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《 サッカー人物伝 》 ジュゼッペ・メアッツァ

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「ミラノの英雄」ジュゼッペ・メアッツァ( イタリア )

サッカー選手としての偉大な功績からインテル・ミラノとACミランのホームスタジアムにその名を残し、今なお「イタリア史上最高の選手」と語り継がれるレジェンド・プレイヤーが、ジュゼッペ・メアッツァ( Giuseppe Meazza )だ。

1934年、38年とWカップ2連覇を果たしたイタリアにおいて、チームの中心として活躍。169㎝の身体でインサイドフォワードとしてプレー、ドリブルの上手さやシュート力に加え、優れたパス能力も有して優勝の大きな原動力となった。

またクラブでは3度の得点王に輝き、2度のリーグ優勝に貢献。インテル・ミラノ第1黄金期(当時、アンブロシアーナ・インテル)の中心的役割を担った。その後ACミラン~ユベントスと移籍、セリエAの3大クラブを渡り歩くという経歴を残した。

ミランのベッピーノ

メアッツァは1910年8月23日、当時のイタリア王国・ミラノで生まれた。第一次世界大戦で父親を失い、一緒に暮らす母親と極貧の少年時代を送ったが、小さい頃からサッカーに夢中だった彼はやがてプロ選手を目指すようになった。

13歳のときにACミランの入団テストを受けるが不合格、その後インテル・ミラノの下部組織でプレーし、17歳でトップチームデビューを果たす。そしてメアッツァは1年目の27-28シーズンから大活躍、33試合に出場し12ゴールを記録した。

そして翌28-29シーズンは33点を挙げてリーグ得点王、29-30シーズンも31ゴールの活躍でリーグ優勝の原動力となる。若くてハンサムなメアッツァはたちまちミラノの人気者となり、ファンから「ベッピーノ」の愛称で呼ばれるようになった。

30年、19歳の時にビットリオ・ポッツォ監督に呼ばれて代表入り。デビュー戦となった2月9日の対スイスでは、のちに代表で長くコンビを組むジョバンニ・フェラーリとともに途中出場、いきなり2得点を挙げてチームを4-2の逆転勝利に導く。3月にはドイツと親善試合を行いまたもメアッツァが2得点、5月のインターナショナル杯(欧州5ヶ国による対抗戦)では強豪ハンガリーを相手に3得点を挙げ、早くも攻撃の中心的存在となった。

31年2月、名将ウーゴ・マイスル監督率いるオーストリアと対戦。先制されたイタリアは苦戦するが、30分過ぎにメアッツァが同点ゴール、オルシ(元アルゼンチン代表)が逆転ゴールを挙げて辛くも2-1と勝利を得た。

翌32年3月のインターナショナル杯で両チームは再び対戦。だがこの時のオーストリアは、「ヴンダーチーム(驚異のチーム)」と欧州中から恐れられる最強チームに変貌していた。イタリアは「サッカーのモーツァルト」と呼ばれるマティアス・シンデラーに2ゴールを決められ、メアッツァが1点返したものの1-2と敗北、無敵のオーストリアを止められなかった。

義務づけられたWカップ優勝

32年10月、スイス・チューリッヒで開かれたFIFA理事会で、イタリアの第2回Wカップ開催が決定する。大会の価値に目をつけたファシスト党、ベニト・ムッソリーニ首相がプロパガンダに利用するため、あらゆる手段を尽くして開催権を勝ち取ったのだ。

サッカー好きで知られる「ドゥーチェ(総統)」ムッソリーニ。その強権はセリエAまで及び、メアッツァがプレーするインテルはUSミラネーゼと合併させられた挙げ句、チーム名も「アンブロシアーナ」と改称させられていた。ちなみにホームスタジアムの「サン・シーロ」はWカップで使われ、大会に備えて大改修が行われている。

ホスト国となったイタリアだが、当時開催国枠がなかったためギリシャと予選を戦い、Wカップへの出場を決めた。ムッソリーニからの無言の圧力を受けたポッツォ監督とアズーリは、大会優勝を義務づけられ何があっても勝たなくてはならなかった。

そこでイタリアが行ったのが、セリエAでプレーしていたアルゼンチン代表選手(イタリア系)の引き抜きである。アムステルダム五輪銀メダルメンバーのオルシ、ウルグアイW杯準優勝メンバーのモンティ、攻守の要グアイタの3人を帰化させ、アズーリのメンバーに加えたのだ。

