「 O脚のドリブル王 」 ピエール・リトバルスキー ( 西ドイツ )
若い頃「ドリブラルスキー」とあだ名を付けられたほど、ドリブルを得意とした西ドイツのウィンガーでゲームメーカー。小柄ながらその武器を生かして代表レギュラーを長く務め、90年のWカップ優勝にも貢献し「O脚のドリブル王」と呼ばれたのが、ピエール・リトバルスキー( Pierre Littbarski )だ。
22歳で臨んだスペインWカップでは、キレのあるドリブルから貴重なアシスト、ゴールで決勝進出の立役者となり、その名を世界に知らしめた。当時強豪チームだった1.FC(エルステー・エフツェー)ケルンでも長く主力として活躍、チームをドイツカップ優勝とUEFAカップ準優勝に導く。
キャリアの晩年には元同僚の奥寺康彦に招かれ、日本のジェフ・ユナイテッド市原でプレー。巧みなドリブルや質の高いFKで観客を魅了するだけでなく、本場ブンデスリーガのプロ精神で選手の意識改革を図り、黎明期にあったJリーグの発展に寄与している。
リトバルスキーは東西冷戦時代の1960年4月16日、周囲を東ドイツに囲まれた西ベルリンのシェーネベルクで生まれた。父は税務署員という平凡な家庭で育ったが、小さい頃から空き地サッカーに夢中になる。そしてそこで飽き足らなくなると、熱狂的なサッカーファンだった祖父に連れられ、7歳の時に地元クラブの下部組織でプレーするようになった。
身体の小さかったリトバルスキーは、すばしっこさと「サッカー脚」と呼ばれるO脚の特徴を生かしてドリブル技術を磨き、チームの主力となってユーゲント(ユース)のベルリン大会優勝に貢献。16歳の時に声をかけてきたコーチと共に、環境の整ったヘルタ・ツェーレンドルフに移籍する。
やがてプロを夢見るようになったリトバルスキーだが、地元のメジャークラブ、ヘルタ・ベルリンからは貧弱な身体を理由に誘いがかかることもなく、ギジムナウ(中等教育学校)卒業後は税務官の養成訓練を受けながらユーゲント・チームでサッカーを続ける。
そして78年に全国ユーゲント大会へ出場、準決勝の1.FCケルン・ユーゲントとの試合では2本のシュートを決め勝利の立役者となった。決勝ではMSVデュイスブルグに敗れ優勝はならなかったが、ここでも4人抜きのドリブルシュートを決めたリトバルスキーは、試合を観戦していたケルンの強化マネージャーにスカウトされ、プロの夢を果たすことになる。
当時ケルンは西ドイツのチャンピオンチームで、監督を務めていたのは名将と言われたヘネス・バイスバイラーだった。新人リトバルスキーはこの名監督のもとで力を伸ばしていき、すぐにレギュラーの座も獲得して「リティ」の愛称で呼ばれる。そしてこの時チームメイトとして一緒にプレーしたのが、「東洋のコンピューター」こと奥寺康彦である。
順調なプロ生活のスタートを切ったリティだが、80年にリヌス・ミケルスがケルンの新監督に就任するとその環境は一変する。ミケルス監督はトータル・フットボール戦術でオランダをW杯準優勝に導いた名将だったが、個性を無視した厳しい軍隊式トレーニングに選手たちは反撥。20歳でキャプテンに指名されたリティは、厳しい立場を強いられることになる。
西ドイツ代表には81年10月に初招集され、14日のWカップ欧州予選オーストリア戦で、さっそく2ゴールを挙げるという華々しいデビューを飾った。そして22歳で82年のWカップ・スペイン大会に出場、1次リーグ初戦から先発メンバーとして大舞台のピッチに立った。
しかし初戦の試合は、「第3世界の小国」と言われたアルジェリア相手に1-2とまさかの敗戦。西ドイツのマスコミから激しい批判を浴びてしまう。それでも次のチリ戦ではカール = ハインツ・ルンメニゲのハットトリックで4-1と快勝、最終節のオーストリア戦に2次リーグ進出が懸かることになった。
試合開始10分にリティのクロスから西ドイツが先制。だがその後、双方が攻める意志を見せることはなく、ゲームは単なるボールの回し合い。スタンドからブーイングの声が響く中、試合は1-0で終了した。
