《 サッカー人物伝 》 ジャンフランコ・ゾラ

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「小さな魔法使い」 ジャンフランコ・ゾラ ( イタリア )

小柄だが敏捷な動きと、足に吸い付くようなボールタッチで相手ディフェンダーを手玉に取り、巧みなパスコントロールで攻撃を操って多くの観客を魅了したファンタジスタが、ジャンフランコ・ゾラ( Gianfranco Zola )だ。

鋭利に曲がるフリーキックはもはや異次元、「壁がキーパーの視線を遮ってくれるから、PKよりFKの方が簡単」の名言を残し、“マジック・ボックス” と呼ばれた。その魅力的なプレーもさることながら、試合に取り組む真摯な姿とピッチでも絶やさない笑顔がファンに親しまれた。

同時代に「イタリアの至宝」と呼ばれたロベルト・バッジオがいたため代表では輝く事が出来なかったが、キャリアの後半にはイングランドでも大活躍。ラニエリ監督に「彼は何でも出来る魔法使いだ」と賞賛され、プレミアで実績を残した数少ないイタリア人となった。

マラドーナの教え

ゾラは1966年7月5日、イタリア西方の地中海にあるサルディーニャ島・オリエナに生まれた。島のジュニアチームで本格的にサッカーを始め、18歳の時に地元クラブ・ヌオレーゼと契約を結び、イタリアの下部リーグでプロ生活をスタートさせる。

サルディーニャ島の中ではスバ抜けたサッカーセンスを見せ、いつかはセリエAでプレーしたいと夢見ていたゾラ。しかし本土から離れた島でプレーする彼がセリエAの目に止まることはなく、いつしか20歳を過ぎて半ばその夢を諦めかけていた。

だがセリエC1のSEFトレスでプレーしていた89年、突如セリエAの名門ナポリからゾラへオファーが舞い込んだ。当時のナポリはディエゴ・マラドーナやカレッカを擁し、86-87シーズンのスクデッドを獲得、今イタリアで一番勢いのあるチームだった。この無名選手の移籍話は本人だけではなく、サルディーニャ島のファンも驚かせた。

こうしてゾラは23歳でセリエAのナポリへ移籍、だがその歩みはまだ始まったばかりだった。移籍当初はマラドーナの影に隠れて出場機会は少なかったが、このカリスマとプレーすることでゾラは天才児のエッセンスを吸収していく。

チームの全体練習ではマラドーナからアドバイスを受け、徹底的に彼のプレーを真似して、その戦術からテクニックに至るまでを習得。そのことから後に「マラゾーナ」と呼ばれるまでになる。そしてゾラはこの時期にマラドーナ直伝と言われるフリーキックの技を磨き、自分の大きな武器とした。

89-90シーズン、ナポリはオランダトリオを擁するACミランをかわし、3年ぶりのリーグ優勝を果たす。当然主役はマラドーナ、ゾラ自身の貢献度は少なかったが、彼はこの1年で貴重な経験を積んだ。

しかしこのあとマラドーナの麻薬使用やマフィアとの関係が明らかになり、イタリアサッカー連盟から15ヶ月の出場停止処分を受け、91年にはナポリを退団してしまう。91-92シーズンにはクラウディオ・ラニエリが監督に就任、マラドーナの10番をゾラに継承させた。

独り立ちしたゾラは、91-92シーズンに30試合で12ゴール、92-93シーズンは37試合で12ゴールと安定した活躍を見せチームの主力となった、しかしこの頃ナポリの経営が悪化、92-93シーズンにパルマへ売り渡される。

移籍したゾラはゲームメーカーが不在だったパルマの司令塔に抜擢され、その卓越した技でトッププレイヤーの地位を確立する。自らボールを操って鋭く前線を突破、マラドーナ譲りのスルーパスで多くのチャンスをつくり、また得意のFKも威力を発揮した、そして移籍1年目は、37試合19ゴールの活躍でチームをリーグ3位に押し上げる。

悔いの残ったワールドカップ

イタリア代表には、91年11月のノルウェー戦でデビューを果たす。しかし同じポジションで、同じプレースタイルを持つバッジオの存在により、代表への定着は果たせずにいた。しかし94年Wカップ・アメリカ大会開幕直前、バッジオがアキレス腱を痛めてしまい、ゾラは代役として代表メンバーに選ばれる。

