《 サッカー人物伝 》 デットマール・クラマー

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「世界を巡るサッカー伝道師」 デットマール・クラマー ( ドイツ )

64年の東京オリンピックを控えながら、戦争によるブランクや古い慣習、財政難などで日本代表は低迷。そこで強化を図った日本蹴球協会(現、日本サッカー協会)からの招聘を受け来日、遅れていた日本サッカーの土台づくりと、のちの発展に大きな足跡を残したドイツの名指導者が、デットマール・クラマー( Dettmar Cramer )である。

クラマーは合理的な指導と自ら範を示す姿勢で選手を引っ張り、「ベルリンの奇跡」以来古い体質のままだった日本サッカーに改革をもたらして、メキシコ五輪銅メダルの礎を築く。またその活動は代表に留まらず、指導者育成の提言や日本サッカーリーグ創設にも尽力し、「日本サッカーの父」と呼ばれた。

またバイエルン・ミュンヘンを指揮してUEFAチャンピオンズ・カップを連覇、監督としての手腕も見せている。その後も代表チームやクラブチームを様々な立場で指導、世界を巡るサッカー伝道師として活躍した。

死地からの生還

クラマーは1925年4月4日、ワイマール共和国時代のドイツ・ドルトムントに生まれた。若い頃造園の仕事をしていた父親は日本庭園に造詣が深く、その話を聞かされていた少年クラマーは極東の国に興味を抱くようになった。

地元クラブでプレーを始め、16歳のとき地区のユース代表に選ばれる。その時出会ったドイツ代表監督が、終生の師となるゼップ・ヘルベルガーである。しかし戦争が激しくなると17歳で兵役に就き、落下傘部隊に配属。その後はフランス、ロシア、イタリア、アフリカと各地を転戦する。

当初1万人で編成されていた部隊は、終戦時には500人。転戦の最中に搭乗している飛行機が撃ち落とされ、地中海に6時間漂いながら一命を取り留めるという壮絶な出来事にも遭う。それでもクラマーは強い意志で、死と隣り合わせの戦場から生還する。

1年の捕虜生活を経て20歳で帰国。仕事を探していたクラマーは新聞広告にあった「サッカーコーチ求む」の記事を見つけ、クラブのある町へ向かう。試験内容は実戦を観察してのレポート提出。記憶力と分析力に優れたクラマーが、30人の応募者の中から合格者に選ばれた。

その後バーダーボルンへ移住し、選手兼コーチを務めながら小学校で教えたり、村のチームでトレーニングを指導したりの生活を送る。49年、恩師のヘルベルガーが、スポルト・シューレ(スポーツ大学)指導者養成課程の責任者に就任。クラマーはヘルベルガーに抜擢され、24歳の若さでスポルト・シューレの主任コーチに任命される。

50年、ヘルベルガーは国際舞台へ戻った西ドイツの代表監督に復帰。54年のWカップ・スイス大会では主将フリッツ・バルターを中心としたチームを率い、初優勝を成し遂げた。西ドイツサッカー界の権威となったヘルベルガーのもとで、クラマーはコーチとしての実績を積んでいく。

日本サッカーの改革

そんなクラマーが日本へ派遣されることになったのは、60年の3月だった。4年後に開催される東京五輪を控え、代表強化を進めていた日本蹴球協会だが、ローマ五輪予選で韓国に敗れて出場権を逃すなどチームは停滞していた。

その状況に強い危機感を覚えた野津 謙会長が、慣例を破って外国人コーチの導入を決断。デュイスブルグのスポルト・シューレに留学した成田十次郎を通して、ドイツサッカー協会(DFB)に優秀なコーチの派遣を要請してきたのだ。

日本に好意を抱いていたヘルベルガーは、野津会長からの要請を快諾。クラマーを最適任者と考え、派遣コーチに推薦する。西ドイツを訪れた野津会長はクラマーと対面、その人柄に信頼を寄せる。以前から日本に興味を持っていたクラマーもその申し入れを承諾し、コーチとして日本代表を指導することが決まった。

そしてクラマーは10月に来日、代表の合宿では自分に用意されたホテルを引き払い、選手やコーチたちの宿泊する旅館で寝食をともにする。まず彼が指導したのは初歩的なインサイドキックやトラップの反復練習、そしてベンデル(天井からボールを吊り下げたもの)を使ったヘディングの訓練だった。

クラマーは選手が基礎を身につけるまで単純な練習を繰り返しさせるが、最新戦術の享受を期待していた関係者からは戸惑いの声が上がる。しかしクラマーが模範で見せる正確な技術と、拙い選手との歴然たる違いを目のあたりにし、文句を言う者はいなくなった。やがてクラマーの姿勢は、選手達の心も惹きつけていく。

そのあとクラマーは、色々な問題を抱える日本サッカー界の意識改革と、遅れている環境やシステムの改善に取り組む。代表選手の練習・生活環境の整備、そしてコーチングシステムの導入や代表選手選考方法の見直しなどである。当時は選手が30歳を過ぎたら代表を退くという慣習があり、技術の伝承がなされてなかったのだ。

新世代の育成

クラマーは日本全国を汽車で巡り、中学生、高校生、実業団などあらゆるカテゴリーの選手を見て回りながら指導者講習も実施した。この時初めて、まだ京都山城高校の1年生だった釜本邦茂をコーチする。ほかにも杉山隆一、宮本輝紀、小城得達、森孝慈、横山謙三といった若手を鍛え上げ、代表の主力に育てていった。

