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《 サッカー人物伝 》 エンツォ・シーフォ

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「20世紀最後のゲームメーカー」エンツォ・シーフォ(ベルギー)

広い視野と華麗なテクニックを持ち、パスワークやシュートにも独特のひらめきを見せて、その予測不能なファンタジックなプレーから「別の惑星からきた選手」とまで言われたのが、ベルギーのビンチェンツォ〈エンツォ〉・シーフォ( Vincenzo 〈 Enzo 〉Daniele Scifo )だ。

当時史上最年少の18歳で84年欧州選手権フランス大会に出場、同年にはUEFAカップ決勝の舞台にも立ち脚光を浴びた。そして86年のメキシコWカップでは “レッドデビルズ” (ベルギー代表の愛称)の若き司令塔となり、自らも2得点を挙げるなど存在感を見せている。

そんな活躍から「ベルギーの至宝」と呼ばれ、Wカップには4大会連続で出場。30を過ぎても中盤でのキープ力、パスセンスは相変わらず抜群で、あのプラティニからも「20世紀最後のゲームメーカーは、シーフォだ」と評された。

ベルギーの至宝

シーフォは66年2月19日、ベルギーの炭鉱の町ラ・ルビエールで生まれる。両親はシチリア島から出稼ぎに来たイタリア移民だった。少年時代は炭鉱で重労働をする父親のもとで貧しい少年時代を過ごすが、才能が認められ7歳の時に地元クラブのジュニアチームに入団する。

すぐに天性の能力を伸ばしたシーフォは、4シーズンで432ゴールという驚異的な記録を残し、「リトル・ペレ」とあだ名されるようになった。そしてその活躍が認められ、16歳となった82年にベルギー最大のクラブ、アンデルレヒトへ移籍。17歳でトップチーム・デビューを果たした。

83-84シーズン始めからレギュラーを獲得、同シーズンのUEFAカップの舞台にも立った。そしてシーフォは準決勝のノッティンガム・フォレストで得点を挙げるなど、アンデルレヒトの大会準優勝に貢献する。

するとベルギーサッカー協会は、この若い才能にベルギー代表入りを要請。シーフォはイタリア国籍を捨てベルギー国籍を選択、“レッドデビルズ” のメンバーとなる。さっそく84年6月の欧州選手権フランス大会に出場、ベルギーはG/L敗退を喫してしまったが、18歳のシーフォは期待の新鋭として一躍注目を浴びる存在になった。

アンデルレヒトは84-85、85-86、86-87シーズンとリーグを3連覇。若くして強豪チームを牽引したシーフォは、ベルギー代表でも中心選手となっていく。

プラティニの後継者

86年、Wカップメキシコ大会に出場。1次リーグ初戦ではウーゴ・サンチェスにゴールを決められ、地元メキシコに1-2と敗れてしまったが、第2戦はシーフォの先制点でイラクに2-1と勝ち星を挙げた。最終節ではパラグアイと2-2の引き分け、グループ3位となるもどうにか決勝Tへの進出を果たす。

決勝T1回戦の対戦相手は、知将ヴァレリー・ロバノフスキー監督率いるソ連だった。ウクライナの名門、ディナモ・キエフの選手を主体としたソ連は、1次リーグで強豪ハンガリーを6-0と粉砕、プラティニ擁するフランスにも1-1で引き分けるなど、「ダニッシュ・ダイナマイト」旋風を起こしたデンマークとともに大会の話題を集めていた。

27分、ベラノフのゴールでソ連が先制、だが後半に入った56分にシーフォが同点弾を決める。70分、ベラノフの2点目でソ連がリードすると、77分に再びベルギーが追いついた。2-2で試合が延長に入ると、老獪さに勝るベルギーが巧みなゲーム運び、北国から来たソ連選手は暑さで次第に疲弊していった。

102分にベルギーが勝ち越し点、110分に追加点が生まれた。111分にベラノフが1点を返しハットトリックを達成するが、ソ連の動きは鈍くベルギーが4-3と逃げ切る。準々決勝ではスペインと対戦。ベルギー1-0のリードで迎えた85分、セニョールに25mのシュートを許してしまい同点、延長でも決着がつかなかった。

PK戦では、ベルギーはシーフォら5人全員が成功、スペインは1人が失敗し、ベルギーが準決勝に進んだ。準決勝のアルゼンチン戦では、マラドーナに2点を許し0-2と敗戦。この時のマラドーナのプレーは、若いシーフォに大きな影響を与える。