だが故障を抱えたバッジオは無理を押して大会に出場、ゾラは控えとして出番を待つことになった。ようやくそのチャンスが回ってきたのは、決勝トーナメント1回戦のナイジェリアとの試合だった。前半にナイジェリアの先制を許したイタリアは、反撃を狙って後半の62分にゾラを投入する。

その12分後、ゾラは左サイドでドリブル突破を試みボールを奪われれるが、強引に身体を入れて奪い返す。だがそのとき相手の足を踏みつけてしまい、報復行為とみなされ一発退場となってしまった。VTRでは厳しすぎるジャッジにも見えたが、ラフプレーには厳正に対処するようFIFAからの通達が出ており、不運としか言いようがなかった。

ゾラの退場で数的不利となり、敗退の危機に追い込まれたイタリア。しかし終了直前の88分にバッジオが起死回生の同点ゴール、延長でもバッジオがPKを決め、逆転勝利を収めたイタリアは決勝まで勝ち進む。しかしこのあとゾラに出場の機会はなく、悔しさだけが残る大会となった。そして結局これが、Wカップでの唯一のプレーとなる。

プレミアリーグでの活躍

パルマでのゾラは、“コロンビアの快足FW” アスプリージャとの絶妙なコンビネーションで躍動、94-95シーズンにはチームをセリエAの優勝争いに導いた。接戦の末リーグ優勝は逃してしまうが、95年にはUEFAカップ優勝を果たし、ゾラは中心選手として貢献する。

96年、カルロ・アンチェロッティがパルマの監督に就任。新監督はチームの改造に着手し、ゾラを中盤の下がり目のポジションに移して、それまで以上の守備も要求した。ゾラはこれに反撥、アンチェロッティ監督との間には確執が生じてしまう。

そのためゾラはパルマのユニフォームを脱ぐ事を決意、この時プレミアLのチェルシーで選手兼任監督を務めていたルート・フリットの誘いを受けて、96年に30歳でイングランドに渡った。95年の「ボスマン裁定」でEU内の移籍が事実上自由化され、資金力のあるチェルシーはゾラのほか、ヴィアリやディ・マッティオなど大物イタリア選手を次々と獲得していたのだ。

プレミアデビューから4試合目となるエバートン戦、ゾラは27mの強烈なFKをゴール右上隅へ決め、英国サポーターの度肝を抜く。97年2月のマンチェスター・ユナイテッド戦では飛び込んでくるディフェンダーを軽くかわし、さらには2人を抜いて守護神ピーター・シュマイケルの牙城を破った

チェルシーは97年のFAカップ決勝へ進出、ミドルズブラを破って27年ぶりの優勝を果たす。ゾラは意表を突くバックヒールで勝利に繋がるアシストを記録し、この年のイングランド年間最優秀選手に選ばれた。

98年、チェルシーは欧州カップウイナーズ・カップに出場。決勝のシュトゥットガルト戦でゾラは途中出場、ピッチに現れた僅か2分後に鮮やかなゴールを決め1-0とし、優勝の立役者となった。

レジェンドの帰還

代表ではユーロ96の予選でハットトリックを記録するなど、中心選手として活躍するが、本大会のドイツ戦では大事なPKを外してイタリアはG/L敗退となってしまった。翌97年10月のWカップ欧州予選イングランド戦が代表最後の試合となり、ついにアズーリでは輝く事が出来なかった。

00年、チェルシーは再びFAカップを制覇する。準決勝のノーリッジ戦で、ゾラはヒールタッチからの反転シュートでゴールを記録。当時の指揮官ラニエリに、「魔法使い」と言わせしめたのはこの時である。

03年、36歳となったゾラは惜しまれながらチェルシーを退団する。在籍した7シーズンで80ゴールを記録、そのうち14本はFKによるものだった。故郷のサルディーニャ島に戻ったゾラはセリエBのカリエリと契約、03-04シーズンは21試合で13ゴールを挙げてセリエA昇格に貢献する。そして翌04-05シーズンのプレーを限りに、38歳で現役を引退した。

引退後は指導者に転身。イタリアU-21代表のコーチや、ウェストハム監督などを歴任する。18年にはアシスタントコーチとしてチェルシーに復帰、レジェンドの帰還にサポーターからは大きな歓迎を受けた。

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