さらには東京オリンピックに向け、新しい指導体制の確立にも着手する。クラマーが目をつけたのが、古河電工のプレーイング・マネージャーだった長沼建と、通訳兼アシスタントを務めていた岡野俊一郎である。クラマーは人望が厚い32歳の長沼と、実務能力に長けた31歳の岡野を将来を託せる指導者として評価、スポルト・シューレに派遣してコーチングを学ばせた。

62年の12月に長沼監督ー岡野コーチの新体制が発足、クラマーは断続的に来日し、東京オリンピックまでに計20ヶ月に渡って日本代表をコーチする。そして政府からの強化費を得た日本代表は、海外遠征を重ねて力をつけていった。

新生日本代表は、64年の東京オリンピックで強豪アルゼンチンに3-2と逆転勝利、開催国チームとして大会を盛り上げた。クラマーもアドバイザーとして日本に協力、適切な助言で歴史的勝利に貢献した。そして翌65年には、クラマーの提言した「日本サッカーリーグ」が発足する。

ベッケンバウアー育ての親

64年、西ドイツ代表コーチ兼ユース代表監督に就任。この時「凄い若手選手がいる」と噂されていたのが、フランツ・ベッケンバウアーだった。しかし当時まだ未成年だったベッケンバウアー、結婚もしてない女性に子供を産ませたことが問題となり、彼が代表選手にふさわしいどうか協会上層部で激論が交された。

ヘルベルガーとクラマーは、「彼は過ちを犯したが、未来がある」と擁護。クラマーが教育係になるということで、ベッケンバウアーのユース代表入りが認められた。クラマーはベッケンバウアーに戦術や代表選手としての心構えを叩き込み、のちに「皇帝」と呼ばれる大選手に育て上げていく。

66年、アシスタントコーチとしてWカップ・イングランド大会の代表チームに参加。クラマーは当時20歳だったベッケンバウアーの先発出場をあと押し、このニュースターの活躍で、西ドイツは準優勝を果たした。ベッケンバウアーはのちに「もしクラマーさんの助けがなかったら、違うキャリアを歩んでいただろう」と述懐している。

メキシコ五輪 日本の快挙

67年、スタンリー・ラウスFIFA会長から直々の要請を受け、FIFAのコーチとなる。ラウス会長の「アジア・アフリカの指導者を育て、正しいサッカーを普及させよう」という構想に、実績のあるクラマーの力が必要とされたのだ。こうしてFIFAコーチとなったクラマーは世界70ヶ国(生涯では90ヶ国)を巡り、地球を行脚する伝導活動が始まった。

68年、メキシコ・オリンピックが開幕、クラマーは技術レポート提出のため大会に派遣されていた。本来中立の立場であるはずの彼だが、何食わぬ顔で日本ベンチ上のスタンドに陣取り、メモを渡すなどアドバイスを送る。日本はクラマーが鍛えた杉山ー釜本のホットラインが機能、守備陣も健闘し快進撃を続けた。

しかし日本は準決勝で0-5と惨敗。クラマーは落ち込む選手たちを「金メダルもいいが、銅メダルもいいぞ」と励まし、気持ちを奮い立たせた。こうして日本は3位決定戦で地元メキシコを2-0と破り、銅メダル獲得の快挙を達成する。

それからの活動

それからも、コーチングスクールを開くなど精力的な活動を行っていたクラマーだが、ベッケンバウアーの熱心な説得を受け、75年の後期シーズンからバイエルン・ミュンヘンの監督に就任する。

この時クラブでも代表でもすべての栄冠を手に入れていた中心選手たちは、燃え尽き症候群となっていた。そのためバイエルンは前期シーズンで不振に陥り、クラマーに立て直しが任されたのだ。

クラマーは一時降格圏まで落ちていたチーム状況を挽回、リーグ10位まで持ち直した。チャンピオンズ・カップでは決勝へ進出、リーズ・ユナイテッドを2-0と破り、前年に続く大会2連覇を達成する。翌75-76シーズンはリーグ3位、チャンピオンズ・カップでは決勝でサンティティエンヌを1-0と下し、3大会連続の王者に輝いた。

しかし翌76-77シーズンから再び成績は低迷、ベッケンバウアーも北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスへ移籍する。さすがのクラマーもチーム士気の低下を抑えきれず監督を辞任するが、カール= ハインツ・ルンメニゲなどの若手を育て、80年代の栄光へ繋げていった。

その後国内外のクラブ監督を務めたあと、マレーシア代表、韓国U-23代表、タイ代表などを指揮・指導する。クラマーはその間もたびたび来日し、メキシコ五輪以来「冬の時代」の低迷期にあった日本サッカー界を応援し続けた。そして日本サッカーにようやく光明が見えはじめるのは、協会で長沼ー岡野ラインが動き出してからである。

そして97年には中国に招かれ、選手育成の仕事で国内全土を巡るなど、77歳まで指導者の活動を行う。その大きな功績から05年には「日本サッカー殿堂」の受賞者第一号となり、晩年まで日本との交流を続けた。15年9月17日、ドイツ南部にある自宅で死去。享年90歳だった。

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