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《 サッカー人物伝 》 フェルナンド・レドンド

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「 中盤の貴公子 」 フェルナンド・レドンド ( アルゼンチン )

優雅で知性にあふれたプレースタイルは見る者を魅了し、エレガントさ漂わせる背筋の伸びたシルエットと、長髪の似合う端正なルックスで「エル・プリンシペ(王子)」と呼ばれたアルゼンチンの貴公子が、フェルナンド・レドンド( Fernando Carlos Redondo Neri )だ。

レアル・マドリードでは中盤を華麗に仕切り、柔らかなボールタッチと、姿勢のいいルックアップから長短の正確なパスを繰り出してゲームを操った。またボールの奪い合いや、素早く危険の芽を摘む守備ではアルゼンチン選手らしい激しさも見せて、理想的なボランチとされた。

実業家の家庭に生まれ、大学卒という経歴を持つレドンド。その華麗な見た目に似合わない信念の強さも持ち合わせ、20歳で代表から招集を受けた時は、当時のビラルド監督の方針に合わず辞退。代表定着後もパサレラ監督と意見が衝突してユニフォームを脱ぎ、己の意志と姿勢を貫いた。

貴公子の旅立ち

レドンドは1969年6月6日、首都ブエノスアイレスの郊外にあるアドロゲの高級住宅街で生まれた。父親は元サッカー選手で、その影響を受けて幼少からボールへ慣れ親しみ、9歳の時に地元レメディオ・デ・エスカラーダのジュニアチームで本格的にサッカーを始める。

この小クラブでレドンドは早くも才能を発揮、その卓越したサッカーセンスは他の追随を許さなかった。1年後にはブエノスアイレスの有力クラブ、アルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織に入団。15歳でU-16代表に招集され、中心選手として南米選手権制覇の原動力となる。

その実績が買われ、16歳でアルヘンティノスのトップチームに昇格。若くして国内屈指のゲームメイカーと評価され、国内の各クラブがレドンドの争奪戦に乗り出した。しかし彼は数々の誘いを断わりチームに残留、大学で法律を学びながらさらなるチャンスを待った。

89年、レドンドは翌年のイタリアW杯を見据えたアルゼンチン代表から招集を受けるが、学業優先を理由にその要請を辞退して世間を驚かせた。当時の代表監督は、86年のメキシコWカップでアルゼンチンを優勝に導いたダニエル・パサレラ。彼のあまりにも守備的な戦術では、自分に活躍の場はないだろうと感じての辞退だった。

90年に大学を卒業、アルヘンティノスとの契約が切れてフリーとなったレドンドに、アルゼンチン人のホルヘ・ソラーリが監督を務めるスペインのCDテネリフェが代理人を通して接触。レドンドは急遽テネリフェ島に向かい、2日後には契約書を交す。小クラブながらスペインはレドンドの憧れの地、ようやく彼にチャンスが訪れたのだ。

91年には元アルゼンチン代表FW、ホルヘ・バルダーノがテネリフェの監督に就任。新監督は本国から遠く離れたカナリア諸島に本拠を置く弱小クラブを降格の危機から救い、91-92シーズン最終節では「テネリフェの奇跡」と呼ばれる大逆転劇を演じ、レアル・マドリードに3-2と勝利してリーグ優勝を阻止した。

そして攻撃的サッカーを志向するバルダーノ監督のもとでレドンドは重用され、プレーの成熟度を増していくことになる。92-93シーズンもテネリフェはレアルに勝利し、レドンドは中盤の要として活躍、チームのリーグ5位躍進に貢献する。テネリフェは翌年のUEFAカップに出場、ベスト16入りを果たしてサポーターを喜ばせた。

レドンドとマラドーナ

代表デビューとなったのは、92年10月16日のコートジボワール戦。91年から代表監督に就任したアルフィオ・バシーレはレドントやバティストゥータシメオネといった若手を積極的に登用、91年と93年のコパ・アメリカでは連覇を達成した。

93年のコパ・アメリカでは精彩を欠いてしまったレドンドだが、同年のキング・ファハド・カップ(のち、コンフェデレーションズカップ)では中盤の底からチームを指揮し優勝に貢献、印象に残る活躍で大会MVPに選ばれた。

こうして臨んだWカップの南米予選、しかしアルゼンチンは予想外の苦戦を強いられることになる。強敵コロンビアをホームに迎えた予選1組の最終節、司令塔バルデラマのパスが冴え渡りアルゼンチンの守備陣が崩壊、アスプリージャに2ゴールを許して0-5の惨敗を喫してしまう。