実は前日にアルジェリアとチリの最終節が行われており、その結果を受けて1-0のままなら西ドイツとオーストリアの双方が2次リーグに進めたので、出来試合のようになってしまったのだ。
2勝を挙げながら1次リーグ敗退となったアルジェリアはFIFAに提訴を行ったが、その訴えは退けられた。しかしWカップの大会方式に欠陥があったのは確かで、この教訓からG/Lの最終節は同日・同時刻に行われるようになったのである。
2次リーグの初戦はイングランドと0-0の引き分け。第2試合では地元スペインをリティの先制弾で2-1と撃破し、西ドイツは準決勝へ進出する。そして準決勝で対戦したのは、プラティニを中心とした中盤の「魔法陣」を形成するフランスだった。
開始18分、フランスGKのファンブルを、詰めていたリティが蹴り込み西ドイツが先制。だがその7分後、プラティニのPKが決まって試合は振り出しに戻った。
その後ゲームは華麗なパス回しで中盤を制したフランスの展開となったが、後半に入った57分、フランスDFのバチストンと西ドイツGKのシューマッハが激突。シャツが鮮血に染まり意識不明となったバチストンは、担架でピッチの外に運び出された。
ゲームは1-1のまま延長に突入。直後の2分にジレスのFKから、怒りに燃えるフランスの勝ち越し点が決まった。さらに6分後にはジレスが追加点、2点をリードしたフランスは圧倒的に有利となった。劣勢となった西ドイツは、肉離れで先発を外れていたルンメニゲを投入。その102分、リティのチップキックから、投入されたばかりのルンメニゲが1点を返した。
さらに108分、リティのクロスをルベッシュが頭で折り返し、中央にいたフィッシャーがバイシクル・シュートでゴールを割り、ついに西ドイツが3-3と追いつく。勝負はPK戦に持ち込まれ(この大会から採用)、西ドイツはリティなど5人がシュート成功。シューマッハがフランスの2本を止め、決勝への進出を決めた。
決勝ではラッキーボーイとなったパオロ・ロッシなどのゴールでイタリアに1-3と敗れ、西ドイツは準優勝に終わってしまったが、大会2ゴール5アシストの活躍を見せたリティは、一気に世界から注目される存在となった。
82-83シーズン、1.FCケルンはドイツカップ決勝で2部リーグのフォルトゥナ・ケルンを1-0と破り優勝、決勝点を決めたのはリティだった。しかしこの頃からミケルス監督との関係は悪化し、いつしか公然と批判を行うようにまでなった。
そのことでリティは謝罪と罰金処分に追い込まれるが、監督と選手間の対立は深まり、ついにミケルスは83年のシーズン終了後に解任される。しかしそのあとリティは深刻なスランプに陥り、試合途中で交代させられることも多くなってしまった。
そんなことからプレーも荒くなり、代表の南米遠征ホンジュラス戦では突如相手を殴り倒して、人生初のレッドカードを喰らってしまう。そしてスランプ状態が続くうちにクラブへも不満を抱くようになり、85-86シーズンのUEFAカップ決勝進出(レアルに敗れ準優勝)を置き土産に、フランスのラシン・パリへの移籍を決める。
86年のWカップ・メキシコ大会を控えた5月、リティは左足の靱帯を3カ所裂傷するという怪我に見舞われてしまう。必死のリハビリでWカップには間に合ったが、リティはスーパーサブの扱い。準決勝のフランス戦、決勝のアルゼンチン戦ではピッチに立つ機会もなく(西ドイツは準優勝)、リティにとって不本意な大会となってしまった。
Wカップ終了後にリティはラシン・パリへの移籍を果たしたが、個人主義的なフランス人気質が性格に合わず、寄せ集め集団のチームも低迷、彼の苦悩は続いた。そこでリティは1.FCケルンへの復帰を画策、自腹を切って高額な移籍金を補填し、1年で古巣へ舞い戻った。
