「 Jで輝いた星人 」 ドラガン・ストイコビッチ ( ユーゴスラビア )
脅威のテクニックと自在なパスワークでピッチを支配。さらには正確なフリーキックやシュートなど、フィニッシャーとしての才能も発揮した。その技巧的なプレーで旧ユーゴスラビアの中心を担った選手が、ドラガン・ストイコビッチ( Doragan Stoikovic )だ。
シンプルなパス回しと巧みなボールコントロールでゲームを組み立て、相手が寄せてくれば変幻自在なドリブルでかわし、広い視野での大きなサイドチェンジで相手守備陣を一瞬で混乱に陥れた。そのロングパスの精度の高さに、観客はため息をつくばかりだった。
しかし選手としての全盛期に大きな故障やクラブのスキャンダル、祖国の紛争に見舞われ、失意のうちにヨーロッパを離れて来日。そしてJリーグの名古屋グランパスで輝きを取り戻して、世界レベルの技を日本のファンに見せてくれた。
ストイコビッチは1965年3月3日、旧ユーゴスラビア連邦のセルビア・ニシュに生まれた。子供時代は当たり前のようにサッカーをして遊び、友達からは「ピクシー」のあだ名で呼ばれていた。このあだ名の由来は、ストイコビッチが大好きだったアニメキャラクター、“ネズミのピクシー(Pixie)” から。これがのちにマスコミによって “妖精(Pixy)” と名付けられることになる。
日本ではメルヘンなイメージが強い「妖精」だが、ヨーロッパの伝承物語では狡猾さで人を惑わす超自然的な存在。相手を欺くストイコビッチの変幻自在なプレーが、妖精の魔的イメージに重なっていったのである。
14歳の時に地元クラブ、ラドニチュキ・ニシュの下部組織へ入団。抜きん出た才能を見せたストイコビッチはすぐにジュニアチームのキャプテンとなり、16歳の時にはトップチームの試合にも出場するようになった。
83年に18歳でプロ契約を結ぶと、その年にはユーゴ代表にも選ばれる。11月に行われたフランスとの親善試合で代表デビュー、子供時代から憧れていたプラティニと対戦し、最後はユニフォーム交換をしている。84年には欧州選手権とロサンゼルス五輪に出場。欧州選手権では当時最年少記録(19歳)となるゴールを決め、ロス五輪ではユーゴの銅メダル獲得に貢献した。
翌85年は兵役についたためしばらくサッカーを離れるが、除隊後に国内リーグの名門、レッドスター・ベオグラード(ツルベナ・ズベズダ)から破格のオファーが舞い込む。ユーゴ歴代最高の名手と言われ、レッドスターのテクニカルディレクターを務めるドラガン・ジャイッチがストイコビッチの才能に惚れ込み、高額の移籍金のほかレギュラー選手5人の譲渡をクラブに提示してきたのだ。
こうしてストイコビッチは86年にレッドスターへ移籍。1年目から32試合17ゴールの活躍を見せた。翌87-88シーズンには22歳でクラブ史上最年少のキャプテンに就任。フロントが進める【欧州制覇5ヶ年計画】の中心的存在となった。
ストイコビッチは88年から90年まで3年連続でリーグMVPに輝き、89年にはクラブ歴代の偉大な選手(ジャイッチら過去4人)に贈られる「ズベズディナ・ズベズダ(星人)」の称号を得る。24歳という異例の若さで「5大星人」に選ばれたストイコビッチは、まさにクラブの象徴だった。
10番をつけたストイコビッチに加え、プロシネツキ、サビチェビッチなど才能豊かな若手が育って陣容を整えたレッドスター。88-89シーズンに出場したチャンピオンズ・カップでは、2回戦で当時世界最強のACミランと対戦する。
ストイコビッチ、プロシネツキ、サビチェビッチの圧倒的なボールキープ力は、世界を席巻したミランのプレス戦術を翻弄。第1レグはストイコビッチが得点を挙げて1-1の引き分け、第2レグはサビチェビッチのゴールで1-0とリードした。
しかし濃霧のため第2レグは途中で打ち切り、翌日に改めて再試合が行われた。再試合はストイコビッチが同点ゴールを決めるも、1-1の引き分け。PK戦の末ミランが辛くも勝ち上がった。しかしレッドスター攻撃陣はあのバレージやライカールトも慌てさせ、世界屈指の強豪を敗退寸前まで追い込んだ。
