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《 サッカー人物伝 》 朴 智星

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「レッドデビルズのダイナモ」朴智星(韓国)

「オキシジェン・ポンプ(酸素ポンプ)」と形容される無尽蔵のスタミナで90分間を走り続け、“レッドデビルズ” の呼び名を持つ韓国代表やマンチェスター・ユナイテッドのダイナモとして活躍した選手が、朴智星( パク・チソン / Park Ji Sung )だ。

攻撃に守備にとマルチな才能を発揮、パワー・エンジンと呼ばれる活発な運動量でチームを支え、監督からは「彼は得点もアシストも出来るばかりか、複数のポジションが可能。絶対不可欠な選手だ」と全幅の信頼を寄せられた。また大舞台での勝負強さを発揮、貴重なゴールで強い印象を残した。

02年のWカップ・日韓大会では、右ウィングからの突破でベスト4入りした韓国の攻撃陣を牽引し、ブレイクを果たす。そして初のアジア選手としてマンチェスター・ユナイテッドでプレー、献身的な働きで縁の下の力持ちとなり、08年の欧州チャンピオンズリーグ優勝に貢献した。

異例の五輪代表候補

朴智星は韓国南西部・全羅南道の高興郡出身。戸籍上の誕生日は1981年2月25日となっているが、実際に生まれたのは3月31日だった。当時の韓国は西暦と旧暦が混在しており、父親の教育方針によって1学年上となる生年月日が選ばれたのである。

小学校4年でサッカーを始め、地元の名門・天明高校を目指したが、父親の勧めもあり新興の水原工業高校へ進学。3年生となった88年には主力として初の全国大会優勝に貢献した。韓国のサッカーは限られた精鋭による学校エリート主義、この優勝は大学からプロへ進むための重要な実績となるはずだった。

しかし憧れていた名門の高麗大学をはじめ、彼に関心を寄せる大学サッカー部はなかった。淡い期待をかけてKリーグ水原三星の入団テストも受けるが不合格、スピード、パワー、フィジカルを重要視する韓国サッカーでは、技術があっても身体の細い智星への評価は低かった。

それでも水原工業コーチの仲介でテストを受け、ようやく中堅チーム明知大学への入学が決まった。智星の実戦を見た金ヒテ監督が彼の判断能力の高さを気に入り、空いていたテニス部の推薦枠をぶんどってまで採用してくれたのだ。

大学入学前から金監督に徹底的なフィジカルトレーニングを課せられ、智星は黙々とそれをこなす毎日を送る。そして5ヶ月に及ぶトレーニングでかなりの筋力をつけた99年の2月、入学前ではあったが大学メンバーの一員として五輪代表と練習試合を行った。

智星はハーフライン手前で相手をかわし、中に切れ込んだあとはスピードに乗って60mを独走、ペナルティーエリアに侵入するとそのままの勢いでゴールを決めた。この圧巻のプレーが認められ、五輪代表へ練習生として参加することになる。保守的な韓国サッカー界では、ユース代表歴のまったくない選手が五輪代表候補になるなど異例のケースだった。

シドニー五輪アジア予選ではレギュラーとして出場権獲得に貢献するが、大会直前の日本五輪代表との親善試合で負傷してしまい、オリンピック出場は叶わなかった。そのあとも04年のアテネ五輪や08年の北京五輪でも出場を打診されるが、所属クラブの同意が得られず断念することになる。

Jリーガー朴智星

大学2年となった2000年6月、日本のJリーグ・クラブが彼に関心を寄せてきた。智星は「日本では実力があれば学歴も身体の大きさも問われない。僕はJリーグでプロになりたい」と日本行きを決意。金監督も「智星の良さを伸ばすなら、韓国よりも日本だ」と賛成し、いくつかのオファーから京都パープルサンガへの入団が決まった。

サンガでの1年目は言葉の壁や文化・習慣の違いに苦労し、J2降格の悔しい思いも味わった。だがJ2での2年目はレギュラーに成長、ボランチとして38試合に出場してJ1返り咲きに貢献した。1年目は無口だった智星も、空き時間を費やして独学で日本語を習得。チームメイト達とも馴染んでいった。

J1に昇格した02年には松井大輔、黒部光昭と3トップを組んで攻撃陣を牽引、サンガはリーグ年間総合順位5位へと躍進した。そして03年1月1日の天皇杯決勝では、智星が1ゴール1アシストの大活躍、強豪鹿島アントラーズを2-1と下し、サンガ初優勝の立役者となった。

ワールドカップのヒーロー

2000年に初めてA代表に選ばれ、4月5日のラオス戦で初キャップを刻む。01年1月にはフース・ヒディンクが代表監督に就任。ヒディンク監督は年長者が優遇されがちな韓国チームで若手を積極的に起用、チームのあり方を変えていった。朴智星もヒディンク監督によって守備的なポジションから右ウィングにコンバート、攻撃の潜在能力を引き出される。

