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《 サッカー人物伝 》 ペ レ

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「 神のゴール 」 ペ レ ( ブラジル )

4大会出場したWカップではブラジルのエースとして3度の優勝を果たし、サントスFCでは2回のクラブ世界制覇を達成。 22年間の現役生活で1363試合に出場し、通算1281ゴールを挙げる偉業を成し遂げた「サッカー界の王様」が、ペレ( Pelé / Edson Arantes Do Nasciment )だ。

魔法のようなボールテクニックとプレーのひらめきを持ち、ドリブル、パス、シュート、小柄ながらヘディングにも強く、あらゆる技術を高レベルで駆使した。 16歳でブラジル代表に選ばれ、58年のWカップでは当時最年少の17歳で鮮烈デビュー、華麗なプレーでブラジル初優勝の立役者となり、その名を世界に轟かせる。

長年プレーしたサントスFCでもサンパウロ州選手権9回の優勝に貢献し、自身も11度の得点王。 その他、リベルタドーレス杯優勝、インターコンチネンタルカップ優勝と、選手としておよそ成しうるすべての成功を収め、「20世紀最高のフットボーラー」と讃えられた。

天才少年現る

ペレは1940年10月23日、ブラジル南東部ミナス・ジェイラス州の山あいの町、トレス・コラソンエスで生まれた。 本名はエドソン・アランチス・ド・ナシメント。 誕生と同時に町に電気が敷設されたことから、発明王エジソンにちなんで名付けられた。

父親のドンジーニョはヘディングが得意なサッカー選手。 膝の故障で大成はしなかったが、エドソン少年は父親から多くの技を学ぶ。 ちなみに “ペレ( Pele )” の愛称は、エドソン少年が父親の所属していたサッカークラブのGK「ビレ( Bile )」のファンだったことに由来している。 最初少年は “ペレ” と呼ばれるのを嫌がったが、やがて通称として定着していった。

50年にブラジルでWカップが開催される。 一家は母国の優勝が懸かったウルグアイとの一戦をラジオを聞きながら応援していたが、ブラジルが思わぬ敗北を喫する(マラカナンの悲劇)と、ドンジーニョは息子の見ている前で泣き出した。 すると当時9歳だったペレ少年が「悲しまないで。僕がいつか勝ってみせるから」と父親を励ましたエピソードは有名である。

当時のペレは同世代の少年たちより華奢な身体をしていたが、素晴らしいボールコントロールとイマジネーションの豊かさは突出していた。 ある試合では1人で7ゴールを挙げる活躍を見せ、サンパウロのマスコミに「天才少年現る」と騒がれるまでになっていた。

靴工場で働いていた16歳の時、ジュニア時代のコーチに誘われサントスFCと契約、だが身体が小さかったため見習いの扱いだった。 それでもブラジルの建国記念日である56年9月7日のフレンドリーマッチで途中出場し、デビュー戦でさっそく初ゴールを記録する。

翌57年、エースFWが負傷したことでペレは出場機会を増やし、11試合で17ゴールを挙げてリオ州選手権の得点王を獲得。 ようやくチームと正式契約を交すことになった。 58年には不動のレギュラーとなり32ゴールを記録、リオ州選手権優勝に貢献した。

衝撃の世界デビュー

ペレの活躍はブラジル代表監督ビセンテ・フェオラの耳にも届き、57年7月に16歳でセレソンへ初招集される。7日にマラカナン・スタジアムで行われたロカ・カップのアルゼンチン戦でデビューを果たし、試合は2-1で敗れたがペレは代表初得点を挙げた。

58年、Wカップ・スウェーデン大会の代表メンバーに17歳の史上最年少で選出。しかし直前の強化試合で膝を痛めたこともあり、最初の2試合でペレの出番はなかった。1次リーグの最終節は名手レフ・ヤシンを擁するソ連と対戦。Wカップ初出場を果たしたペレは同じく初出場のガリンシャとともに攻撃陣を活性化、2-0の勝利に貢献した。

準々決勝ではウェールズと対戦。0-0で迎えた残り17分、ペレはペナルティーエリアで胸トラップから浮き球でディフェンダーをかわし、Wカップ初ゴールとなる貴重な決勝点を挙げる。このプレーからペレはスターダムへとのし上がっていく。

準決勝は、司令塔レイモン・コパとFWジュスト・フォンティーヌのホットラインで得点を量産するフランスと対戦。ペレは後半の僅か23分間でハットトリックを記録、強敵フランスを5-2と下した。17歳でのハットトリックは、今も破られていないWカップ最年少記録である。

決勝は地元スウェーデンとの優勝争い。リードホルムの先制点を許したブラジルだが、ババの連続ゴールで逆転。後半の55分にはペレが連続の浮き球でDF2人を抜いてシュート、伝説となったゴールを決めた。さらに4-2とリードした90分、ペレはヘディングでループシュート、ダメ押し点で決勝のフィナーレを飾る。

