《 サッカー人物伝 》 ロイ・キーン

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「荒ぶる闘将」 ロイ・キーン ( アイルランド )

旺盛なファイティングスピリットと圧倒的な存在感で常に全力プレー、チームメイトを厳しく叱咤して勝利を目指すスタイルでその名を轟かせた、アイルランドの「闘将」がロイ・キーン( Roy Maurise Keane )だ。

無尽蔵のスタミナと豊富な運動量を誇り、激しいタックルで相手の攻撃の芽を摘んで、絶体絶命のピンチも奇跡的なカバーリングで防いだ。そして攻撃では効果的なボールさばきで起点となり、ときにはゴール前に顔を出して貴重な得点を決める、まさに攻守の要だった。

マンチェスター・ユナイテッドの黄金期にキャプテンとして大きな役割を果たしたが、妥協を許さない性格から監督やチームメイトとの衝突も多かった。2002年ワールドカップでも中心選手として期待されながら、監督と衝突して大会直前にチームから外れている。


1971年8月10日、キーンはアイルランド共和国南岸のコーク市郊外、メイフィールドの労働者階級の家で生まれた。少年時代はボクシングの訓練も積んでいたキーンだが、やがてサッカー1本に絞り、プロを目指して様々なクラブのセレクションを受ける。

だが身体が小さいという理由でことごとくテストは不合格。ようやく18歳となった89年に、地元のコーブ・ランブラーズFCとセミプロ契約を交す。するとキーンは持ち前の闘志でチームを勝利に導くようになり、たちまちレギュラーを獲得、トップチームへの昇格を果たした。

そして1年後にはその活躍をイングランドのスカウトに認められて、名将ブライアン・クラフ率いるノッティンガム・フォレストへ移籍。新しいチームでも高い適応力を見せたキーンは、早くも90-91シーズンの開幕リバプール戦でデビュー、この年35試合出場8ゴールの活躍でレギュラーに定着した。

しかし移籍3年目の92-93シーズン、ノッティンガム・フォレストはプレミアリーグで最下位となり、2部リーグへの降格が決まる。注目の有望選手となっていたロイ・キーンには、リバプール、アーセナル、レアル、バルセロナ、ブラックバーンといった名門チームが関心を寄せたが、ファーガソン監督の直接オファーを受けてマンチェスター・ユナイテッドへ移籍することになった。

A代表には91年に初招集を受けるが、上層部の姿勢に不信感を抱いたキーンは1度それを拒否する。しかしノッティンガム・フォレストでの活躍により、ジャッキー・チャールトン監督(ボビー・チャールトンの兄。66年W杯優勝メンバー)に再招集されて、91年5月22日の親善試合チリ戦で代表初出場を果たした。

J・チャールトン監督との関係は決して良好なものではなかったが、それでも代表レギュラーに選ばれて94年のWカップ・アメリカ大会に出場する。E組のG/L初戦では、ロベルト・バッジオ擁するイタリアを無得点に抑えて、強豪相手に1-0の勝利を収めた。

続くメキシコ戦では1-2と敗れたが、最終節は粘り強い守備でノルウェーの攻撃を封じて0-0の引き分け。4チームが勝点・得失点差で並ぶという大混戦となったE組で、僅差の2位となったアイルランドは2大会連続の決勝Tへ進んだ。

決勝T1回戦ではオランダと対戦。堅い守備が身上のアイルランドだが、一瞬の乱れを突かれてベルカンプに先制点を許してしまう。そのあともオランダが追加点、終盤に相手の疲れが見えたところで攻勢をかけるが、ついに点は奪えず0-2と敗北。前大会と同じベスト16で終わった。

93年に移籍したマンUでは、ホームのデビュー戦となったシェフィールド・ユナイテッド戦でいきなりの2ゴールを記録。ブライアン・ロブソンの後継者としてレギュラーの座を掴み、93-94シーズンのリーグ制覇とFAカップ優勝の2冠獲得に貢献した。

しかし翌94-95シーズンにマンUが無冠に終わったことで、ファーガソン監督は若返りを断行。ポール・インスらのベテランを放出して、ライアン・ギグス、デヴィッド・ベッカム、ポール・スコールズらの若手を起用する。そしてキーンはキャプテンのエリック・カントナとともに、若いチームを引っ張る存在となった。

若い選手たちが力をつけていったマンUは、95-96、96-97シーズンとプレミアリーグを2連覇、再び覇者への道を歩み始めた。97年にはカントナが現役を引退。キーンは彼の後を継ぎ、名門マンチェスター・ユナイテッドのキャプテンとなった。

