《 サッカー人物伝 》 ウーゴ・サンチェス




「メキシコの英雄」 ウーゴ・サンチェス ( メキシコ )

スペインリーグで4年連続を含む5度の得点王になるなど、類い希な得点感覚を持ち、高い運動能力と正確な左足シュートでストライカーとして得点を量産。またゴールのあとに見せるトンボ返りのパフォーマンスでも親しまれたメキシコの英雄が、ウーゴ・サンチェス( Hugo Sánchez Marquez )だ。

メキシコからスペインに渡り、アトレティコ・マドリードでプレー。そこで得点王として国王カップ優勝に貢献すると、レアル・マドリードに引き抜かれ5年連続リーグ優勝を達成。クラブの第二黄金期を築いた「キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ部隊)」とともにアクロバティックなプレーで活躍した。

キャリアのほとんどを国外で過ごしたため、代表チームでの出場は多くないが、Wカップには78年、86年、94年と1回おきの3大会に出場するという、チリのフィゲロアと並ぶ珍しい記録を作った。その中でも、地元開催の86年大会には、チームのエースとしてベスト8進出に大きく貢献している。


サンチェスは1958年7月11日、メキシコの首都メキシコ・シティーで生まれた。父親エクトルはアストゥリアスやアトランテでプレーしたサッカー選手。兄もサッカー選手となり、妹も体操で活躍するようなスポーツ一家だった。

11歳でメキシコ・シティーに本拠地を置くクラブ、UNAMプマスの下部組織に入団。すぐにストライカーとしての才能を発揮したサンチェスは、14歳でメキシコのユースチーム入り、さらには五輪代表に選ばれ、76年のモントリオール大会に18歳の若さで出場する。ちなみにこのとき、妹のメリンダも体操競技で同一大会出場を果たしている。

フル代表には77年9月のアメリカ戦でデビュー、そして地元開催となった10月のCONCACAF(北中米サーカー連盟)ゴールドカップにも出場し、ハイチ戦で代表初得点を記録した。そしてこの大会4得点を挙げたサンチェスはメキシコ3度目の優勝に貢献、早くも代表の主力となった。

78年にUNAMとプロ契約をかわし、クラブ初のリーグ制覇に寄与する。また同年のWカップ・アルゼンチン大会にも出場、メキシコは1次リーグ全敗を喫してしまったが、若くしてエースとなったサンチェスは3試合フル出場を果たしている。

翌79年は20ゴールを挙げリーグ得点王、オフシーズンの間には北米サッカーリーグのサンディエゴ・サッカーズでもプレーを行っている。81年にはUNAMで公式戦26ゴールを記録し、コパ・インテラメリカーナ(アメリカ大陸No.1クラブ決定戦)を制覇、その活躍が認められてスペインのアトレティコ・マドリードへ移籍することになった。

81-82シーズンは公式戦27試合に出場して12ゴール、82-83シーズンは39試合に出場して22ゴールと順調に実績を重ね、84-85シーズンにはリーグ戦19ゴールでリーガ・エスパニョーラ初の得点王(ピチーチ賞)を獲得する。そしてこの年のコパ・デル・レイ(国王杯)優勝にも貢献、翌年には同じ都市のライバルクラブであるレアル・マドリードに引き抜かれることになる。

メキシコは82年のWカップ・北中米予選で敗退したため本大会出場を逃し、86年の地元開催大会は8年ぶりの出場となった。代表監督は、ユーゴスラビア(現セルビア)人で選手時代からメキシコで活躍していたボラ・ミルティノビッチ。

ミルティノビッチはかつてUNAMを初優勝に導いた監督。代表を指揮するのはメキシコが初めてだったが、近代的な戦術を取り入れ、メキシコを世界のトップクラスとも戦えるチームに変貌させていた。のちにミルティノビッチはサッカー途上国を次々と躍進させ、「奇跡の人」と呼ばれるようになる。

1次リーグ初戦ではアステカ・スタジアムでベルギーと対戦、1点をリードした39分にサンチェスは豪快なヘディングゴールを決め、2-1の勝利に貢献した。第2戦のパラグアイ戦もメキシコが先制、やや荒れ気味となった試合は僅差で終盤までもつれ、85分に1-1の同点となった。

だが終了直前メキシコはPKを獲得、サンチェスがキッカーとしてペナルティエリアに立つ。しかしこのチャンスにエースのシュートは外れ、惜しくも勝ちを逃してしまった。最終節のイラク戦でサンチェスは出場停止により出られなかったが、1-0と格下相手に順当な勝利、2勝1分けで70年大会(この時も地元開催)以来、16年ぶりのベスト16入り(この時も地元開催)を果たす。