大会6得点を挙げブラジル初優勝の立役者となった若きヒーローは、「神様」「新たなキングの誕生」と称され、一躍世界から注目されるスターとなった。

マラカナンの美しきゴール

Wカップ優勝を果たしたブラジルメンバーには欧州のビッグクラブからオファーが届くようになり、司令塔のジジはレアル・マドリードへ、19歳のFWアルタフィーニはACミランへと旅立っていった。当然ペレにも大きな関心が寄せられたが、サントスは高額の年俸を約束、若きスターの欧州移籍を引き留めた。

サントスはその資金を確保するため、アジアや欧州でエキシビションマッチを催行、結果的にペレは年間100試合以上をこなすことになる。そして59年春にヨーロッパツアーを行い、44日間で7ヶ国を巡り22試合を戦うという強行日程でペレはその全てに出場。中1日で行われたミラン戦とバルセロナ戦では、合計6ゴールを決めるという離れ業を演じた。

11月には同じサンパウロ州のジュベントスと対戦。ペレは相手の厳しいマークに遭うが、“シャペウ” と呼ばれる浮き球でDFとGKの頭上を連続で抜き去り、 頭で無人のゴールへボールを流し込む。このスーパーゴールには味方だけでなく相手サポータからも感嘆の拍手が送られ、芸術的ゴールとさえ言われた。

61年3月5日、マラカナン・スタジアムで行われたサンパウロ州選手権でフルミネンセと対戦。サントスが2-1とリードしたあと、ペレはハーフウェーラインあたりからド.リブルでフルミネンセ5人の選手を一気に抜き、軽いタッチでGKもかわしてゴールを決める。このプレーは「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され、スタジアムには記念のプレートが設けられた。

こうしたペレの活躍でサントスは州選手権3連覇を達成、自身も連続得点王の記録を伸ばし、着実に名声を積み重ねていった。

ブラジルの国宝

62年、Wカップ・チリ大会に出場。初戦のメキシコ戦でペレはゴールを決めるが、大会前に痛めた腿のつけ根は悪化しはじめていた。それでも故障を隠し、2戦目のチェコスロバキア戦にも出場。だが前半25分に思いきりシュートを打った際に大腿四頭筋を断裂、グラウンドに倒れこんだ。

当時は途中交代が許されていなかったため、ハーフタイムに応急処置を受け、後半は足を引きずりながらピッチに立った。マソプストをはじめチェコの選手はペレへのタックルを自重、試合はスコアレスドローに終わる。

暴力的なプレーが横行していた時代のスポーツマンシップに感激したペレは「私のキャリアの中で最も美しい出来事」とチェコに賛辞を送った。この試合以降ペレは欠場を余儀なくされるが、ガリンシャらの活躍でブラジルは2連覇を達成する。

62年、サントスはリベルタドーレス杯の決勝へ進出、復調したペレの2得点などでウルグアイの名門ペニャロールを下し、初の南米クラブ王者に輝いた。そしてこの勝利でインターコンチネンタルカップの出場権を獲得、エウゼビオ擁するベンフィカとクラブ世界1を争う。

ホームでの第1戦は、ペレが2得点を挙げ3-2の勝利。敵地リスボンでの第2戦も3得点1アシストの活躍。「キャリア最高」と自賛する内容で5-2とベンフィカを撃破し、世界1クラブの栄誉を勝ち取った。ペレの素晴らしいゴールを目の当たりにしたフランス人主審は、感激のあまり彼に抱きついたと言われている。

翌63年のリベルタドーレス杯も、アルゼンチンのボカ・ジュニアーズを倒しサントスは大会2連覇。インターコンチネンタルカップでもジャンニ・リベラアルタフィーニを擁するACミランを倒し、2年連続で世界1クラブに輝く。64年には1試合8ゴールという記録も樹立、もはや押しも押されもせぬ世界No,1プレイヤーとなった。

そんなペレには、レアル・マドリード、インテル・ミラノ、ユベントスなど欧州の名門クラブからオファーが舞い込むが、チーム愛に彼の気持ちが動くことはなかった。ブラジル政府も「ペレは輸出対象外の国宝」と宣言、大スターの国外流出を阻んだ。

王の帰還

66年、Wカップ・イングランド大会に出場。25歳の全盛期を迎えたペレを擁するブラジルは、大会3連覇は間違いないと国民からの期待は大きかった。初戦のブルガリア戦では開始14分にペレのFKで先制、後半にもガリンシャのFKが決まりブラジルは2-0の勝利を収める。

だがこの試合、脚を狙われ続けたペレは深刻なダメージを受けてしまう。続くハンガリー戦は欠場を余儀なくされ1-3の敗北、1次リーグ突破を懸けて、最終節でポルトガルと戦うことになった。この危機にペレは痛みを押して出場、だがDFモライスによる反則まがいのマークに遭い、再び脚を負傷してプレー続行が不可能となる。ペレは2人のスタッフに抱えられ、ピッチの外へ去ることになってしまった。

10人になったブラジルは、エウゼビオに2点を決められ1-3と敗戦、屈辱の1次リーグ敗退となった。ペレはラフプレーの横行と審判のお粗末なジャッジに失望、帰国後に「もうワールドカップでプレーしたくない」と宣言し、代表からも退いた。

