田宮二郎の死と「白い巨塔」




『白い巨塔』で演じたアクの強い大学病院外科医・財前五郎や、『悪名』『犬』シリーズで颯爽としながら暗い翳を背負ったアウトローの役、またはクイズ番組で見せた知的かつ渋いイメージで人気を博した、昭和の二枚目スター・田宮二郎。

その都会的でクールな外見からは窺うことの出来ないほどの野心を持ち、次第に心のバランスを失って、ついには多くの謎とスキャンダルを残したまま猟銃自殺を遂げてしまう。生涯の代表作と自負する『白い巨塔』(78年、フジテレビ)の放映を2話残しての壮絶な死は、世間に大きな衝撃を与えた。

しかし名作『白い巨塔』は何度もリメイクされ、数十年経った今でも田宮二郎の強烈な生き様は財前五郎の面影に残り、人々の記憶から薄れることはない。


田宮二郎こと、本名・柴田吾郎は大阪府大阪市出身。住友財閥と関わりを持つ名家に生まれたが、父親は息子が生まれた直後に交通事故死。結核を患っていた母親も田宮が10歳になる前に亡くなっている。その後は京都に住む厳格な祖父母の元で育つが、やがてその祖父母も亡くなり伯父夫婦に引き取られた。

田宮の生家は京都の大企業に貸し出され、その賃貸料から彼の養育費・生活費が経費として伯父夫婦によって差し引かれた。そこに無償の愛情はなく、孤独な少年時代を送った田宮は傷つきやすく、他人の評判を気にする性格が形成されていったと言われている。

田宮は思春期である15歳から16歳にかけ母親と同じ結核を患い、高校を一年間休学する。その後は回復し、学習院大学に進学して演劇に興味を持つととともに空手初段を取得した。そして大学在学中の55年(昭和30年)、新聞社主催のミスターコンテストで優勝したことをきっかけに、大映の10期生として映画界入りする。

57年に本名の柴田吾郎で映画デビュー、その後しばらくモデルの副業をしながら下積みの時代を過ごした。59年には大映の永田雅一社長より、芸名「田宮二郎」を拝命。これは永田社長がオーナーを兼務したプロ野球チーム「大毎オリオンズ」の強打者・田宮謙次郎からあやかったものである。

最初は難色を示した田宮だが、ワンマンオーナーに逆らえるはずもなく、その後は終生「田宮二郎」の名前にプライドを持ち続けたという。端役時代の彼は、一般のファンを装って大映の広報部に電話を掛け「田宮」の名前をアピールしたり、看板女優の会見に何食わぬ顔で乱入したりと、自身の売り込みに執念を燃やした。

61年(昭和36年)、山崎豊子原作『女の勲章』(吉村公三郎監督)の、ファッション界で立ち回る男・八代銀四郎を好演、注目を浴びる。そして同年の『悪名』では主役・勝新太郎の弟分に抜擢され、ニヒルなやくざ「モートルの貞」が当たり役となって、ようやく人気スターの仲間入りを果たす。

『悪名』シリーズでの勝とのコンビは、田宮が大映を去るまで14作続いたが、私生活ではまったく相容れる部分がなかったようだ。「大名行列」と称して大所帯で夜の銀座を豪快に練り歩く勝と、大部屋俳優にテンヤ物をとって「はい、ご苦労様」と合理的に済ませる田宮。また時に主役を食うような演技を見せる田宮に、勝はあまりいい感情を抱いていなかったらしい。

女優の藤由紀子(幸子)と結婚した翌66年、映画『白い巨塔』(山本薩夫監督)に主演、野心的なエリート医師・財前五郎を熱演した田宮は大きな評判を取った。前年のラジオドラマで財前に出会った田宮は、原作者の山崎豊子に自分の演技プランを披露、「財前はあなたにあげます」と言質を取るほどこの役に入れ込んだ。

