会後には東西ドイツが統一、西ドイツ代表は有終の美を飾った。
監督ベッケンバウアーが作り上げたのは、高度な戦術をこなす精密機械のようなチーム。そこに創造性や芸術性はなくても、勝つことに徹したリアリズムの集団だった。こうしてベッケンバウアーはブラジルのザガロに続く、選手と監督の両方で栄冠を手にした人物となった。
このあとベッケンバウアーはオリンピック・マルセイユの監督を1年務め、91年に古巣バイエルン・ミュンヘンの副会長に就任。そして94年に会長となったが、同時に代理監督としてチームを指揮し、93-94シーズンにはブンデスリーガ優勝を果たした。また96年にも再び代理監督となり、UEFAカップを制する。
98年、 DFB (ドイツサッカー連盟)副会長に就任、Wカップ大会のドイツ招致に尽力する。2000年にはWカップ組織委員会委員長として、06年Wカップ・ドイツ大会を成功に導いた。既にこの頃には次期FIFA会長、あるいはUEFA会長候補として有力視されるようになっていた。
選手として、指導者として、そして組織の運営者として、サッカー界で栄光に満ちた歩みを続けていたベッケンバウアー。しかしそんな彼の人生に暗雲が漂い始める。05年、諸事情でUEFA会長選を辞退、09年にはバイエルン・ミュンヘンの会長を辞して名誉会長に退いた。10年にはFIFAの理事も退任、あとは悠々自適の余生を送るはずだった。
15年10月、06年のWカップ招致活動を巡りDFBの不正疑惑が浮上する。DFBがアディダス社CEOに借りた巨額の資金が、FIFA理事4人への買収に使われたという報道がなされたのだ。2000年に行われた投票ではドイツが南アフリカを僅差で破り招致を決めていたが、直前に南アへの投票を決めていたオセアニア地区の代表が急遽帰国するという、不可解な出来事も起きていた。
またDFBとアディダス社CEOによる資金の流れにも怪しげな点が多く、当時DFBの副会長だったベッケンバウアーと彼の代理人がマネーロンダリングと背任を疑われ、ドイツ及びスイスの検察当局から起訴されてしまったのだ。
ベッケンバウアー自身は疑惑を否定したが、このスキャンダルは彼を悩ませ、幾度も眠れぬ夜を過ごすようになる。さらに15年7月には愛息シュテファンが脳腫瘍で46歳の若さで亡くなり、心労から健康も害すようになったベッケンバウアーは2度の心臓手術を受ける。
16年5月には公的活動からの引退を表明、もはや公の場で彼の姿を見かけることは希となる。かつて栄光を誇ったドイツの皇帝だが、苦悩の晩年となってしまった。
現在ベッケンバウアーは75歳。検察は彼に5年の実刑を求刑、今年4月に判決が下るはずだった。だがコロナウィルスの影響で審理は先延ばしとなり、結局時効を迎えて不正疑惑は終了となった。