《 サッカー人物伝 》 ルイス・スアレス・ミラモンテス

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「グランデ・インテルの建築家」

ルイス・スアレス・ミラモンテス ( スペイン )

スペイン出身の選手として唯一のバロンドール賞を受賞。創造性あふれるエレガントなプレーで「エル・アルキテク(建築家)」の異名を持ち、技術、判断力、パワー、運動量をすべて兼ね備えたスペイン史上最高の選手とされるのが、ルイス・スアレス・ミラモンテス( Luis Suárez Miramontes )だ。

自身優れた戦略家でもあり、バルセロナとインテル・ミラノでは名将エレニオ・エレーラ(通称、HH)の戦術をフィールドの上で完璧に表現した。またチャンスメイクだけでなく得点能力にも秀でたものを見せ、インテルを欧州チャンピオンズ・カップ優勝に導いた。

ちなみに、「ルイス・スアレス」はスペイン語圏でよくある名前。“噛み付き男” として知られる現ウルグアイ代表のストライカー「ルイス・アルベルト・スアレス・ディアス」と名前が被るのは、たまたまである。(ルイスという名前が、この偉大なスペイン選手にあやかって付けられたとする記事もある)


スアレスは1935年5月2日、スペイン北西の大西洋に面した自治州ア・コルーニャに、3人兄弟の末っ子として生まれた。49年、14歳のときにディポルティーボ・ラ・コルーニャの下部組織へ入団。53年のバルセロナ戦でトップチームデビューを果たした。53-54シーズンには17試合に出場、3得点を挙げている。

54年、その将来性を買われ18歳でバルセロナへ移籍、すぐに2部リーグのインドゥストリアルへレンタルされ経験を積む。55年にバルセロナへ復帰、中盤左のポジジョンを獲得してレギュラーに定着する。

当時のバルセロナは、ラディスラオ・クバラ、シャンドール・コチシュ、ゾルタン・チボールのハンガリートリオを攻撃の中心としたチーム。ことに51年からバルセロナでプレーするクバラの人気と存在感には絶大なものがあった。そしてコチシュとチボールは54年Wカップの準優勝メンバー、「マジック・マジャール」と恐れられたハンガリーチームの主力だった。

豊かな才能を見せるスアレスだが、彼ら偉大な選手に囲まれ、比較されることでサポーターからのプレッシャーを受けてしまう。まだ若かったスアレスはプレーが不安定になり、ある日素晴らしいプレーを演じたかと思うと、次にはミスを繰り返すという具合。クバラとの対立も噂され、観客席からブーイングさえ聞こえてくるようになった。

58年、のちに名将と呼ばれるエレニオ・エレーラが監督に就任する。エレーラは1916年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス生まれ。3歳の時に両親に連れられ、モロッコのカサブランカに移住している。その後家族はフランスに渡り、エレーラはそこでサッカー人生を始めるが、結局選手として大成しなかった。

45年、古巣のスタッド・フランセで指導者としてのキャリアを開始。フランス人女性と結婚し、4人の子供をもうけながら家族を捨ててスペイン女性と結婚、スペインに生活の場を変えてから飛躍を見せるようになる。

そしてバリャドリードやマラガなどで監督を歴任。アトレティコ・マドリード時代にはチームを49-50、50-51シーズンのリーグ連覇に導いた。さらにセビージャでディレクターの職に就いたあと、57年にポルトガルのベレネンセスへ、再びスペインに戻って名門バルセロナの監督となったのだ。

「魔術師」と呼ばれたエレーラ監督の手腕に、選手は暗示をかけられたように自信を持ち始め、58-59、59-60シーズンのリーガ・エスパニョーラを連覇する。さらに59年の国内カップ戦も制覇、60年のインターシティーズ・フェアーズカップ(後のUEFAカップ)でも優勝を果たす。

エレーラ監督のもとでスアレスも覚醒、リーグ連覇とフェアーズカップ優勝に大きく貢献した。そして59-60シーズンには公式戦37試合に出場20ゴールの活躍で、スペイン出身の選手として初めてバロンドール賞を受賞する。

しかし驕慢で誇り高い性格のエレーラは、首脳陣やソシオ(会費制のファンクラブ)、マスコミなどとも対立。チームの象徴であるクバラとも確執が生まれ、チャンピオンズ・カップでは宿敵レアルに完敗。そこへイタリアのインテル・ミラノからオファーが舞い込み、渡りに船とばかりにバルセロナを去って行った。

エレーラが去った60-61シーズンのチャンピオンズ・カップ、バルセロナは1回戦で宿敵レアル・マドリードと対戦する。バルセロナは前年も準決勝でレアルと対戦、ホーム、アウェーの2試合とも敗北を喫し、ライバルの大会5連覇を許してしまっていた。

敵地、サンティアゴ・ベルナベウでの第1戦は2-2の引き分け。そしてレアルをカンプノウに迎えての第2戦は2-1の歴史的勝利、前年の雪辱を果たし初のチャンピオンズ・カップ制覇へ大きく前進した。準々決勝ではチェコスロバキアのスパルタ・デ・プラガを2戦合計5-1で撃破、次の準決勝ではドイツのハンブルガーSVと戦うことになった。