90年、イビチャ・オシム監督に率いられたユーゴスラビア代表は、2大会ぶりとなるWカップ・イタリア大会に出場する。G/Lを2位で勝ち上がったユーゴは、決勝T1回戦でスペインと対戦。0-0のまま終盤を迎えた79分、ゴール前に高く上がったロビングを、ストイコビッチが吸い付くようなトラップ、巧みにDFとキーパーをかわしてゴールを決めた。
83分にサリナスのゴールを許して同点に追いつかれるが、延長に入った92分、ユーゴはFKのチャンスを得る。キッカーはストイコビッチ、その右足から放たれたボールは、見事スペインの壁を巻いてゴールに飛び込んだ。こうして接戦を勝ち取ったユーゴは、準々決勝でマラドーナ擁するアルゼンチンと戦う。
前半の30分、マラドーナをマークしていたサバナゾビッチが2枚目の警告を受け退場処分、ユーゴは早い時間で数的不利に追い込まれてしまった。それでもユーゴチームは卓越した技術で対抗、ストイコビッチのパスでチャンスをつくり、プロシネツキのドリブルがアルゼンチンDFを切り裂いた。
しかし延長に入ってからサビチェビッチが2度の得点機を逃すなど、決定力を欠いて試合は0-0で終了、勝負はPK戦に持ち込まれた。1番目に蹴ったストイコビッチのシュートはバーを直撃、しかしこのあとマラドーナもゴールを外して、3人ずつが終わり両チームはタイとなる。
しかしアルゼンチンの守護神ゴイゴチェアが2本続けてゴールを阻止、ユーゴの敗退が決まった。ユニフォームで頭を覆い、涙に暮れるストイコビッチ。そんな彼のもとに歩み寄り、慰めの言葉を掛けたのは、同じくPKを外したマラドーナだった。しかしその印象深い活躍で、ストイコビッチは大会のベストイレブンに選ばれた。
Wカップ終了後、ストイコビッチはフランスのオリンピック・マルセイユに移籍する。マルセイユのオーナーはフランス経済界の異端児、ベルナルド・タピ。タピ会長は豊富な資金力でフランチェスコリやJ・P・パパンといったスター選手を買い集めており、ストイコビッチのWカップ予選での活躍がその目に止まったのだ。
マルセイユでは期待され、背番号10をつけることになったストイコビッチ。しかし移籍早々の試合で膝を負傷、長期離脱を余儀なくされてしまった。90-91シーズンのチャンピオンズ・カップ、マルセイユは決勝に進出。欧州チャンピオンを懸けて戦った相手は、ストイコビッチの古巣レッドスターだった。
双方慎重な戦いとなった決勝は、0-0のまま延長に突入する。そして終了が近づいた112分、ケガで先発を外れていたストイコビッチが投入された。「星人」の登場にレッドスターの選手は動揺を見せるが、どうにか持ちこたえてPK戦になだれ込んだ。
そしてPK戦では5人全員が決めたレッドスターが初優勝、【欧州制覇5ヶ年計画】を完遂した。チームを牽引したサビチェビッチは「もしストイコビッチが先発していたら、僕らは負けていたかもしれない」と、のちに告白している。
ケガでポジションを失ってしまったストイコビッチは、91年にセリエAのベローナにレンタル移籍される。しかし守備的なイタリアサッカーに馴染めず、1年でマルセイユに戻った。92-93シーズン、マルセイユは再びチャンピオンズリーグ(92年に規模を拡大し改称)の決勝へ進出。ケガのストイコビッチがピッチに立つことはなかったが、ミランを1-0で下して初の栄冠を手にした。
しかし93年5月、マルセイユのリーグ八百長疑惑が発覚。そして9ヶ月に及ぶ裁判の結果、92-93シーズンのリーグ・アン優勝が取り消され、チャンピオンズリーグのタイトルは残ったものの、トヨタカップへの出場権は剥奪されてしまった。
シーズン終了後マルセイユは2部リーグへ降格、タピ会長の脱税などスキャンダルも相次ぎ、多くの有力選手がチームを離れていった。マルセイユから2年の契約延長を提示されていたストイコビッチもチームの醜態に失望、熟考の末にJリーグが始まったばかりの日本行きを決断する。
