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永遠となったモナコ公妃、グレース・ケリー

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モナコ公国の象徴

エルメスの人気バッグにその名を残すグレース・ケリー。気品と美貌を兼ね備えた「クール・ビューティー」の魅力で人気を博し、映画女優としていくつもの作品で輝かしいばかりの存在感を放った。

54年の『喝采』では、アカデミー賞の主演女優賞に選ばれオスカーを獲得。またブロンド美人が好きなヒッチコック監督のお気に入りとして『ダイヤルMを廻せ』『裏窓』(54年)、『泥棒成金』(55年)の3作立て続けに起用されるなど、ハリウッドで充実した女優生活を送っていた。

しかしそんな人気絶頂期にあったグレースが、モナコ大公レーニエ3世と出会い電撃結婚。彼女は俳優業からきっぱり退き、後半生をモナコ公国に捧げる生き方を選んだ。だが82年に起きた自動車事故により52歳で死去、グレースはモナコの象徴として永遠の存在となった。

順調なスター街道

グレースこと、グレース・パトリシア・ケリーは1929年11月12日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの大邸宅で生まれた。父親はボート競技の金メダリストで実業家、母親は元モデルであり大学講師だった。グレースは男1人女3人兄妹の次女で、「3人姉妹の中で一番地味」と言われるような目立たない存在だった。

12歳の時にアマチュア劇の舞台に立ったグレース。普段は大人しくて恥ずかしがり屋な彼女が、そこでは別人になって自分を表現できる女優の仕事に興味を持つ。そして18歳になると、大反対する両親を説得してニューヨークの演劇アカデミーへ入学、モデルのアルバイトをしながら演技を学んだ。

卒業後いくつかの舞台に立つうちにハリウッドから誘いがかかり、22歳となった51年には『十四時間』(ヘンリー・ハサウェイ監督)で人妻役として映画デビューを果たす。この作品を見たプロデューサーのスタンリー・クレイマーに見そめられ、52年『真昼の決闘』(フレッド・ジンネンマン監督)のヒロインに抜擢、これが彼女の出世作となった。

『真昼の決闘』は保安官を演じたゲイリークーパーの新妻役。これがはまり役となり、出演した11作品中7本で妻役を演じることになったグレース。花嫁のみずみずしさと人妻の落ち着き、そして洗練された色気を若くして兼ね備えていた。

レーニエ大公との出会い

こうして人気女優となったグレースだが、実家が裕福で育ちの良い彼女は沢山のオファーから出演作品を厳選、くだらない作品に出ることなど一切無かった。そして54年にヒッチコック監督の『ダイヤルMを廻せ』『裏窓』に出演、サスペンスの名手にクールな外見の魅力と内側に秘めたセクシーさを引き出され、ハリウッドきっての人気者となっていく。

だがその一方で、恋多き女性として知られたグレース。映画で共演したゲイリー・クーパーやクラーク・ゲーブル、ウィリアム・ホールデンといったスター俳優、または有名デザイナーなど、噂に過ぎないものを含めて沢山の浮き名を流した。

両親から厳しく躾けられたグレースには免疫が少なく、魅力的な男性に出会うとすぐにのぼせ上がるところがあった。また彼女のクールな外見と熱いものを秘めた内面とのギャップが、共演者を始め多くの男性を魅了したと言われている。

そんな彼女の運命を大きく変えることになったのが、オスカー女優として招待された55年のカンヌ国際映画祭だった。映画祭に出席したグレースは知人の紹介により、車で2時間の距離にあるモナコ公国の王宮を訪問。独身でハンサムなレーニエ大公と会見し、たちまちその人柄に魅入られてしまう。

その年の末、フィラデルフィアで両親とクリスマスを過ごすグレースのもとへ、レーニエ大公が突然に非公式で訪問。そして新しい年が明けるとグレイスに求婚し、彼女は感動を持ってそのプロポーズを受け入れたのである。

「私は自分の夫がミスター・グレース・ケリーと紹介されるのは絶対に嫌だった。夫の姓で呼ばれたいと思っていた」と語ったグレース。モナコのレーニエ大公は申し分のない相手だった。二人は56年1月5日に婚約を発表、同年4月18日にモナコ宮殿で結婚式を挙げた。前夜祭に続いて19日にも挙式が行われ、これらの模様はヨーロッパで生中継されている。

観光立国の復興

観光業を唯一の産業とする地中海沿岸の小さな国、モナコ公国。だが大きな財源であるモンテカルロのカジノは、当時ギリシャの海運王オナシスの私有物。その莫大な収入はモナコにではなく、ほとんど彼の懐に転がりこんでいるという状態だった。

モナコはグレースを迎え入れることによって、アメリカからの観光客が大幅に増えることが見通された。それから大公の跡継ぎを作ることも大事だった。大公に跡継ぎが生まれなかった場合、庇護下にあるモナコはフランスに吸収されてしまうのだ。

大公は4月に盛大な結婚式を挙げると、直後にアメリカ資本の導入を計り、積極的な産業振興にとりかかった。建築ブームが起こり、高層アパートやリゾートマンション、ホテルが次々と建てられて、グレース目当ての観光客を受け入れる体勢が整った。

その目論見は成功。モナコ公国は潤いを見せ、海は埋め立てられて領土も僅かながらも増えて、さらにカジノはオナシスの手から取り戻された。そしてグレースは長女カロリーヌ、長男アルベール、次女ステファニーと次々に子供を産み、まさにモナコの救世主となったのである。

その後もグレースは公妃として、観光立国モナコのPRや文化・福祉支援に尽力し続けた。その活躍ぶりは14年の映画『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』(ニコール・キッドマン主演)にも描かれている。ただしこの作品は忠実な伝記映画ではなく、あくまでフィクションとしてつくられたものである。

突然の事故死

公妃であり、妻であり、母親であり、2百も部屋のある宮殿の女主人でもあったグレースは多忙な毎日を送るが、そこには充実感に満ちた人生があった。時には大きくなった子供たちのヤンチャやスキャンダルに世間の親以上に頭を悩ませる事もあったが、グレースの凜とした姿勢は変わらなかった。

しかし不幸は突然訪れた。82年9月13日、モナコに近いフランス国境沿いの山中で、グレース自ら運転するローバー・ファン3500が急カーブの坂道でガードレールに激突。ガード下の崖を40m転がり落ちてローバーは大破し、グレースと同乗していた次女のステファニーが車から放りだされた。

ステファニーは軽傷ですんだが、重体のグレースは意識不明のまま病院へ搬送。しかしグレースの意識はついに回復しないまま、翌14日午前10時半に52年の生涯を閉じた。検死の結果、グレースが運転中に脳梗塞を起こし、それが事故に繋がったとの発表がなされる。

パリに留学するステファニーの荷物で車がいっぱいになってしまったため、グレースは運転手を使わず自ら運転。脳梗塞自体はごく軽いものだったようだ。26年間モナコ公妃を務めた彼女にとって、あまりにも悲劇的であっけない最後となった。

19日にモナコ大聖堂において葬儀が行われ、多くの人々がグレース公妃の死を悼んだ。そしてグレース・ケリーはその美しさのまま、モナコの象徴として永遠に記憶されることになる。

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