ブンデスリーガへの復帰を果たしたリティはプレーが復調、役割を右ウィングからゲームメーカーに移して攻撃の中心となり、背番号も7番から10番へ変更された。トーマス・ヘスラー、モアテン・オルセン、ユルゲン・コーラーら好選手を揃えたケルンは好成績を収め、当時絶対王者だったバイエルン・ミュンヘンと毎年のように優勝争いを続けた。
90年、Wカップ・イタリア大会に30歳で出場。ベッケンバウアー監督には相変わらずスーパーサブ的な使い方をされたリティだが、G/L最終節のコロンビア戦では貴重な得点を挙げ、1位での決勝T進出に貢献する。
トーナメントの1回戦は、ミラントリオを擁するオランダとの戦い。リティは大会初の先発出場を果たした。試合は開始20分過ぎ、西ドイツのフェラーとオランダのライカールトとの間に小競り合いが起こり、数分後に二人は再び衝突、双方退場処分となってしまった。
フェラーがいなくなったことでリティはFWのポジションに移動、10対10となったゲームは死力を尽くした戦いとなり、西ドイツが2-1で接戦を制した。続くチェコスロバキア戦にもリティは先発、相手を翻弄する動きでMFモラフチクを憤慨させ、70分に退場へ追い込んで1-0の勝利に貢献する。
だが準決勝のイングランド戦はベンチスタート。試合は延長・PK戦まで持ち込まれるが、ついにリティの出番は訪れなかった。決勝は、前大会で苦杯をなめることになったアルゼンチンとの対戦、リティは先発に復帰する。
複数の主力が出場停止となったアルゼンチンは防戦一方、満身創痍のマラドーナも精彩を欠き、終始西ドイツのペースで試合は進んだ。リティも2度ほど決定的なチャンスを迎えるが、強振したシュートは惜しくもゴール枠を外れていった。
ようやく85分にPKのチャンスを得ると、ブレーメが決めて先制。終盤アルゼンチンの2選手が相次いで退場となり、終了の笛を待たずに勝敗は決した。こうして1-0と勝利した西ドイツは16年ぶり3回目の優勝を達成、リティは栄光のトロフィーを掲げてグラウンドを一周した。
しかしWカップ後の90-91シーズン、リティは靱帯断裂というサッカー人生最大の重傷を負ってしまう。それでもどうにか懸命のトレーニングを重ね、8ヶ月後のドイツカップ準々決勝で復帰を果たす。しかし既に30を越していたリティのコンディションが元に戻ることはなく、代表からもお呼びが掛からなくなってしまった。
クラブ内でもゴタゴタが起きるようになり、有力選手を次々と放出、チーム成績は低迷し始めた。監督との衝突や交通事故などトラブル続きだったリティも、93年の契約満了を機に1.FCケルンの退団を決意する。そんなときに、プロリーグ発足を控えた日本のクラブからオファーが舞い込んだ。
最初は浦和レッズとの交渉が行われたが、長らく音沙汰がないまま、93年の1月に元同僚の奥寺康彦がリティへ連絡を取ってきた。奥寺は当時ジェフ市原のゼネラル・マネージャー、それからとんとん拍子に話は進み、リティのJリーグ移籍が決まった。
そして93年5月10月に来日を果たすと、リティはすぐにこの極東の国とフィーリングが合うことに気がついた。その5日後にJリーグが開幕し、サンフレッチェ広島でJリーグデビューを飾る。そして19日の対ヴェルディ戦ではさっそく低い弾道のFKを決めて勝利に貢献する。
第5節では強豪横浜マリノスを5-0と粉砕してリーグ首位に立つと、新聞紙面には「リティ効果」の見出しが躍り、リトバルスキーは日本で大人気となった。当初5ヶ月間だけJリーグでプレーするつもりのリティだったが、契約は1年間に延長された。
しかしその後、新興勢力の鹿島アントラーズに敗れてチームは失速、結局年間総合8位で1年目のシーズンを終えた。だがリティの卓越したプレーと一流のプロ精神は、アマチュア意識の抜けない日本選手に大きな影響を与えたのである。
94年に市原を退団し引退。だが2年後にJFLのブランメル仙台(現ベガルタ仙台)で復帰を果たし、37歳となった97年に現役を引退した。その後JFAの指導者S級ライセンスを取得、横浜FCやアビスパ福岡の監督を歴任する。現在はドイツに戻り、ブンデスリーガのウォルスブルグでスカウティング部長を務めている。