激情家のキーンは気に障ることがあると、チームメイトにも容赦なく罵声を浴びせ、若い選手たちを震え上がらせた。しかしその全力プレーは常に闘志にあふれ、共に戦う選手たちに計り知れない力を与える。ファーガソン監督もキーンの激しさに手を焼きながら、頼りがいのあるキャプテンとして多大な信頼を置いたのである。

しかし97-98シーズンの対リーズ戦、ペナルティーエリアに侵入したキーンは、ノルウェー代表DFのアルフ・インゲ・ハーランド(アーリング・ハーランドの父)と接触、痛みでピッチに倒れ込んだ。キーンはハーランドから「大げさに倒れ込むな」の言葉を浴びせられるが、実際は前十字靱帯損傷という大怪我を負っていたのだ。

キーンはこの怪我によって約1年間を棒に振ることになり、ユナイテッドもリーグ3連覇を逃してしまう。この時行われていたWカップ予選にも参加できなくなり、アイルランドは予選敗退、98年フランス大会への出場も叶わなくなってしまった。

98-99シーズン、キーンはチームに復帰する。ユナイテッドは再びプレミアリーグの覇者に返り咲き、3シーズンぶりにFAカップも制す。その勢いのままチャンピオンズ・リーグの決勝へ進出、ブンデスリーガの覇者バイエルン・ミュンヘンと、バルセロナのカンプノウ・スタジアムで戦った。

しかしキーンは累積警告のためバイエルンとの決勝には出られず、「カンプノウの奇跡」と呼ばれたマンUの大逆転劇をスタンドから眺めることになってしまった。それでもキーンはチャンピオンズ・リーグ優勝と合わせて3冠を達成したユナイテッドで、大きな役割を果たしたのである。

その後も順調にキャリアを重ねていたキーンだが、01年の4月に行われたマンチェスタ・シティーとのダービーマッチで行った悪質なファールが、のちに物議を呼ぶことになる。キーンはその時シティーでプレーしていたハーランドを狙って足裏でのチャージ、因縁の相手に立ち上がれないほどのダメージを与えたのだ。

このプレーにはすぐさまレッドカードが出され、キーンは無言のまま退場する。ハーランドはこの怪我がもとで満足なプレーが出来なくなり、完治しないまま03年に現役引退を余儀なくされた。キーンは02年に出版した自伝でこの悪質ファールが報復であると匂わせ、事態を重く見たイングランド協会から罰金と出場停止処分を言い渡されて、世間の批判も浴びている。

日韓Wカップの欧州予選、アイルランドは強豪のポルトガル・オランダと同組という、難しいグループに入ってしまった。しかしキーンはポルトガル戦で貴重な先制ゴールを挙げ、オランダ戦では1人少なくなったチームを叱咤激励、獅子奮迅の働きで勝利に導いた。こうしてアイルランドはプレーオフも勝ち抜き、2大会ぶりとなるWカップ出場を決めたのである。

アイルランド代表は大会前の02年5月にサイパンで事前合宿を行うが、そこで事件が勃発する。キャンプ地の環境や選手への待遇、好意的でない報道等にキーンが苛立ち、チームメイトやスタッフと衝突、マスコミのインビューで代表への不満をぶちまけたのだ。

チームを揺るがしかねない事態に、ミック・マッカーシー監督は全選手とスタッフを集めてキーンの釈明と謝罪を求める。しかし激高したキーンはマッカーシー監督を罵倒、「2度と代表でプレーしない」と吐き捨て自らチームを離れていった。このあとWカップ・日韓大会に出場したアイルランドは強豪ドイツに引き分けるなど大健闘、ベスト16入りの成績を残した。

05年11月18日、キーンはユナイテッドの公式チャンネル「MUTV」の番組内でチームメイトを批判する。4失点を喫して負けたミドルズブラ戦での、ファン デル・サール、ファーディナンド、オシェイら6人のふがいないプレーを痛烈な言葉でこき下ろしたのだ。

その非難が余りにも強烈だったため番組はお蔵入り、しかしこの出来事はキーンとクラブとの関係終了を示すものになった。チーム士気の低下を懸念したファーガソン監督の働きかけにより、翌12月クラブはキーンとの契約解除を発表する。

そして12年間チームを引っ張った功労者のキーンには彼が子供時代に憧れた、スコットランドリーグ・セルティックFC入団という最後の花道が用意された。

故障がちで36歳となるキーンのセルティックでの出場機会は限られてしまったが、中村俊輔ともプレー、06年3月にシーズン限りの引退を表明した。5月9日にオールド・トラッフォードで引退記念試合が行われ、キーンは前半セルティック、後半ユナイテッドでプレーし、詰めかけたファンから大きな拍手が送られた。

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