3位決定戦ではフランスに敗れてしまったが、老練な試合運びを身上とするベルギーチームの中で、20歳のシーフォは攻撃のアクセントとなり、過去最高成績となるベスト4入りに貢献。大会のベストヤングプレイヤー賞に選ばれた。

87年、21歳のシーフォはセリエAの強豪インテル・ミラノへ移籍。だが28試合に出場して僅か4得点と力を発揮できず、1年でフランスに戻りボルドーやオーセルでプレー。フランスの名将、ギー・ルー監督(オーセルを44年間指揮)のもとで本来の力を取り戻した。プラティニに後継者として指名されたのはこの頃である。

セリエA挑戦の失敗

90年、Wカップ・イタリア大会に出場。1次リーグ初戦ではシーフォを中心に厚みのある攻撃で韓国を2-0と撃破、第2戦で南米の古豪ウルグアイと対戦した。開始16分、ベルギーが先制、22分にはシーフォが右足のロングシュートでリードを広げた。しかし41分にキャプテのゲレツが2枚目の警告で退場、ベルギーは後半を10人で戦うことになった。

しかし後半開始の48分、意表を突いて攻めに出たベルギーは3点目をゲット、その後の反撃を1点に抑え、難敵ウルグアイを1-3と下した。かつては専守防衛で相手を焦らすやり方をしていたベルギーだが、シーフォの存在によって多彩な攻めを見せるようになっていたのだ。

ベルギーはスペインに続く2位で1次リーグを突破、決勝T1回戦で前大会の得点王、ガリー・リネカーを擁するイングランドと戦った。試合はスコアレスのまま延長に突入、それでも得点は生まれず120分が終了しようとしていた。

その直前の119分、FKのチャンスにポール・ガスコインがボールを浮かすと、落ち際を捉えたデヴィッド・プラットがボレーシュート、鮮やかな決勝弾が決まった。ベルギーは前回を下回るベスト16に終わってしまったが、24歳のシーフォは代表を牽引する存在となっていた。

91年、イタリアでの雪辱を期しセリエAのトリノFCへ移籍。近年は低迷を続けていたトリノだが、シーフォらの活躍で91-92シーズンのリーグ3位に躍進、その勢いでUEFAカップも勝ち進んだ。準決勝ではレアル・マドリードを2戦合計で3-2と撃破、決勝でもアヤックスと激闘を繰り広げる。だが惜しくもアウェーゴール差で栄冠を手にすることはできなかった。

翌92-93シーズンは、コッパ・イタリア決勝でローマを破り22年ぶりの優勝を達成。だがモンドニゴ監督のシーフォへの評価は低く「良いときはいいが、まったく姿が消えてしまうこともある。決して違いを生み出せる選手ではない」と辛辣なものだった。

そしてクラブが財政難に陥ったこともあり、93年にはディヴィジョン・アンのASモナコへ売却されてしまう。シーフォは「イタリア人は私を完全に理解したことがない。私を使うならもっとフリーなポジションを与えるべきだ」と失意のうちにイタリアを去って行った。

モナコには4シーズン在籍。96-97シーズンにはジャン・ティガナ監督のもとで、リーグ優勝とスーパーカップ優勝に貢献した。

充足のサッカー人生

94年、Wカップ・アメリカ大会に出場。1次リーグでは守護神プロドームが美技を連発、モロッコとオランダを完封し連勝を飾った。

だが最終節はサウジアラビアのサイード・オワイランに60m独走ゴールを決められ、0-1の敗戦を喫してしまう。それでも3チームが勝点で並ぶという激戦の中で、ベルギーは4大会連続の決勝T進出を果たす。決勝Tでは西ドイツに2-3と惜敗し、ベスト8入りはならなかった。

98年のWカップ・フランス大会にも4回目の出場。しかし32歳になっていたシーフォの出場は少なく、ベルギーも久々となるグループリーグ敗退を喫してしまった。大会後に代表を退いたシーフォは、14年間でAマッチ84試合出場、18得点の記録を残した。

97年に古巣のアンデルレヒトへ復帰、99-00シーズンのリーグ優勝に貢献する。00-01シーズンはシャルルロワSCに移籍、01年からは選手兼監督を務めたが、02年に肺気腫を発症し36歳で現役を引退した。

若くして「ベルギーの至宝」と期待された彼には、その後の活躍に物足りなさを指摘する声もあったが、シーフォは「私より良い成績を収めた選手はいるだろうが、それはほんの一握りだ。自分のサッカー人生には満足している」と語った。

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