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《 サッカー人物伝 》 レイモン・コパ

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「 ナポレオン・コパゼフスキ 」 レイモン・コパ ( フランス )

足元に吸い付くようなボールタッチと、計算された組み立てで攻撃をリードしたフランスの司令塔。小柄な体を生かした機敏なフェイントで相手をかわし、ドリブルからのスルーパスでチャンスを創出。チームを勝利に導くフィールドの戦略家として「ナポレオン」の異名をとったのが、レイモン・コパ( Raymond Kopaszewski )だ。

強豪スタッド・ランスでリーグ優勝とチャンピオンズカップ準優勝に貢献し、その活躍により56年にレアル・マドリードへ引き抜き。チームに君臨するディ・ステファノを右ウィングとして助け、2度のリーグ優勝と3度のチャンピオンカップ制覇に大きな役割を果した。そのあと古巣のスタッド・ランスに戻り、2度のリーグ優勝を果す。

フランス代表では攻撃を操るゲームメーカーとして活躍。2度目の出場となった58年W杯スウェーデン大会では、13得点を挙げたジュスト・フォンティーンとのコンビでチームをベスト3に導いた。その卓越した貢献度により、同年のバロンドールに選ばれている。

 

ポーランド系の炭鉱労働者

コパことレイモン・コパゼフスキは1931年10月13日、フランス北部の町ヌー・レ・ミーヌに生まれた。彼の祖父母は第一次大戦後、多くの同胞とともにこの地の炭鉱労働者としてやってきたポーランド移民。一家は祖父、父、兄と3世代にわたり、ヌー・レ・ミーヌの炭鉱で働いていた。

小さい時からボール蹴りに興じていたコパは、8歳になると地元コミューンのストリートサッカーチームに参加。卓越したドリブルスキルが評判となり、10歳で地元アマチュアクラブのUSヌー・レ・ミーヌへ入団する。

第二次大戦中だったこの頃は、フランスの北半分がナチスドイツに占領されていた時代。コパと仲間たちは占領軍の目を盗んでドイツ人の革製ボールをかすめ取るなど、ささやかな抵抗を試みたという。

終戦後の45年、14歳となったコパは学校を卒業。父や兄が働く地下600mでの劣悪環境を嫌った彼は、炭鉱からの脱出を試行。電気技師を目指して見習いの出来る職場を探すが、当時は移民に与えられる仕事が限られており、「コパゼフスキ」の名を告げただけで面接は終了。結局コパを受け入れてくれる所はなく、炭鉱へ戻ることになった。

石炭トロッコの運搬役として働いていた47年、巻き上げケーブルのトラブルにより左手親指と人差し指の先を切断。この事故により毎月いくらかの障害補償金を受け取ることになった。この支払いは、サッカー界の名士として生涯を閉じるまで続いたという。

プロ入りへの道

治療を終えて職場に復帰したコパは、早朝のボイラー係へ配属。これによりUSヌー・レ・ミーヌでの練習時間を確保すると、プロ選手として身を立てることを決意。自己鍛錬に励んだ。

すると北部フランスで行なわれたユース大会の地域選抜メンバーに選ばれ、チームの決勝進出に貢献。決勝は3-6と敗れて準優勝に終わったものの、2得点を決めたコパは注目される存在となった。

これらの活躍により、クラブのコーチに推薦されて49年の「ヤング・フットボーラー大会」に出場。この大会は一連の技能テストでユース世代の選手が採点され、成績上位の者にはプロ入りへの道が開かれるという登竜門的なコンテストだった。

コパは順調に地方予選を勝ち抜き、パリで開かれる決勝大会へ進出。午前中の前半戦は11位と出遅れるも、午後の後半戦で追い上げて2位を確保する。するといくつかのクラブから関心が寄せられるようになり、本人は故郷に近い強豪スタッド・ランスへの入団を希望した。

だが「体が小さい」(168㎝)という理由で各クラブは獲得に動かず、結局オファーが届いたのはデヴィジョン・ドゥ(2部リーグ)に所属するアンジェSCOのみ。やむなくコパは故郷から離れたフランス西部のチームとプロ契約。この契約の際、子供時代からの通称だった “コパ” が、サッカー選手としての正式名称となった。