そんなやり方をするイタリアへの批判は少なくなかった。だがポッツォ監督は「彼らは確かにアルゼンチン人だが、ルールに違反していない」(ナショナルチーム変更が禁止されるのは62年)と、あくまで強気を貫いた。

「ヴンダーチーム」撃破

トーナメント1回戦でアメリカを7-1と退けたイタリアは、準々決勝で名ゴールキーパー、リカルド・サモラを擁したスペインと戦った。イタリアはスペインの果敢な攻撃に苦しみ、31分にレゲイロの先制点を許す。するとベルギー人主審がイタリア寄りの笛を吹き、選手はヒートアップ、両チームに負傷退場者が出るなど荒れた試合となってしまった。

後半開始直後、イタリアFKのチャンスにスキアビオがブラインドとなり、GKサモラが辛うじてパンチング、それを拾ったフェラーリが同点弾を決めた。その後も激しい攻防が続くが、得点は生まれず試合は延長戦に突入する。

延長の終了直前、メアッツァのスルーパスを受けたグアイタが決定的なシュートを放つ。しかし足を負傷しながらもゴールを守ったサモラが必死のセーブ、試合は決着がつかないまま終了した。当時はPK戦がなく再試合の規定、翌日にもう一度両者の対戦が行われることになった。

再試合は前日の荒れたゲームにより、イタリアは4人、スペインは7人を入れ替えての対戦となり、重傷のサモラも欠場した。開始5分、モンティの激しいタックルを受け、スペインのボスケが負傷。重傷を負った彼はほとんどゲームに参加できなくなってしまうが(当時は交代が認められていない)、スイス人主審がイタリアの反則をとることはなかった。

12分、オルシのFKからメアッツァがヘディングシュート。結局これが決勝ゴールとなりイタリアが1-0と勝利し、2日間210分の激闘を制して準決勝へ進んだ。

準決勝の相手は、最大の強敵オーストリア。再試合となったスペイン戦から中一日の戦いにアズーリの身体は重かったが、雨で濡れたピッチにオーストリア得意のパスワークも冴えを欠いていた。イタリアはモンティがオーストリアのエース、シンデラーを徹底マークしてその動きを封じる。

前半19分、スキアビオが強烈なシュート、キーパーのプラッツァーが弾いたところにメアッツァが続けてシュートを打つ。プラッツァーは辛うじてこれも弾き返すが、メアッツァとともに転倒、そこにグアイタが現れて先制点を押し込んだ。

オーストリアはスウェーデン主審にファールをアピールするが、その訴えは認められなかった。後半にオーストリアが猛攻を仕掛けるが、守護神コンビが再三の好セーブで防ぐ。こうして逃げ切ったイタリアが1-0の勝利を収め、ついに決勝へと勝ち上がった。

批判を浴びた優勝

決勝は、FWネイエドリーの活躍と名手プラーニチカの堅守で勝ち上がってきたチェコスロバキアとの対戦。両チーム慎重なゲーム運びで、試合は動きのないまま前半を0-0で折り返す。65分、痙攣で一時ピッチを離れていたチェコのプチが、戻ってすぐに跳ね返りを拾いロングシュート。GKコンビの反応も届かず、イタリアはリードを奪われてしまった。

連戦で選手の動きも鈍くなり、イタリアの命運も尽きたかと思えた81分、グアイタのパスを受けたモンティが左足で打つと見せかけて切り返し、右アウトに引っかけたシュートは名手プラーニチカの頭上を越え、起死回生の同点弾が決まった。

決勝は延長に突入。しかしケガを負ってしまったメアッツァは、脚を引きずりながらのプレーを強いられてしまう。だがマークが外れてフリーとなったメアッツァにボールが渡ると、ゴール前へ素早くクロス、グアイタのポストプレーからスキアビオの決勝ゴールが生まれた。

イタリアは至上命題だった地元でのWカップ優勝を達成。固い結束力で栄光を手にしたアズーリだが、大会審判の偏ったジャッジに実力を疑われ、不透明な勝ち方に批判が浴びせられた。

そのあとポッツォ監督は若いイタリア代表を率いて、36年のベルリン・オリンピックに出場する。準決勝では強豪スウェーデン相手に3-2の逆転勝利(ベルリンの奇跡)を演じた日本と対戦、8-0と圧倒的な力の差を見せた。決勝に進んだイタリアはオーストリアに延長で2-1と勝利、ポッツォ監督は新たな勲章となる金メダルを手にした。