02年、Wカップ・日韓大会が開幕。韓国はG/L初戦でポルトガルを2-0と破ってWカップ初勝利を挙げ、第2戦ではアメリカと1-1で引き分ける。そして最終節の試合では、ポルトガル選手二人が退場し0-0で迎えた70分、智星が左サイドからのクロスを胸トラップ、右足の浮かしたボールでDFをかわすと、左足で鮮やかな決勝ゴールを決めた。

また攻撃だけではなく、積極的な選手投入に応じてFWからトップ下、ボランチと柔軟にポジションを移し、智星のユーティリティー性はヒディンク監督の大胆な采配を支えた。まさに彼は、大会ベスト4入りを果たした韓国の核となった。

欧州への挑戦

大会終了後、ヒディンクは古巣PSVアイントフォーフェンの監督に就任。そのヒディンクの誘いを受け智星もPSVに移籍、念願だったヨーロッパ挑戦の夢を叶えた。しかしこの移籍はPSVのファンから色眼鏡で見られることになり、智星自身も慣れない環境で絶不調に陥る。

そのため移籍1年目はホームのサポーターからもブーイングを受け続ける始末で、智星はJリーグに戻りたいと悩むほどになってしまう。03年にはWカップで痛めた右膝を悪化させ、手術とリハビリで長期離脱を余儀なくされてしまう。

しかし04年に長いスランプから抜け出し右ウィングで活躍、主力として04-05シーズンのリーグ優勝に貢献する。こうしてようやく智星はファンから認められ、PSVサポーターから応援チャントを送られる選手となった

チャンピオンズリーグでPSVは準決勝に進出、ACミランと対戦した。アウェーでの第1レグは劣勢の中、智星のDFを切り裂くプレーは賞賛され、ホームでの第2レグは先制ゴールを記録。決勝には進めなかったが智星の活躍は注目を浴びることになる。

ユナイテッドの「ビッグゲーム・プレイヤー」

チャンピオンズリーグでの活躍がファーガソン監督の目に止まり、05-06シーズンにイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドへ移籍。韓国では一度失格者の烙印を押されかけた智星が、ついにヨーロッパのビッグクラブへとたどり着いたのである。

最初の頃こそ「アジアでユニフォームを売るために来た」と懐疑的な目を向けられ智星だが、開幕戦から先発を続け30試合を戦って負けなし。その献身的な働きで「彼は決して我々に敗北をもたらさない」とファーガソン監督に賞賛された。

しかし07年に右膝の故障を再発、二度の手術を受ける。マンUのチームドクターからは全治に1年を要すると告げられるが、智星は寝る時間以外を全てリハビリに費やし懸命のトレーニング。9ヶ月後のサンダーランド戦で復帰を果たし、マンUの医療班を驚かせた。

復活した智星は、07-08シーズンのチャンピオンズリーグに出場する。準々決勝のローマ戦、準決勝のバルセロナ戦と4試合でフル出場を果たし、マンU9年ぶりの決勝進出に大きく貢献した。しかし決勝のチェルシー戦ではファーガソン監督からベンチ外を告げられてしまう。結局智星は延長に及んだマンUの優勝をスタンドから観戦、彼のプライドは傷つけられた。

その雪辱の機会は翌年訪れた。智星は08-09シーズンを怪我なく過ごし、公式戦40試合に出場して4ゴールの記録を残す。チャンピオンズリーグの準決勝、アーセナル戦の第2レグでは決勝点を決めて2年連続の決勝進出に貢献した。バルセロナに敗れて優勝は逃してしまったが、智星はアジア人として初めてチャンピオンズリーグ決勝の舞台に立った。

智星はこのあとも、チャンピオンズリーグやリーグ戦の大一番で活躍。重要な場面でゴールを決めるなど、「ビッグゲーム・プレイヤー」と呼ばれるようになる。

第二の人生へ

代表では06年のドイツ10年の南アフリカと、3大会連続でWカップに出場する。智星はドイツ大会のフランス戦、キャプテンとして臨んだ南アフリカ大会のギリシャ戦でゴールを記録するが、G/L突破は果たせなかった。

マンチェスター・ユナイテッドには7シーズン在籍、公式戦205試合に出場し27ゴールの記録を残した。その後クイーンズ・パーク・レンジャーズを経て、13年にPSVへ復帰。シーズンが終わった翌14年5月、膝の怪我を理由に33歳で現役引退を発表した。

引退後に韓国の女性アナウンサーと結婚、二人の子供をもうけ現在はロンドンに居を構えている。そのあとマンUの公式アンバサダーを務めるかたわら、17年にはFIFAマスター(スポーツ大学院)を履修、サッカーマネジメントへの道を進むとの報道がなされた。

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