24年間にわたりプレミアの名門、マンチェスター・ユナイテッド一筋でプレー。クラブの黄金期を支えた「ファージーズ・フレジリングス(ファーガソンの雛たち)」の代表格として多くのタイトルをチームにもたらした名手が、ライアン・ギグス( Ryan Jhosep Giggs )である。
圧倒的なスピードと切れ味抜群のドリブルで左サイドを切り裂くプレーは「ジャック・ナイフ」と恐れられ、イングランドのみならず世界中のファンを魅了した。後年はパスを主体としたプレーメイカーに転身、正確な技術と状況判断で多くのチャンスを創出した。
クラブユースには同世代のベッカム、スコールズと才能ある選手が揃う中、いち早く17歳と3ヶ月でトップチームデビュー、元祖 “ワンダーボーイ” と騒がれた。ウェールズ代表という力の劣るナショナルチームでWカップやユーロへの出場は叶わなかったが、キャリアの晩年にロンドン五輪への出場を果たしている。
ライアン・ウィルソン(ギグス)は1973年11月29日、英国ウェールズの中心都市カーディフに生まれた。父親のダニー・ウィルソンは西アフリカ・シエラレオネ系のラグビー選手、息子が6歳のときに新しいチームと契約を結び、家族はマンチェスターに引っ越すことになった。
サッカーに熱中したライアン少年は、マンチェスター・シティーのアカデミーに学びながら地元のクラブでプレー。その活躍がマンチェスター・ユナイテッドのスカウトの目に止まった。スカウトの報告を聞いたアレックス・ファーガソン監督は自ら視察を行い、その才能に驚いて、14歳になった誕生日に彼の自宅を訪れて直々のオファーをする。
この頃父親ダニーは家族を残して失踪、両親が離婚したため、ライアン少年は16歳のときに母親の姓である「ギグス」を名乗るようになった。
90年12月、ライアン・ギグスは17歳でユナイテッドとプロ契約を結ぶ。3ヶ月後の91年3月2日、オールド・トラッフォードでのエバートン戦でトップチームデビュー。翌シーズンの91年5月のマンチェスター・シティー戦で初の先発出場を果たし、プロ初ゴールも記録した。
同年10月には史上最年少でウェールズ代表にも選出、ドイツ戦でデビューを飾った。マンUの生え抜きであることと、ドリブルを得意とするプレースタイルと溢れる才能、そしてアイドル的人気から「ジョージ・ベストの再来」とマスコミの注目を浴びる。
トップチームでプレーしながら、ギグスは同時にマンUユースのキャプテンも務める。その頃のユースチームは、デヴィッド・ベッカム、ポール・スコールズ、ニッキー・バット、ガリーとフィリップのネビル兄弟など「ファギー・ベイブス」と呼ばれた若い才能の宝庫だった。マンUユースは92年のFAユースカップで優勝、ギグスは年間最優秀若手選手賞を受賞した。
92-93シーズンには、左ウィングのレギュラーポジションを獲得。プレミアリーグ創設のファーストシーズンで41試合出場9ゴールと活躍し、マンU26年ぶりのトップリーグ優勝に貢献、2年連続の年間最優秀若手選手賞に選ばれる。
翌93-94シーズンは攻撃の中心選手に成長、まだ20歳になったばかりのギグスが、マンUの強力なFW陣をリードする。スピードに乗ったドリブルからのスルーパスとクロスで、エリック・カントナやマーク・ヒューズへチャンスを提供し、キャリアハイとなる13得点を記録、リーグ戦連覇とFAカップ優勝の2冠達成に大きく寄与した。
94-95シーズンは怪我で29試合1ゴールに留まり、それに比例するようにチームもメジャータイトル無冠に終わった。しかし95-96シーズンは33試合11ゴールと怪我から回復、チームも再びリーグ優勝とFAカップ優勝の2冠に輝く。
この頃ベッカムやスコールズが主力に成長。ギグスの左サイドからの切れ込みと、ベッカムの右サイドからの正確なロングパス、中央スコールズの万能オフェンスはユナイテッドの強力な武器となった。96-97シーズンはプレミアリーグ2連覇、しかし97-98シーズンはギグスが怪我で戦線を離脱、その影響でリーグ戦・カップ戦のタイトルを逃してしまう。
翌98-99シーズンも怪我に苦しむが、リーグ戦の終盤に復調、マンUは2シーズンぶりにリーグを制覇した。そして4月に行われたアーセナルとのFAカップ準決勝の再試合で、ギグスは生涯最高のパフォーマンスを披露する。
マンUは開始17分にベッカムのゴールで先制、しかし後半に入った69分にベルカンプの同点ゴールを許してしまう。74分にはロイ・キーンが2枚目の警告で退場となると、後半アディショナルタイムにフィル・ジョーンズがファールを犯してPKを献上、マンUの命運は尽きたかに思えた。しかしベルカンプが蹴ったシュートをピーター・シュマイケルが好セーブ、試合は延長に突入した。