故障が癒えてサントスに復帰するが、プレーは低調なままキャリア最低の成績を残してしまう。心身ともに傷ついてしまった彼は、サッカーへの情熱を失いかけていたのだ。だが翌67年に愛娘が誕生、そして同年のアフリカ遠征で神のような扱いを受けたペレは己の使命を悟り、プレーへの意欲を取り戻す。

Wカップを1年半後に控えた69年のはじめ、ペレは代表復帰を打診されるがその要請を拒否する。この年の11月19日、マラカナン・スタジアムでのヴァスコ・ダ・ガマ戦でPKを蹴って通算1000ゴールを達成。後にサントス市はこの日を「ペレの日」と定める。そして熱狂する国民の期待と声援に、ペレは代表復帰とWカップ出場を決心した。

偉業達成

70年、Wカップ・メキシコ大会が開幕。ブラジルはペレを筆頭にトスタン、ジャイルジーニョ、リベリーノ、ジェルソンといった強力な攻撃陣を擁していたが、大会直前に監督交代劇(58年大会初優勝メンバーのマリオ・ザガロが新監督に就任)が起きるなと不安も抱えていた。

1次リーグ初戦はチェコスロバキアと対戦。1-1の同点で迎えた後半の59分にペレが逆転弾、その後ジャイルジーニョが追加点を挙げて4-1と勝利する。この試合の前半、GKが前に出たのを見逃さなかったペレは意表つく55mの超ロングシュート、僅かに枠を外れ惜しくもゴールとはならなかったが、詰めかけた観客の度肝を抜いた。

2戦目は、前大会王者イングランドとの試合。前半10分、ジャイルジーニョからのクロスをペレが完璧なヘディングシュート。しかしゴールは、GKゴードン・バンクスの人間離れした反応に阻まれた。ボビー・ムーアを中心としたイングランドの守備は鉄壁、さしものブラジルも自慢の攻撃を封じられてしまう。

59分、トスタンが3人のDFを抜きドリブル突破、ペレにパスが渡った。シュートを打つかと見せて、ペレは身構えるバンクスを横目に右へパス、走り込んできたジャイルジーニョが名手の牙城を突き破った。こうして1-0と接戦をものにしたブラジルは、最終節のルーマニアもペレの2得点で3-2と下し、3戦全勝で決勝Tに勝ち上がった。

そして準々決勝ではペルーを4-2、準決勝ではウルグアイを3-1と破って、ブラジルは2大会ぶりの決勝へ進出した。決勝の相手は過去2度大会王者となったイタリア、ジュール・リメ杯の永久所有権(規定により、3度優勝したチームに与えられることになっていた)を懸けた戦いとなった。

18分、リベリーノの上げたクロスに、ペレが高い打点からのヘディングシュート、機先を制するゴールを決めた。しかし37分にミスから失点、前半を1-1の同点で折り返す。それでも主導権を握り続けたブラジル、66分にジェルソンの勝ち越しミドルシュートが決まった。

その5分後、ジェルソンのFKをペレが頭で落としジャイルジーニョが追加点、ブラジルは優勝をぐっと引き寄せる。86分、トスタンを起点に次々とパスが繋がり、ペレにボールが渡ると右スペースへノールック・パス、猛然と走り込んできたカルロス・アウベウトが強烈なダメ押し弾を叩き込んだ。

こうしてブラジルが3回目のWカップ優勝を達成。アステカの神となったペレは観衆にもみくちゃにされながら、ブラジルが保持することになったジュール・リメ杯を高々と掲げた。

神のゴール

71年7月、マラカナン・スタジアムでのユーゴスラビア戦を最後に31歳で代表を引退、14年間でAマッチ92試合に出場、77得点の記録を残した。74年には現役引退を発表、サントスでは9度の州選手権優勝、11年連続得点王、南米年間最優秀選手賞のタイトルの他、2度の南米王者と世界王者に輝いている。

だが翌75年に北米サッカーリーグ、ニューヨーク・コスモスと契約、8ヶ月ぶりの現役復活を果たす。コスモスではベッケンバウアーと共にプレー、77年には北米選手権優勝に貢献した。

77年10月、37歳で現役を退くことになったペレの引退試合、コスモス対サントス戦がジャイアンツ・スタジアムで行われた。ペレは前半はコスモスのユニフォーム、後半はサントスのユニフォームを身につけ、観客の声援に応えた。

そして現役を退いた偉大なサッカーの王様には、「ペレのように1000ゴールを挙げる人はいるかもしれないが、難しいのはペレのようなゴールを決めることだ」の賛辞が送られている。

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Pele was a phenomenal athlete who brought class and finesse to the game. Named 'Athlete of the Century' by the International Olympic Committee, and one of the '...

追記:晩年に結腸癌を患い闘病生活を送っていたペレは、2022年12月29日、転移による多臓器不全によりサンパウロ市内の病院で死去。享年82歳だった。

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