結果、南米予選1組で2位に終わってしまったアルゼンチンは、Wカップの出場権を懸けてオーストラリアとホーム&アウェイの大陸間プレーオフを争うことになった。そしてこの負けられない戦いで代表に呼び戻されたのが、薬物使用により1年間の出場停止処分を受けていたディエゴ・マラドーナである。

南米予選の直前、レドンドのプレーを批判したマラドーナの発言がマスコミの記事になり、二人の仲が危惧されていた。しかし同じピッチに立った二人の間に大きな問題が生じることもなく、無事プレーオフを勝ち抜いてアルゼンチンは本大会出場を果たすことになった。もともとマラドーナの発言はレドンドの才能を認めてのもの。そこに初めから対立はなかったのだ。

94年Wカップ・アメリカ大会、アルゼンチンはG/L初戦でギリシャと対戦。バティストゥータがハットトリックを記録し、レドンドのお膳立てでマラドーナが復活のゴール、4-0の快勝でさい先の良いスタートを切った。続くナイジェリア戦では先制を許すが、マラドーナのFKからカニーヒアが2点を挙げて逆転勝利を収めた。

ここまで順調なアルゼンチンだったが、ナイジェリア戦後のドーピング検査でマラドーナの尿から禁止薬物が検出される。アルゼンチン協会はすぐにマラドーナを大会登録から抹消、勢いを失ったチームは最終節ブルガリア戦を0-2で落とし、決勝T1回戦ではルーマニアに2-3と競り負けて敗退となった。

レドンドはこの大会4試合全てにフル出場を果たすが、マラドーナ騒動の陰に隠れて強い印象を残すことが出来なかった。

レアル・マドリードのエル・プリンシベ

94-95シーズン、バルダーノ監督がレアル・マドリードの監督に就任すると、同時にレドンドもレアルへ移籍することになった。そして移籍1年目から攻守の要として活躍、ラウル・ゴンザレスイバン・サモラノM・ラウドルップらのダイナミックな攻撃をボランチとして支え、リーグ優勝に貢献した。

だが翌95-96シーズンはケガに悩まされ、ほとんど1年を棒に振ってしまうことになる。しかしこの苦しい時期を経験し、精神的成長を果たしたレドンドは96-97シーズンに復帰、再びリーグ優勝の中心メンバーとなった。

98年5月、レアルはチャンピオンズリーグの決勝へ進出、ジダンデル・ピエロを擁するユベントスを1-0と下し、32年ぶりの欧州クラブ王者に輝く。

そして同年の12月にはトヨタカップに出場、ブラジルのヴァスコ・ダ・ガマをラウルらのゴールで2-1と破り、世界1クラブの栄冠を手にする。まさにこのチャンピオンチームでタクトを振るったのが、中盤の貴公子レドンドだった。

98年、アルゼンチンは順調に南米予選を突破しWカップ・フランス大会に出場。しかしそこにレドンドの姿はなかった。代表選手の長髪、イヤリング、同性愛を禁じたダニエル・パサレラ監督に反撥、自らアビセレステス(白色と空色)のユニフォームを脱いだのである。

99-00シーズン、レドンドはキャプテンとしてレアルを牽引する。そしてチャンピオンズリーグの準々決勝では、前回王者のマンチェスター・ユナイテッドと対戦。ホームでの第1レグを0-0の引き分けで終えたレアルは、第2レグを敵地オールド・トラッフォードで戦う。

後半に入った52分、ドリブルで敵陣内を切り裂いたレドンドは、バックヒールで相手DFを股抜き。タッチラインからのパスで、ラウルの決勝ゴールをアシストするという伝説的プレーを演じた。3-2と勝利したレアルはこの勢いで決勝へ進出、同じスペインのバレンシアを3-0と下して2大会ぶりの優勝を果たす。レドンドはこれらの活躍で、大会MVPに選ばれた。

00年にはレアルの会長選が行われ、フロレンティーノ・ペレスが新会長に就任。この年からレアルは毎年ビッグネームを獲得し「銀河系軍団」が形成されることになるが、反対に押し出される形となったのがレドンドだった。

ミランへの移籍

レアルに愛着を持っていたレドンドだが、クラブ間で移籍話が進み00-01シーズンにACミランへ移籍となる。しかしセリエAのシーズン開幕直前、トレーニング中に右膝靱帯を断裂、長期離脱を余儀なくされてしまった。

そして長いリハビリのあと、03年のチャンピオンズリーグ、レアル・マドリード戦で復帰。79分にアンドレア・ピルロとの交代でピッチを去る歳には、古巣サンチャゴ・ベルナベウのサポーターからレドンドにスタンディングオベーションが送られた。

しかし結局レドンドの膝は完治することなく、04年のシーズンを最後に34歳で現役を引退した。引退後はブエノスアイレスに戻るが、最近では指導者を目指してライセンスを取得中であるという報道もされた。

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