ホーム、カンプノウの試合は1-0の辛勝、しかし敵地での第2戦は2-0とリードされてしまう。試合終了が迫った89分、スアレスのクロスからコチシュが貴重なゴール、1-2で試合は終了した。当時はアウェーゴール・ルールも延長戦もなく、2戦合計で2-2の引き分け、3試合目となる優勝決定戦が行われることになった。

中立地で行われた3戦目はバルセロナが1-0の勝利、悲願の初優勝を目指し、ベンフィカとの決勝戦に臨むことになった。しかし決勝戦の5日前、バルセロナサポーターに衝撃的なニュースがもたらされる。ルイス・スアレスの来シーズン、インテル・ミラノへの移籍が突然発表されたのだ。

インテルの監督に就任していたエレニオ・エレーラはスアレスの獲得を熱望。またバルセロナも、新スタジアム・カンプノウの建設費がかさみ、インテルが提示してきた巨額の移籍金を断れなかったのである。また自分へのブーイングが収まらないことに失望していたスアレスも、7シーズンを過ごしたバルセロナから離れる決心をした。

スイスの首都ベルンで行われたベンフィカとのチャンピオンズ・カップ決勝は、20分にコチシュのゴールで先制、しかし32分にカウンターアタックを食らい同点とされてしまう。しかしその2分後にはオウンゴールで勝ち越しを許し、1点ビハインドで前半を終了する。

後半に入って何度もチャンスをつくるバルセロナだが、55分に再びカウンターから追加点を決められてしまった。75分にはチボールのゴールで1点返すが、反撃及ばずゲームは2-3で終了。バルセロナ最後の試合となったスアレスも不発で、念願の初優勝はならなかった。

スペイン代表には21歳で初招集、57年1月のオランダ戦でデビューを果たした。58年のWカップは欧州予選で敗退、62年のチリ大会でようやく出場を果たす。スペイン代表はスアレスとフランシスコ・ヘント、アルゼンチン出身のディ・ステファノとサンタマリア、ハンガリー出身のプスカシュなど豪華な陣容を揃えたが、寄せ集めの感は拭えなかった。

さらにはディ・ステファノがエレーラ監督(インテルの監督と兼任)と衝突、怪我を理由に出場を拒否した。こうしてまとまりを欠いたスペインはメキシコに1勝を挙げただけで、大会を去って行った。

インテルでエレーラ監督は “カテナチオ(かんぬき)” と呼ばれる、堅いディフェンスをベースとした戦術を確立。これはDFラインの後ろにスイーパーを配し、分厚い守備からカウンター・アタックで相手を粉砕するという戦術である。

そして62年にインテルへ移籍したスアレスはカウンター攻撃の指揮官として、DFのジャンチント・ファケッティ、FWのサンドロ・マッツォーラとともにエレーラ戦術の中核を担うことになったのである。62-63シーズン、インテルは9季ぶりにセリエAを制覇、64-65、65-66シーズンには2連覇を達成した。

64年5月、エレーラ監督率いるインテルはチャンピオンズ・カップの決勝へ進出。キャリアの晩年期に入ったディ・ステファノ、プスカシュを擁するレアルをマッツォーラの2ゴールなどで3-1と下し、初の欧州クラブ王者に輝いた。

翌65年もチャンピオンズ・カップの決勝へ進出。4年前にスアレスがバルセロナで戦ったベンフィカを1-0と破り、2大会連続優勝を果たす。さらには2年続けてインターコンチネンタル・カップに出場し、アルゼンチンのアトレティコ・インデペンディエンテを連続撃破、クラブ世界制覇も2度果たした。

まさにセリエAの60年代は「グランデ・インテル」と呼ばれるインテル・ミラノの黄金時代となり、エレーラ監督のカテナチオ戦術はイタリアカルチョの主流となっていったのである。

64年には地元スペインで開催された欧州ネーションズカップ(欧州選手権の前身)に出場。本大会はスペイン、デンマーク、ハンガリー、ソ連の4ヶ国でトーナメントを行い、準決勝のハンガリー戦でスアレスは先制点をアシスト。決勝のソ連戦でも先制点と決勝点に絡み、大会ベストイレブンに選ばれる活躍で優勝に貢献した。これは44年後にユーロ08を制するまで、スペイン唯一のビッグタイトルとなった。

66年、Wカップ・イングランド大会に出場、しかし1次リーグ突破を懸けた最終節では西ドイツに逆転負け、またもや決勝T進出とはならなかった。70年のWカップは予選敗退で本大会出場を逃し、ついにスアレスは世界の大舞台で輝くことが出来なかった。

70年にインテルからサンプドリアに移籍、72年に38歳で現役を引退する。代表の記録は31試合13得点、クラブでは20年間のプロ生活で459試合115得点の記録を残した。またバロンドール賞では58年から7年連続でノミネート、安定した実力を証明した。

引退後は古巣インテルを始め、イタリアやスペインのクラブ監督を歴任。88年にはスペイン代表監督に就任し、90年のイタリアWカップでチームをベスト16に導いている。

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