スタッド・ランスの星

アンジェでは若手ながら主力としてプレーするも、チームは2年続けて15位に沈むなど成績は低迷。キャリアアップへの道を探るコパに、憧れの強豪スタッド・ランスから声が掛かる。プレシーズンマッチでの好プレーが、ランスの監督アルベール・バトーの目に止まったのだ。

クラブの会長は体の小さいコパの獲得に消極的だったが、バトー監督は「彼は代表級の選手になりますよ」と太鼓判。こうしてスタッド・ランスへの移籍が決まった。

51年9月、RCストラスブール戦でディヴィジョン・アン(1部リーグ)デビュー。チームに馴染むのにやや時間が掛かったものの、11月のラシン・レーシング戦で初ゴール。すると続くオリンピック・マルセイユ戦ではハットトリックを記録する。

攻撃の牽引役を務めたコパは、小柄ながら力強くスキルフルなドリブルと、チャンスを生み出す華麗なパスで観客を魅了。時に「ボールを持ちすぎ」と批判されることもあったが、バトー監督からは「かまわずドリブルしろ。じゃないと使わないぞ」と激励。コパの強みを引き出した。

そして1年目の51-52シーズンは33試合8ゴールの好成績を残し、2年目の52-53シーズンは33試合13ゴールの活躍でリーグ優勝に貢献する。

さらに53年のラテンカップ(南欧4ヶ国によるクラブ選手権)決勝では、“グレ・ノ・リ” 擁するACミランをコパの2ゴールで3-0と撃破。大会初優勝の立役者となった。

フランス司令塔への批判

52年10月、西ドイツとの親善試合でA代表デビュー。同年11月の北アイルランド戦で初ゴールを含む2得点を記録し、3-1の勝利に貢献する。53年9月から始まったW杯欧州予選にも参加。1ゴールを記録し、フランスのグループ全勝突破に寄与した。

54年6月、Wカップ・スイス大会が開幕。この大会の1次リーグは、シードの2ヶ国とノンシードの2ヶ国が対戦する(シード同士、ノンシード同士の対戦はない)という変則的な方式だった。

シードのフランスは初戦でノンシードのユーゴスラビアと対戦し、開始18分にミロシュ・ミルティノビッチ(名将ボラ・ミルティノビッチの兄)のゴールを許して0-1の惜敗。コパはスタッド・ランスの盟友で同じポーランド系でもあるFWグロヴァツキにパスを送り続けたが、そのシュートはことごとく失敗していた。

グロヴァツキとともに戦犯と見なされたコパは、自国のサポーターから「炭鉱へ戻れ、それがお前の居場所だ」と心ない罵声。サッカー連盟幹部からも、「小さすぎる、遊び心がありすぎる、利己的すぎる」と批難された。そこには移民系選手に対する当時の偏見もあったとされる。

第2戦はメキシコと接戦を演じ、終盤の88分にコパがPKを決めて3-2の辛勝。1次リーグ突破に望みを繋ぐも、同組もう一つの試合では、ユーゴスラビアが優勝候補ブラジルと1-1の引き分け。フランスはグループ3位にとどまり、1次リーグ敗退となる。こうしてコパ初めてのW杯は、悔しさだけを残して終わった。

レアル・マドリードの「コピタ」

53-54シーズンはリーグ2位で連覇を逃すが、54-55シーズンはディヴィジョン・アン優勝のタイトルを奪回。翌55-56シーズンに欧州チャンピオンズカップ(当時、ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ)が創設されると、フランス王者のランスはその第1回大会に参加する。

コパに得点は無かったものの、盟友グロヴァツキの6ゴール(6試合)を助けて決勝進出に貢献。パリで行なわれる決勝の相手は、スペインで黄金期を築きつつあったレアル・マドリードだった。

試合はランスが早い時間に2点をリードするも、ディ・ステファノのゴールを口火に反撃を浴び、3-4の逆転負け。初代欧州クラブ王者の栄誉を逃してしまった。

それでも得点に繋がる素晴らしいFKを披露するなど、欧州チャンピオンを苦しめたコパのプレーは高く評価され、対戦相手のレアルから高額提示のオファー。56年8月、レアルと契約を交わしたコパは妻子とともにスペインへ渡った。

