《 サッカー人物伝 》 レイモン・コパ

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「ナポレオン・コパゼフスキ」 レイモン・コパ ( フランス )

168㎝の身長を感じさせない身体のバランスの良さと、必殺のスルーパスで攻撃を牽引したフランスの司令塔。ジダンやプラティニに先立つ “レ・ブルーの将軍” として代表に君臨し、「ナポレオン」の称号を与えられたのがレイモン・コパ( Raymond Kopaszewski )だ。

明晰な頭脳を持ち、優れた戦略家であったコパは、どのような攻撃の組み立てからゴールが生まれるかを熟知、そのアイデアを実践する高い技術も備えていた。58年のWカップでは大会得点王となったジュスト・フォンティーヌとのホットラインで、フランスを過去最高成績となる3位に導く。

またレアル・マドリードではディ・ステファノやプスカシュと並んで、クラブの50年代黄金期を支える中心選手の一人として活躍、58年にはバロンドール賞に輝いている。

コパことコパゼフスキは、1931年10月13日にフランスのヌーレミーヌで、ポーランド系移民の父親とフランス人の母親の間に生まれた。父親の仕事を手伝うため10歳の頃からフランス北部の鉱山で働いていたが、ある日作業中に事故に遭い、左手の人差し指を失ってしまう。

それ以降は、事故の補償費を受け取り炭鉱の仕事を辞めて地元クラブUSヌーレミーヌでのプレーに集中、コパは瞬く間にチームのエースとなった。

18歳のときフランスサッカー協会主催の若手発掘の大会に参加するが、最終選考に残りながらも身長が低いという理由で不合格にされてしまった。それでもコパのスピードと大胆さを兼ね備えたプレーは注目され、49年に2部リーグ所属のアンジェSCOとプロ契約を交す。

コパはアンジェで2年間プレーしたが、その才能に目をつけたアルベール・バトー監督によって、51年に1部リーグの強豪、スタッド・ランスへ引き抜かれる。そしてバトー監督の指導により、持ち味のドリブル技術に一層磨きをかけていく。

当初は右ウィングのポジションにいたコパだが、次第にセンターフォワードでプレーしながら指揮官としての才能を見せ、攻撃の中心選手として53年と55年のリーグ制覇に貢献する。

フランス代表には52年に21歳で選ばれ、10月5日の西ドイツ戦で初キャップを記録した。54年のWカップ・スイス大会にもエースとして出場、メキシコ戦ではコパのPKなどで3-2と勝利したが、ユーゴスラビアに0-1と敗れてG/L敗退となってしまった。

56年、スタッド・ランスは第1回となる欧州チャンピオンズ・カップに出場し、決勝へ進んだ。決勝の相手は、アルフレッド・ディ・ステファノとフランシスコ・ヘントを擁するレアル・マドリードだった。試合はスタッド・ランスが2点をリードするが、レアルがディ・ステファノのゴールで逆転する。

接戦の末スタッド・ランスはレアルに3-4と敗れ初代王者の座を逃してしまうが、コパの活躍は注目を浴びた。すぐさまレアルはコパを獲得、のちにホセ・サンタマリア、ロヘリオ・ドミンゲス、フェレンツ・プスカシュなどの選手も加わり、エル・マドリーの第一期黄金時代が築かれることになる。

58年にはWカップ・スウェーデン大会に出場。スペインクラブへの移籍後は長らく代表を遠ざかっていたコパだが、大会直前に “レ・ブルー” への復帰を果たしていた。そして大会に入ると、怪我をしたFWの代わりに起用されたジェスト・フォンティーヌが司令塔コパとのコンビで爆発、パラグアイ戦でハットトリックを記録するなどG/L6得点の大活躍を見せて、フランスは1位で決勝Tに進んだ。

スペイン人の母を持つフォンティーヌは1933年8月18日、旧フランス領だったモロッコのマラケシュ生まれ。USカサブランカのFWだった20歳のとき、リーグ・アンのニースに目をつけられ、フランスに連れて来られる。大柄だが鋭い瞬発力を持つ彼はニースで才能を開花、56年にはレアルに引き抜かれたコパの後釜としてスタッド・ランスに移籍し、57-58シーズンのリーグ得点王となっていた。

フランスは準々決勝で、北アイルランドと対戦する。この試合もフォンティーヌはコパとのホットラインで2得点、4-0と圧勝して準決勝に進んだ。しかし準決勝のブラジル戦では、17歳の新星ペレにハットトリックを決められ、フォンティーヌも1ゴールを挙げたがフランスは2-5と敗れた。

この後行われた3位決定戦では、前回王者の西ドイツを6-3と撃破。この試合フォンティーヌは、パワフルな左足シュートで4ゴールの固め打ち、新記録となる大会13ゴールで得点王に輝いた。そのゴールのほとんどをお膳立てしたのは司令塔のレイモン・コパ、彼自身も大会3得点を挙げる活躍で、この年のバロンドール賞に選ばれている。

56年にレアルへ移籍したコパは、ディ・ステファノが司令塔として君臨していたため右ウィングでプレー。そのポジションでも高い技術と戦術眼を発揮して、2度のリーグ制覇と3度の欧州チャンピオンズ・カップ優勝に貢献した。

58-59シーズンのチャンピオンズ・カップ決勝では古巣のスタッド・ランスと対戦、2-0と勝利したレアルが大会4連覇を果たす。一方決勝でレアルに敗れたスタッド・ランスのFWフォンティーヌだが、通算10得点でチャンピオンズ・カップの得点王を獲得している。

59年、コパはレアルからの契約延長の申し出を断わり、スタッド・ランスへ復帰する。復帰した59-60シーズンには得点王フォンティーヌとのホットラインでリーグ制覇、60年にはフランス年間最優秀選手賞に輝き、61-62シーズンの優勝にも貢献する。

しかしフォンティーヌが相次ぐ負傷により62年7月に28歳の若さで現役引退、フランス代表も予選敗退を喫してWカップの出場を逃す。さらにスタッド・ランスも低迷期に入り、64年には2部リーグ落ちしてしまった。それでも33歳となっていたコパはチームに残り、2年で1部リーグに復帰。67年に引退するまで、スタッド・ランスでプレーした。

引退後はフランス代表のテクニカル・ディレクターに就任。それと同時に白血病を患った息子を世話する生活を続けたが、看病虚しく若くして帰らぬ人となってしまった。08年からスタッド・ランスの名誉会長を務め、10年にディ・ステファノ、ボビー・チャールトンエウゼビオに続く4人目のUEFA会長賞を受賞。17年3月3日に85歳の生涯を閉じた。

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