しかし映画では原作の前半部分しか描かれず、また撮影時にはまだ29歳と若かった田宮は、役作りに背伸びを余儀なくされた。そのため田宮は不完全燃焼に終わった「財前五郎」に再度挑戦し、ラストの壮絶な死まで完結させたいと切望するようになる。

その後もキャリアを重ね、大映を支えるスターの一人となった田宮だが、32歳となった68年にその後の人生を変える大きな出来事が起きた。

主演した『不信のとき』(今井正監督)のポスターを見た田宮は、本来一番であるはずの自分の序列の低さを知り、愕然とする。大映の看板女優である若尾文子の名前がトップに来るのはまだしも、2番手は松竹の加賀まりこ、フリーの岡田茉莉子がトメ(最後)となっており、トメ前(4番手)に置かれた田宮の自尊心は大きく傷つけられたのである。

「納得できません」と田宮は永田雅一社長に直談判。その迫力に押され、永田は「お前の言う通りや」とあっさり田宮の主張を認めた。だがそれからも田宮はしつこく詰め寄り、「おい、思い上がるな」と社長を激怒させる。結局ポスターは刷り直されて田宮の名前はトップとなったが、契約を残したまま彼は大映から解雇された。

さらに永田は「五社協定」を楯に田宮を映画界から追放、テレビドラマにも出られないよう手を回す。こうして役者の仕事が出来なくなった田宮は、家族を養うため地方のナイトクラブやキャバレーを巡り、歌や司会業で糊口を凌ぐことになる。

そんな田宮を救ったのが、NET(現、テレビ朝日)のテレビ番組だった。69年から始まった『タイムショック』の司会に抜擢され、番組の人気とともに、田宮のスタイリッシュで軽妙な話術と的確な進行は茶の間の好感を得たのだ。一方田宮が去ったあとの大映は、看板スターの市川雷蔵が病死、勝新太郎が独立するなどスターシステムが崩壊、71(昭和46)年に倒産してしまう。

田宮は東映のプロデューサーに誘われ映画界に復帰。TBSとも専属契約を結び、73年の『白い影』を皮切りに【白いシリーズ】がスタート、同局・山口百恵主演の【赤いシリーズ】とともにドラマは人気を博した。

この頃、ホテルのエレベーターで落ち目の永田雅一と偶然乗り合わせた田宮は、永田がそそくさとエレベーターを降りると、その後ろから「俺は絶対、あんたには負けないからな!」の言葉を浴びせかけたという。

しかし俳優・司会者として絶頂期を迎えた田宮には、大きな落とし穴が待っていた。「田宮企画」を立ち上げ映画『3000キロの罠』や『イエロードッグ』を製作するが興行は失敗、あとには多くの負債が残された。またゴルフ場やマンション経営にも手を出すが、どれもうまくいかなかった。

それでも取り憑かれたように実業家への転身を口にし始めた田宮の周りには、「M資金」や「トンガでのウラン採集」といった怪しげな投資話が持ち込まれるようになる。虚栄心の強い田宮は詐欺師の巧みな誘い言葉に乗せられ、どんどんその深みにはまって行く。

また過労から結核が再発、仕事に穴を空けないため毎日激痛を伴うペニシリン注射を打ち続けた。さらには薄くなっていく頭髪にも悩むようになり、周囲にバレないよう船でイギリスに渡航、秘密裏に植毛の手術を受ける。しかし当時の植毛は荒治療、手術で言葉には出来ないほどの痛みを味わい、その後遺症により死ぬまで扁桃腺に苦しんだという。

77年(昭和52年)にはドラマで共演した山本陽子とのスキャンダルが発覚する。幸子夫人が山本のいるフジテレビに乗り込み談判、田宮との関係を終わらせた。この頃から田宮は些細な事で激高、夫人の座る椅子を蹴り上げたかと思えば、突然テーブルに突っ伏して泣くなど、明らかな変調を見せ始めた。