移籍1年目の56-57シーズン、チームに君臨するディ・ステファノの脇役に徹し、右ウィングを努めて22試合6ゴールの成績。リーグ優勝とチャンピオンズカップ連覇、ラテンカップ制覇の3冠に貢献する。小さくて敏捷なコパは、さっそく「コピタ(ちっちゃいコパ)」の愛称で呼ばれるようになる。

2年目の57-58シーズン、コパが若手の頃から憧れとしたプスカシュがレアルに入団。コパ、ディ・ステファノ、プスカシュ、フランシスコ・ヘント、エクトル・リアルと強力攻撃陣を揃えたチームは、リーグ連覇とチャンピオンズカップ3連覇の偉業を成した。

レ・ブルーの「ナポレオン」

スイスW杯後の54年11月、アルベール・バトーがフランス代表監督に就任。恩師の初陣となった親善試合のスペイン戦が、のちにコパのホームとなるマドリードで行なわれた。

試合はスペインに先制を許すも、35分にコパが同点弾。後半にはコパのアシストから逆転ゴールが生まれ、2-1の快勝。見事なパフォーマンスでフランスを勝利に導いたコパは、この試合から「ナポレオン」の異名で呼ばれるようになる。

このあともレ・ブルーの中心選手として活躍するコパだが、56年2月のイタリア戦を最後に彼の代表キャップは中断を余儀なくされる。同年8月から所属するレアル・マドリードが、代表活動でチームを離れることを許さなかったのだ。

また国内選手だけで代表を編成することが通常だった当時において、フランスサッカー連盟も(故障による保証金請求を避けるため)無理にコパを招集することなく、56年11月から始まったW杯欧州予選は「ナポレオン」抜きで戦うことになった。

それでもフランスはグループの組み合わせに恵まれたこともあり、無事予選を突破。2大会連続の出場を決める。するとレアルのベルナベウ会長が、コパのチームへの功績を認めて58年W杯への参加を許可。2年ぶりにレ・ブルーへ復帰したコパは、前大会の雪辱を期して2度目の大舞台に臨む。

スウェーデンW杯の活躍

58年6月、Wカップ・スウェーデン大会が開幕。フランスはセンターフォワードのルネ・ピラールが大会直前の親善試合で足を負傷し、チームを離脱。代わって控えメンバーだったモロッコ出身のジュスト・フォンティーヌが、そのポジションを務めることになった。

1次リーグの初戦はパラグアイと対戦。コパとフォンティーヌはさっそく息の合ったホットラインを築き、パラグアイに7-3の勝利。フォンティーヌがいきなりハットトリックを記録すると、コパも終盤に1点を挙げた。

続くユーゴスラビア戦もフォンティーヌが2得点。しかしDFのミスなどで2-3と逆転負けを喫し、4年前のリベンジは果たせなかった。それでも最終節のスコットランド戦はコパとフォンティーヌのゴールで2-1と勝利し、グループ首位でベスト8に進む。

準々決勝の相手は、初出場ながら粘り強く勝ち上がってきた北アイルランド。この試合でもコパとフォンティーヌが完璧なコンビネーションを披露し、4-0の快勝。またもフォンティーヌが2点を決めた。

準決勝はブラジルと対戦。試合は開始2分、ジジ、ガリンシャペレとボールが渡り、最後はババが強烈なシュートを決めてブラジルが先制。だがその7分後、コパのお膳立てからフォンティーヌの同点弾が生まれる。

司令塔コパのドリブルとキラーパスはセレソンを苦しめたが、前半37分にDFボブ・ジョンケが負傷退場。その直後の39分、ジジにゴールを奪われ再びリードを許す。

守備の要を失ったフランスはDF陣が崩壊し、後半には17歳のペレがわずか23分間でハットトリックを達成。フランスは終盤に1点を返すも2-5の完敗を喫し、決勝への切符を手にすることはできなかった。

それでも3位決定戦では、フォンティーヌの4ゴールで前回王者の西ドイツに8-3の勝利。コパはフォンティーヌの4ゴールすべてをアシストし、自らもPKで1得点。無双のゲームメイカーぶりを見せつけた。

こうしてフランスを過去最高成績となるW杯3位に導いたコパは、13ゴールで得点王となったフォンティーヌとともに大会ベストイレブンへ選出。さらにクラブでの活躍を合わせて、同年のバロンドールに輝く。