真のチャンピオン

前大会チャンピオンとして予選を免除されたイタリアは、38年のWカップ・フランス大会に出場。代表監督は引き続きポッツォが務めていたが、新鋭シルヴィオ・ピオラや五輪金メダル組が加わるなどアズーリの顔ぶれは一新、前回優勝メンバーはメアッツァとフェラーリの二人だけになっていた。

トーナメントの1回戦では、延長まで戦いピオラの決勝ゴールでノルウェーに2-1と勝利。準決勝でもピオラが2得点を挙げ、地元フランスを3-1と退けた。そして準決勝の相手は、ヨーロッパ人を驚かせた「黒いダイヤモンド」レオニダス・ダ・シウバを擁するブラジル。

だが準々決勝でチェコと大荒れの試合(ボルドーの戦闘)を繰り広げ、3日間で延長戦と再試合を行ったブラジルは、決勝に備えてレオニダスを温存してきた。前半はゴール前に厚い壁を築いて、ブラジルの攻めをことごとくはね返したイタリア。後半に攻撃を開始、55分にピオラからのロングパスを受けたコラウシが先制ゴールを決める。

その4分後、ブラジル守備の要ドミンゴス・ダ・ギアがピオラの脚を蹴り上げ、イタリアがPKを獲得する。キッカーはキャプテンのメアッツァ。これまでPKを1本も外したことがないという名手は、助走を取らずに鋭く足を振り切り、突き刺すような追加点を決めた。ブラジルは終了3分前に1点返すのが精一杯、2-1と勝利したイタリアは、2大会連続で決勝へ進んだ。

決勝の相手は、当時欧州屈指の強豪国だったハンガリー。開始直後の5分、右タッチライン沿いをビアバティが一気に駆け上がると、ボールを受けたメアッツァがスルーパス。それをコラウシが決めてイタリアが先制する。だがその僅か2分後にハンガリーが同点弾、試合は早くも大きな動きを見せた。

19分にはコラウシ、フェラーリとボールが繋がり、またもメアッツァがラストパス、ピオラが勝ち越し点を叩き込む。さらに35分、メアッツァからボールを渡されたコラウシがDFを抜き去り、自身2点目となる追加点を決めた。

終盤にハンガリーのエース、シャロンの得点で1点返されたが、82分にピオラがビアバティとの連携から駄目押しゴール、勝負を決定づけた。こうして試合は4-2で終了、イタリアは4年前の批判を跳ね返し、自らの実力を証明する大会2連覇を達成した。

相棒のフェラーリとともに中盤を支え、攻撃をリードしてアズーリの汚名を返上したキャプテンのメアッツァ。試合が終わる頃には、感極まって涙を流していたという。

スタジアムに刻んだ名前

翌39年7月20日のフィンランド戦が、29歳になるメアッツァの代表最後の試合となった。血行障害で左足が凍るように冷たくなる病気の療養のため、1年間の休養を余儀なくされたのだ。メアッツァは9年間の代表歴で、54試合33得点の記録を残した。(ルイジ・リーバの35得点に続くイタリア歴代2位)

そして復帰した40年、13シーズンを過ごしたインテルを離れ、ライバルクラブのACミランと契約する。異例の移籍はミラン市民の間で大きな物議を呼ぶも、病気を抱えたメアッツァが往年の輝きを取り戻すことはなく、42年にはユベントスへ移籍している。

43年、連合国軍に追い詰められたイタリアは無条件降伏、ファシスト党政権は崩壊した。北イタリアへ逃れていたムッソリーニも、45年4月にパルチザンに捕らえられ、愛人と共に処刑される。

一時中断していたセリエAは45年に再開、メアッツァは46年に復帰したインテルで1シーズンを過ごし、37歳で現役を引退した。セリエA通算220得点は、今でも歴代4位の記録である。(1位はシルビオ・ピオラの274得点)

現役引退後はインテルの監督や五輪代表監督を歴任し、79年8月21日に膵臓の機能不全により68歳で死去。翌80年、ミラノ市はインテルとミランの両クラブ、そして代表で活躍した英雄の偉業を称えて、市所有のサン・シーロに「スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ」の名を冠した。

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