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《 サッカー人物伝 》 ケビン・キーガン

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「小さなファイター」ケビン・キーガン(イングランド)

精力的な動きとスピードを生かした突破力でチャンスを作り、自分より大きな相手に敢然と立ち向かう姿から「マイティ・マウス(偉大なネズミ)」と呼ばれたのが、ケビン・キーガン( Joseph Kevin Keegan )だ。

3部リーグでプレーしていた小柄な若者が一躍アンフィールドの主役になったのは、そのファイティング・スピリットが観客の心を掴んだからだ。素早いスタートから全力疾走、果敢にゴールへ向かい、大柄なディフェンスとの競り合いに勝ってヘディング・シュートを決めるなど、持てる力を最大限に発揮した選手だった。

彼の精力的なプレーは所属したリバプールとハンブルガーSVに多くのタイトルをもたらし、その活躍で2年連続のバロンドール賞に輝いた。残念ながらWカップなど代表では輝けなかったが、その後は指導者としても手腕を振るっている。

小さなフットボーラー

キーガンは1951年2月1日、イングランド中部の町ドンカスターに生まれ、労働者階級の家庭で育った。子供の頃からスポーツ万能で、クリケット部の主将を務めながらボクシングジムへ通い、クロスカントリーで50マイル(約80キロ)を走破したときも平然としていたという。

小学校の頃からサッカーにも熱中しGKに憧れたが、身体が小さかったためその望みは叶わなかった。それでも敏捷で得点もよく決めていたキーガンは、中学を卒業すると地元クラブのトライアルを受け、最後の2人まで残る。

しかし身長が低い(15歳当時で149㎝)という理由で、結局彼は不合格となってしまう。それからは4部リーグのアマチュアとして土曜・日曜に試合を行ないながら、工場で働くという生活を送った。そのうちその果敢なプレーが認められるようになり、66年に3部リーグのスカンソープ・ユナイテッドで練習生として契約する。

そしてスカンソープで経験を積み、次第に頭角を現わし始めたキーガン。そんな彼に目をつけたのが、リバプールの名将・ビル・シャンクリーだった。71年、20歳のキーガンは1部リーグの名門、リバプールに移籍。その時の移籍金は僅か3万5千ポンド、のちに「70年代最大のバーゲンセール」と称されることになる。

ビル・シャンクリーがリバプールの監督に就任したのは、1959年の12月。名門と呼ばれたリバプールも当時は暗黒時代の真っ只中で、54年に降格して以来5シーズンに渡る2部暮らしを続けていた。アンフィールド・スタジアムの観客席はボロボロでピッチは水浸し、練習場はまるで空き地のように荒れ放題だった。

誠実で頑固なスコットランド人気質のシャンクリーは、リバプールの負け犬に成り下がった有様に激怒。監督就任初戦の試合を見届けると、プロ意識に欠ける24選手との契約解除を決意した。そして経営陣にアンフィールドのピッチ修繕を要求、それまで物置場となっていた部屋を会議室に変えて、日夜を問わずミーティングを重ねた。

こうしてシャンクリーの監督就任後、様々な改革が急速に進んだ。そしてそのカリスマ性と情熱で、クラブに愛想を尽かせていたサポーターの心を引き戻したのだ。就任1年目と2年目は惜しくも3位に終わって1部リーグ復帰を逃してしまったが、3年目に優勝してトップリーグへの返り咲きを成し遂げる。

名将ビル・シャンクリーとの邂逅

そして昇格2年目の63-64シーズンに、17年ぶりとなる1部リーグ優勝を達成、ついに名門は再生を果たした。そしてシャンクリー監督はさらなる黄金期を築く担い手として、活きの良さを見せるキーガンに着目したのである。

移籍後早々シャンクリー監督に、「来年、お前はイングランド代表でプレーしている」と声をかけられたキーガン。まだ無名の若手選手には夢のような話だったが、彼は圧倒的なカリスマ性を持つ監督の言葉を素直に信じ鍛錬に励んだ。そして172㎝の小柄ながら、当たり負けしない強さを身につけていったのだ。

71年8月のデビュー戦でさっそくゴールを記録、35試合9得点の活躍を見せ早くもチームの主力となった。翌72-73シーズンはリーグ優勝に貢献。さらにUEFAカップでは決勝に進み、西ドイツの強豪ボルシアMGと対戦。キーガンの2ゴールを挙げる活躍などで、リバプールは初の欧州タイトルを手にした。そして73年1月のウェールズ戦でキーガンは代表初出場を果たし、シャンクリー監督の言う通りになった。

シャンクリーは73-74シーズンを最後に勇退、アシスタントコーチを務めていたボブ・ペイズリーが後任監督に就任する。そのあともリバプールは73-74シーズンのFAカップを制覇、さらに74-75、75-76シーズンとリーグ2連覇、75-76シーズンには2度目のUEFAカップ優勝を果たし、クラブは創設以来の黄金期を迎えた。そしてキーガンは強豪リバプールの人気者となり、アンフィールドの主役となった。