精神科医の診断は【躁鬱病】、幸子夫人は「時すでに遅し」の説明を受ける。田宮はあらゆる現場で異常な言動を重ね、スタッフと衝突するなどトラブルが絶えず、マネージャーがノイローゼーで顔面麻痺になるなどもはや行き詰まった状態だった。

「田宮企画」の代表となっていた幸子夫人は、CMに起用して貰っている「大関酒造」「トヨタ自動車」から休養の了承をとりつけ、9年間続けた『クイズタイムショック』も降板することになった。TBSとの専属契約も解消して事務所は一時閉鎖、田宮を長期に休ませる準備を進めた。

しかし夫人の知らないところで田宮はフジテレビと話し合いを持ち、テレビドラマへの出演を承諾してしてしまう。原作の財前と同じ42歳になっていた田宮は『白い巨塔』のドラマ化を強く希望、諦めさせるため夫人が出した厳しい条件をフジテレビが受け入れたため、企画は実現に向けて動き始める。

78年3月に撮影が開始、6月の初回視聴率も良くドラマは好調なスタートを切ったが、一時収まりかけていた田宮の躁鬱は再び症状を見せ始めるようになる。ライバル里見徹二を演じた山本學と口論を交す場面で田宮はエキサイト、あまりのテンションの高さに、山本は「ごめんなさい」と撮影を止めた。するとこの行為に田宮は激怒、あとで謝りに来た山本を激しく罵倒する。

かと思えば、テレビ局の廊下で親しい知り合いとすれ違っても全く感情を見せなかったり、急に泣き崩れてプロデューサーに抱きついたりと、精神的な起伏の激しさは増すばかり。しかもその撮影中に「国家事業」と称してトンガ行きを強行、フジテレビを慌てさせた。

撮影の後半にはセリフも頭に入らなくなり、最終回まで辿り着けるかプロデューサーを不安にさせるほど症状は深刻化していった。一方では共演者にトンガへの投資を持ちかけたりと、怪しげな事業話に執着する田宮は、土地の権利書や実印を巡って幸子夫人とも諍いを起こすようになり、怒って暴れる彼に家庭も修羅場と化していく。

それでもスタッフの支えと共演者の協力で、全31話の撮影は11月に無事終了。財前が癌に侵される場面では三日間の絶食で臨み、撮影で使う遺書も自らがしたためた。臨終のあと解剖室に運ばれるシーンでは「荘厳ミサ曲」を流して貰い、全身白シーツに覆われた遺体も田宮自身が演じた。

まさにそれは演技の域を越えた、ライフワークの集大成たる財前五郎の最後。田宮が顔を覆っていた布を取って周りを見渡すと、皆が涙していたという。これには勝新太郎さえ、「おい、あの演技は凄いな。あの田宮は恐ろしい。玉緒、あの演技は凄いよ」と、ドラマに出演していた妻(財前に訴訟を起こす未亡人役)に唸ったそうだ。

撮影後に虚脱状態となった田宮は、寝てばかりの生活を送るようになった。それでも詐欺師連中とは縁を切り、田宮家は平穏を取り戻していた。そして年の瀬も迫った12月26日には、夫人を伴いフジテレビを訪れ『白い巨塔』最終回の試写を鑑賞している。

その2日後の28日、田宮は元麻布の自宅の寝室に籠もり、準備が終わるとクレー射撃の散弾銃を抱えてベッドに横たわった。足の親指で撃ち抜かれた銃弾は心臓を貫通、ほぼ即死の状態であったという。その顔に傷は無く、二枚目俳優の美学を貫いた最後だった。

部屋の机には家族や関係者などに宛てた8通の遺書が並べられており、覚悟の死であることが伺えた。そして幸子夫人と二人の息子には、感謝の言葉と今後の生活を補う多額の死亡補償金が残された。

『白い巨塔』の最終回は年明け1月6日に放送され、31.4%の高視聴率を記録する。そして放送後には、テレビ局へ大きな反響が寄せられている。

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