その109分、ギグスはハーフライン近くでヴィエラのパスをかっさらうと、猛然とドリブルを開始。ペナルティー・エリア手前でDF3人をするりとかわし、左足一閃の強烈なゴールを決めた。およそ60mを独走しての決勝ゴールは、脱いだユニフォームを振り回して喜ぶ姿とともに話題となった。
5月の決勝ではニューカッスルを2-0と下し3年ぶりの優勝、さらにチャンピオンズリーグでもユナイテッドは31年ぶりに決勝へ進出した。5月26日、カンプノウ・スタジアムで行われた決勝の相手は、ブンデスリーガの覇者バイエルン・ミュンヘン。ユナイテッドは中盤の要であるキーンとスコールズを出場停止で欠くという、不利な状況に置かれていた。
ユナイテッドは右サイドのベッカムを中盤の底に置き、左のギグスが右サイドに廻るという苦肉の策。開始からバイエルンに押され、早くも6分には先制点を許してしまう。後半に入ってもバイエルが優勢、ユナイテッドは相手の堅い守備に攻め手を失っていく。
ファーガソン監督は流れを変えるべく67分にシュリンガム、81分にスールシャールを投入、ベッカムとギグスを本来のポジションに戻した。しかし劣勢を挽回できないまま終了時間が近づき、バイエルンはキャプテンのローター・マテウスを交代させるという余裕を見せてきた。
試合はアディショナルタイムに突入、その1分にベッカムがドリブルで仕掛け、ギグスのクロスからCKのチャンス。ベッカムの放ったボールは一旦クリアされるが、落下地点にいたギグスが右足シュート。GKオリバー・カーンの反応できないコースにシュリンガムがボールを押し込み、土壇場で同点とした。
さらにその2分後、スールシャールがCKをゲット。再びベッカムがクロスを送るとシェリンガムが頭で叩き、それをスールシャールが右足で合わせて奇跡の逆転ゴールを決める。その瞬間、ゴールを破られたカーンやベンチに下がったマテウスをはじめ、バイエルンの面々は茫然自失、「カンプノウの奇跡」と呼ばれる大逆転劇だった。
こうして2-1と勝利したマンチェスター・ユナイテッドは、ボビー・チャールトンやジョージ・ベストが活躍した68年(当時はチャンピオンズ・カップ)以来の欧州制覇を成し遂げ、シーズン3冠を達成する。
さらにこの年の11月には、トヨタカップ(インターコンチネンタルカップ)で南米王者のパルメイラスと対戦する。ギグスは高速ドリブルからのクロスでキーンの決勝ゴールをアシスト、1-0と勝利して世界一クラブにも輝いた。日本での注目度こそベッカムに譲ったが、この試合でマン・オブ・ザ・マッチ(MVP)に選ばれたのはギグスだった。
まさにこの時期のギグスは最強。高速ドリブルでもボディバランスを崩さず、ボールを完璧にコントロールした。さらに頭脳明晰でプレーに無駄がなく、最高級の左足でゴールを陥れた。あのジダンをして「もし彼がフランス人だったら、僕はベンチに座らなければならなかっただろう」と唸らせたほどである。
30を過ぎて中盤へコンバートされるが見事に対応、ユナイテッドの戦術的・精神的支柱として2000年代も活躍した。そして8度のリーグ優勝(計13回)と、03-04シーズンのFAカップ優勝、08年のチャンピオンリーグとクラブワールドカップ制覇に貢献。05年にはイングランドのサッカー殿堂入りを果たしたほか、数多くの個人タイトルにも輝いている。
だがその一方、ウェールズ代表での目立った実績は無く、怪我を理由に親善試合を辞退し続けたため代表軽視の批判を受けた。しかしそれはファーガソン監督の方針に従ったためと言われている。
それでも07年に代表を引退したあと、12年のロンドン五輪で統一英国チームのオーバーエイジ枠(38歳)で選出され、キャプテンを務めた。決勝Tの1回戦で韓国にPK戦で敗れメダル獲得はならなかったが、G/LのUAE戦では先制ゴールを記録している。
13年、栄光のユナイテッドを27年間指揮したファーガソン監督が引退。ギグスは後任となったデヴィッド・モイーズ監督の要請で、選手兼コーチを引き受ける。しかし13-14シーズンのチーム成績は低迷、シーズン終了直前に解任されたモイーズ監督のあとを受け、ギグスは暫定監督を務めた。
シーズン終了後の14年5月19日、40歳での現役引退を発表。ギグスはマンチェスター・ユナイテッド在籍24年で、公式戦出場963試合(歴代1位)168得点、トップリーグでの23年連続ゴール記録を残した。引退後はマンUのアシスタントコーチを務めたあと、18年にはウェールズ代表に就任している。