舞台はブンデスリーガへ

76-77シーズン、リバプールは念願だった欧州チャンピオンズ・カップの決勝に進出する。欧州チャンピオンの座をかけて戦うのは、4年前にUEFAカップで優勝を争ったボルシアMGだった。前半を1-0のリードで折り返したリバプールだが、後半の51分にアラン・シモンセンのゴールで同点とされてしまう。

だが65分、キーガンの動きにボルシアの2人がつられ、空いたスペースから勝ち越し点が生まれた。83分にはキーガンを追ったベルティ・フォクツがファールを犯し、そこで得たPKを主将のニールが決めて勝利を確実にした。

この試合のキーガンは変幻自在の動き、74年の西ドイツWカップ決勝でクライフを封じたフォクツさえも翻弄したのだ。こうしてリバプールは3-1と快勝、念願のチャンピオンズ・カップ優勝を果たし、キーガンはその立役者となった。

そしてこのチャンピオンズ・カップ優勝を置き土産に、ブンデスリーガのハンブルガーSVへ移籍。その移籍金として50万ポンドもの大金が動いた。しかし移籍最初のシーズンは新しい環境に馴染めず、25試合に出場して6ゴールという不振に陥る。下部クラブとの試合では度重なるファールに怒り、相手選手を殴り倒すと主審の判定も待たずにフィールを去るという事件も起こした。

しかしそれを機にドイツ語の習得に力を入れ、チームメイトとのコミュニケーションを図った。すると翌78-79シーズンは34試合17ゴールの大活躍、ハンブルガーSVのブンデスリーガ初優勝に貢献した。

79-80シーズンはさらに円熟味を増し、豊富な運動量と果敢なドリブルで躍動、チャンピオンズ・カップ決勝進出へ大きな役割を果たす。チャンピオンズ・カップでは2連覇を果たしたイングランドのノッティンガム・フォレスト0-1と敗れ準優勝に終わってしまったが、その活躍で78年、79年と2年連続でバロンドール賞に選ばれている。

代表でのキーガン

70年代のイングランド代表は低迷期にいたため、キーガンが大舞台に立ったのはようやく29歳になった時、80年にイタリアで開かれた欧州選手権でのことだった。しかしG/L初戦のベルギー戦でファンが暴れて試合は中断、イングランドはそこから立て直せず予選敗退を喫してしまった。

82年には、31歳でWカップ・スペイン大会に初出場。しかし大会数ヶ月前に背筋を痛めてしまったキーガンの出場は、2次リーグのスペイン戦、64分から交代出場した1試合に留まってしまった。10年間の代表歴で63試合に出場して21得点を挙げながら、ついに大舞台では輝けずに終わる。

80年にイングランドへ帰国。サウサンプトンで2シーズンプレーし、82年にニューカッスルへ移籍、83-84シーズンを最後に33歳で現役を引退した。その後はスペインに移り住み、家族との暮らしを楽しんでいたキーガン。92年、当時下部リーグに落ちていたニューカッスルの会長から、彼のもとへ突然の電話が入る。

そして会長からの打診を承諾し、ニューカッスルの監督を引き受けたキーガンだったが、クラブに足を踏み入れた彼が目にしたのは、見るに堪えない状態と化した練習場だった。その酷さは、アシスタントコーチとして同行したマクダーモットが「肥だめ」と吐き捨てたほどである。

キーガンは6千ポンドの自腹を切り、練習場を整備することから始めた。そしてくすぶっていた選手の能力を引き出し、新戦力も補強して開幕から11連勝。その勢いのまま優勝を果たして、プレミアリーグへの昇格を実現する。

指導者としての活動

95-96シーズンには、2位マンチェスター・ユナイテッドに12ポイントもの差をつけて、1月中旬まで首位を独走。チームの誰もが優勝を信じてリーグの後半戦に臨んだ。そして3月4日には、天王山となるマンUとの直接対決を迎える。

前半は一方的に攻めたニューカッスルだが、どうしても守護神ピーター・シュマイケルの牙城が崩せずにいた。そうこうしているうちにカントナにゴールを決められて0-1、このまま試合は終了し、ニューカッスルは痛い敗戦を喫してしまった。

その後チームは急失速、3月末にはとうとうマンUに首位の座を明け渡し、最終的に2位でシーズンを終える結果になってしまった。優勝争いの重圧に敗れてしまったニューカッスルの選手とキーガン監督。経験豊富なマンUにしてやられたのだ。

99年にはイングランド代表監督に就任、ユーロ2000を指揮した。そして02年に長く低迷していたマンチェスター・シティーをプレミアリーグに引き上げた後、08年に再びニューカッスルの監督を務めている。

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