フランスへの帰還

58-59シーズン、レアルはライバルのバルセロナにリーグ3連覇を阻止されるも、チャンピオンズカップでは4年連続の決勝へ進出する。決勝の相手はスタッド・ランスだった。ランスはレアルへ移籍したコパの後釜として、ニースからジュスト・フィンティーヌを獲得。フォンテーヌはここまで大会トップの10得点とチームを牽引していた。

だが決勝ではレアルがランスの攻撃陣を封じ、ディ・ステファノのゴールなどで2-0の快勝。大会4連覇を飾る。しかしコパは早い時間に膝を負傷してしまい、包帯を巻いてのプレーでパフォーマンスは低調。注目されたフランスのエース対決は、肩すかしに終わってしまった。

コパはこのチャンピオンズカップ決勝を最後に3年を過ごしたマドリードから離れ、古巣のスタッド・ランスへ復帰することになった。レアルからは契約延長を申し込まれていたが、代表活動を制限されてしまうこと、家族が帰国を希望したことを理由にスペインを離れることにしたのだ。

こうして本格的な代表活動を再開したコパは、第1回欧州ネイションズカップ(現、欧州選手権)予選ではキャプテンを務め、本大会進出に貢献する。だが自国で行なわれた60年の本大会は、足の負傷により欠場。「ナポレオン」を欠いたフランスは、準決勝で天敵のユーゴスラビアに4-5と敗れ、3位決定戦もチェコスロバキアに0-2と敗戦を喫する。

このあとサッカー連盟や代表監督との関係が悪化したことから、64年欧州ネイションズカップ予選のハンガリー戦を最後に招集されなくなり、足かけ11年に及ぶ代表活動を終える。その代表歴で45試合に出場、18ゴールの記録を残した。

たび重なる不幸とパフォーマンスの低下

スタッド・ランスに復帰した59-60シーズン、フォンティーヌとのコンビで36試合14ゴールとキャリアハイの成績を残し、ディヴィジョン・アン優勝に大きく貢献。フランス年間最優秀選手賞に選ばれる。

60-61シーズンはリーグ3位にとどまるも、61-62シーズンにタイトル奪回。スタッド・ランス及びフラン代表の中心選手として栄光のキャリア築いたコパだが、この頃から公私とも不運に見舞われるようになる。

まず義兄(妻の兄)を脳腫瘍で亡すと、続いて父親が長年の炭鉱労働によるじん肺で56歳にして死去(コパの実兄ものちに同じ病気により64歳で没)する。さらに63年1月、リンパ腫を患っていた一人息子のデニスが、2歳半という幼さであの世へ召されてしまった。

相次ぐ身内の不幸でコパの心は痛み、プレーにも悪影響を及ぼすようになっていく。するとその低調なパフォーマンスをヴェリエスト代表監督(アルベール・バトーの後任)に批判され、激しい口論ののちレ・ブルーのメンバーから外されてしまう。

また新聞のインタビューに答えて「選手はクラブの奴隷だ」と発言したことがサッカー連盟の逆鱗に触れ、63-64シーズンは長期の出場停止処分。バトー監督はすでにランスを去り、フォンティーヌは足の怪我により若くして引退。そのうえ司令塔のコパを欠いたチームの成績は低迷し、前年のリーグ2位から17位へと急落下。強豪ランスは2部降格となってしまう。

他クラブからの誘いを受けながらもランスに残留したコパは、65-66シーズンのディヴィジョン・ドゥ優勝に貢献。そしてディヴィジョン・アンに復帰した66-67シーズンを最後に、35歳で現役を引退する。

引退後の活動

引退後は実業家に転身し、「コパ・ブランド」を冠したスポーツ用品ビジネスを立ち上げ。その他にも煙草販売、新聞販売、ホテル経営と手広く事業を展開した。

68年にはサッカー連盟の評議会委員に選出されるも、「サッカーは好きだが、この仕事には向いていない」と翌69年に退任。代表監督就任の話も断っている。

85年には53歳でパリ=ダカール・ラリーに参加。アシスタント・ドライバーとして三菱パジェロを駆り、2週間で約1万キロを走破。65位完走を果たして話題をさらった。

晩年は地中海のコルシカ島で余生の大半を過ごし、2017年3月3日、妻の故郷でプロキャリアの出発点となったアンジェで死去。享年85歳だった。

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