さらに祖国のユーゴスラビアが5つの共和国に分裂、独立を巡る紛争が勃発する。そこで起きた過剰な武力行使が非難され、新ユーゴは国連から制裁を科せられてしまった。国際社会からの閉め出しを受けたユーゴはユーロ92の出場権を剥奪され、Wカップ予選への参加も認められなくなってしまった。
もはやストイコビッチがヨーロッパに留まる理由はなくなり、心身ともに痛手を負っていた彼は、遠い国でのリフレッシュを望んだのだ。
94年6月、名古屋グランパスエイトと半年間の契約を結ぶ。最初は慣れない環境に戸惑ったストイコビッチだが、すぐに日本のことが気に入る。しかしデビュー戦で主審のイエローカードに納得できず抗議、僅か18分で退場処分となってしまった。こうしてストイコビッチには、反抗的で扱いにくい選手というレッテルが貼られてしまう。
しかもゴードン・ミルン監督と折り合いが悪く、彼が指揮を執った2ndステージ8試合でフル出場は4試合、3試合は出番さえ与えられなかった。しかもストイコビッチが強いこだわりを持っていた10番は、故障による欠場を続けていたリネカーのもの、フラストレーションばかりが溜まるシーズンとなってしまった。それでも、豪雨の中のリフティングドリブルで観客の度肝を抜くなど、一流選手の片鱗も見せている。
グランパスは2ndステージ最下位と低迷。ゴードン監督は途中解任され、リネカーはシーズン終了後に現役を引退した。95年、マルセイユのライバルチーム、ASモナコを指揮していたアーセン・ベンゲルが監督に就任。この再生名人のもとで、ストイコビッチはかつての輝きを取り戻すことになる。
念願の10番を着け、ベンゲルから中盤の自由を与えられたストイコビッチは躍動。17得点29アシストの活躍でリーグMVP を獲得し、“Jのお荷物” と呼ばれたグランパスを年間総合3位に押し上げた。そしてグランパスの初タイトルとなる天皇杯優勝にも貢献、「ピクシー」の愛称も日本で定着するようになった。
ベンゲルは96年途中にグランパスを去るが、ストイコビッチはチームに残留。その後ヨーロッパから届いたいくつかのオファーにも、彼が首を縦に振ることはなかった。
99年にグランパスは再び天皇杯の決勝へ進出。ストイコビッチのアシストで1-0とリードした82分、カウンターからエリア内でボールを受けると、広島の選手を一人また一人とキックフェイントでかわし、決定的な追加点を決めて2度目の優勝。まさに「星人」の輝きを見せた。
国連の制裁が解かれ、2年半のブランクから国際舞台に復帰したユーゴは98年のWカップ・フランス大会に出場を果たした。G/L第2戦ではドイツと対戦、ミヤトビッチとストイコビッチのゴールで終盤まで強豪に2-0とリードする。しかしドイツお家芸の粘りで追いつかれ、2-2の引き分けとなった。
2位で勝ち上がった決勝Tではオランダと対戦。38分にベルカンプのゴールで先制されるが、後半の48分にストイコビッチの蹴ったFKからヘディングによる同点ゴールが生まれた。しかしその3分後ミヤトビッチがPKを失敗、逆転のチャンスを逃してしまう。そして試合終了直前にダービッツの決勝弾を許し、ユーゴはベスト16で散っていった。
01年7月4日、大分スタジアムでキリンカップ・ユーゴスラビア対日本の試合が行われ、36歳のストイコビッチはこのゲームを最後に代表のユニフォームを脱いだ。そしてこのあと、名古屋グランパスで20年にわたる現役生活に別れを告げる。
同年9月にはユーゴスラビアサッカー協会の会長に就任。05年にその職を辞し、レッドスター・ベオグラードの会長となった。08年からは名古屋グランパスの監督を務め、10年にはチームを初のリーグ制覇に導いている。09年の横浜Fマリノス戦では、革靴による50mダイレクトシュートを披露。現役時代と変わらぬ「星人」のスゴ技で、世界の注目を集めた。