決勝T1回戦でメキシコはブルガリアと対戦、出場停止明けのサンチェスも先発に復帰した。メキシコはネグレデのアクロバティックな左足ボレー弾で先制、61分にはセルビンがダイビングヘッドで追加点を挙げ、詰めかけた10万人の観衆を熱狂させる。サンチェスも好調なプレーでブルガリア守備陣を脅かし、2-0の勝利に寄与した。

準々決勝は、ベッケンバウアー監督が率いる強豪西ドイツとの対戦になった。開始30分、ブレーメの強烈なタックルによりメキシコ主将のトマス・ボーイが負傷交代、厳しいマークを受けたサンチェスも動きを封じられてしまった。試合は警告カードが乱れ飛ぶ内容となり、64分には西ドイツのベルトルトが退場処分になる。

0-0で延長に入った100分、今度はメキシコのアギーレ(のち日本代表監督)がGKシューマッハへのラフプレーで退場。10対10となった試合はスコアレスのまま延長も終了、勝負はPK戦に持ち込まれた。だがメキシコのPKは2人がシューマッハの好セーブに阻止され、開催国の準決勝進出はならなかった。

このあと様々な事情により、サンチェスは長期にわたって代表から離れることになる。

85-86シーズン、レアル・マドリードに移籍。サンチェスは公式戦49試合に出場して29ゴールを記録、2年連続得点王の活躍でリーグ優勝とUEFAカップ制覇の2冠獲得に貢献する。当時のレアルには下部組織出身の若手が次々に台頭、中核となる5選手の「ラ・キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ部隊)」を中心とした黄金期を迎えつつあった。

サンチェスはその代表格である、“禿鷲” エミリオ・ブトラゲーニョとともにレアルの得点源となり、チームを牽引する存在となっていった。86-87シーズンのベティス戦ではハットトリックを記録、そのうち最初の1点は、得意のバイシクル・シュートによるものだった。

翌87-88シーズンのリーグ戦第8節のバレンシア戦でも、サンチェスは難しい体勢から絵に描いたようなバイシクル・シュートの決勝点を決め、いつもの宙返りパフォーマンスで喜びを露わにした。これは今でも、レアルの歴史で語り継がれるビューティフル・ゴールと言われている。

サンチェスは故障で出場機会を失った92年までレアルに在籍。その7シーズンで283試合に出場して208ゴールを記録、4回の得点王、5度のリーグ優勝を成し遂げ、89-90シーズンには39ゴールを挙げて、ヨーロッパ・ゴールデンブーツ賞(欧州リーグ最多得点)を獲得している。まさにレアル黄金期になくてはならない、エース・ストライカーだった。

88年、メキシコ代表に「カチルール」と呼ばれる不正スキャンダルが発生。メキシコのU-20代表チームに、年齢オーバの選手が少なくとも4人含まれていたことが発覚したのだ。このことでメキシコ代表は2年間のFIFA主催大会出場停止処分を受け、90年のイタリアWカップにも出られなくなってしまった。

しかしU-20大会での年齢詐称は他の国でも頻発しており、メキシコに対する処分は厳しすぎるとの声も上がった。これは次大会の自国開催が決まっていたアメリカをイタリア大会に出場させるため、FIFAがメキシコを北中米予選から締め出したのだとも言われている。この時期サンチェスは怪我にも悩まされており、しばらく代表に呼ばれることはなかった。

レアルを退団したサンチェスはメキシコに帰国、92-93シーズンはクラブ・アメリカでプレーした。そこで自身2度目となるCONCACAFチャンピオンズ・カップ(北中米クラブ選手権)を制覇、決勝のアラジュレンセ(コスタリカ)戦では決勝ゴールを決めている。

国際大会に復帰したメキシコは、エクアドルで開催された93年のコパ・アメリカに招待出場。サンチェスは準決勝のエクアドル戦でゴールを決め勝利に貢献、決勝ではアルゼンチンに敗れたものの、90分間をプレーした。

94年、メキシコはWカップ・アメリカ大会に出場。異常な暑さに見舞われた大会で、35歳のサンチェスが試合に出たのは1次リーグ初戦のノルウェー戦だけだったが、精神的支柱としてチームのベスト16進出に寄与している。

その後いくつかのクラブ経て、39歳を目前にした97年にメキシコのアトレティコ・セラヤで現役を引退。引退記念試合ではレアルのユニフォームを着て、3得点を挙げている。引退後は指導者の道に進み、古巣UNAMプマスなどの監督を歴任、06年から08年までメキシコ代表監督も務めた。

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