《 サッカー人物伝 》 フランク・ライカールト 

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「フィールドのブラック・スワン」

フランク・ライカールト ( オランダ )

190㎝、80㎏という恵まれた体格で身体能力も抜群。柔らかいボールタッチ、戦術眼、正確なパスワーク、空中戦の強さなど、多彩な能力を生かしてCBや中盤底のポジションでチームを牽引した。その湖面から水鳥が跳び跳ねるようなダイナミック・プレーで「ブラック・スワン」と呼ばれたのが、フランク・ライカールト( Franklin Edmundo Rijkaard )だ。

80年代後半のACミランにおいて、フリットやファン バステンとオランダトリオを形成。攻守にわたる幅広い活躍でクラブの黄金期を支えた。オランダ代表でもセンターバックとして素晴らしいプレーを見せ、88年の欧州選手権優勝に大きな役割を果たしている。

現役引退後は指導者となり、ユーロ2000でオラン代表を指揮、ベスト4進出の実績を残す。03年からはバルセロナの監督に就任、ラ・リーガ優勝とCL優勝を果たしただけではなく、魅惑的な攻撃サッカーを展開してサポーターから大きな支持を得た。


ライカールトは1962年9月30日アムステルダムで、オランダ領ギアナ(現スリナム共和国)出身のプロサッカー選手である父親と、オランダ人の母親との間に生まれる。やがてライカールト少年は近所の子供たちとストリートサッカーを親しむようになるが、その幼馴染みの中にはあのルート・フリットもいた。

79年にアムステルダム選抜へ選ばれ、アヤックス・ユースと対戦。このエリートチームに5-1と大勝したことから注目されるようになり、ライカールトは当時の育成責任者、レオ・ベーンハッカーにスカウトされてアヤックスの下部組織に入団する。

80年、ベーンハッカーがアヤックスの監督に就任。若手を積極的に登用する方針を打ち出し、当時17歳のライカールトもトップチームに昇格、8月23日のリーグ戦でプロデビューを果たした。すぐに中盤の底でレギュラーの座を掴み、翌シーズンは古巣復帰を果たしたヨハン・クライフに感化され、さらに大きく成長してリーグ優勝に貢献する。

82-83シーズンはリーグ優勝とオランダカップ制覇の2冠を獲得。クライフはシーズン終了後にフェイエノールトへ移って行ったが、ライカールトは中心選手としてチームを牽引、85年にはオランダ年間最優秀選手賞に選ばれた。

85-86シーズン、現役を引退したクライフがアヤックスの指揮官(テクニカル・ディレクター)に就任、21歳のファン バステンが主将、23歳のライカールトは副主将に指名された。その年のリーグ優勝は逃したもののオランダカップを制し、出場権を得た欧州カップウイナーズ・カップで優勝、ライカールトは2度目のオランダ年間最優秀選手賞を受賞する。

87年、ファン バステンがACミランに移籍。主将となったライカールトにかかる責任と負担は大きくなり、クライフからの高い要求に強いストレスを抱えるようになる。そしてシーズン開幕後にスランプに陥り、ついには練習中にクライフと衝突。そしてグラウンドを立ち去ると、そのまま姿を消してしまう。

ライカールトは87-88シーズン途中にアヤックスを退団。その後ポルトガル、スポルディングFCへの入団を表明するも、契約問題がこじれて6ヶ月間実戦から離れ、ようやくスペインのサラゴサにレンタルされ短期間プレーを行った。

オランダ代表には81年に19歳で初選出。9月1日のスイス戦で初キャップを刻み、83年12月の欧州選手権予選マルタ戦で初得点を記録した。しかし78年のWカップ大会で準優勝を果たした後、低迷期に入ったオランダは82年と86年のWカップ、さらに84年の欧州選手権出場を逃し、ライカールトが大舞台のピッチに立つことはなかった。

それでも86年に名将リヌス・ミケルスが監督に就任すると、オランダは88年の欧州選手権への出場を果たす。グループリーグでは知将ヴァレリー・ロバノフスキー監督率いるソ連に0-1と惜敗するも、難敵イングランドとアイルランドを打ち破り、2位で準決勝に進出した。

この大会で旧知のR・クーマンとセンターバック・コンビを組んだライカールトは、守備に貢献するだけではなく、最終ラインからの攻撃参加で絶妙なコンビネーションを見せ、オランダの勝利に貢献する。準決勝では、ミケルス監督が74年W杯で苦杯を舐めた西ドイツを2-1と撃破、決勝で再びソ連とまみえることになった。

決勝は32分にフリットが先制弾、54分にファン バステンが劇的なボレーで追加点を決めた。ライカールトはソ連の点取り屋プロタソフを完全に抑え、2-0の勝利に大きく貢献した。こうしてオランダは初のビッグタイトルを手にし、ライカールトの国際的評価も急上昇する。

88年5月、クライフがバルセロナの監督に就任。するとクライフは、「バルセロナに欠けているものを満たせる選手」としてライカールトの獲得を熱望する。アヤックスでは諍いを起こしたライカールトとクライフだが、決して二人の仲が険悪になったわけではなかった。

クライフがライカールトに厳しく接したのは高い期待の裏返しであり、追い詰められて一時は感情的になったライカールトも、自分を評価してくれたクライフへの尊敬の念は変わらなかった。それでも早くから熱心な誘いを掛けていたACミランに移籍、先にプレーしていたファン バステン、フリットとオランダトリオを形成した。

それまでセンターバックとしてプレーすることの多かったライカールトだが、ACミランでは中盤の底で起用され、アリゴ・サッキ監督によるゾーンプレス戦術の要として活躍する。F・バレージがミランの最終ラインを統率、その前方でライカールトがゲームをコントロールし、前方のフリットやファン バステンにボールを繋げた。

88-89シーズン、ミランはストイコビッチ擁するレッドスター(ツルベナ・ズベズダ)や強豪のレアル・マドリードを下し、チャンピオンズ・カップの決勝へ進出、ルーマニアのステアウア・ブカレストに4-0と圧勝し、20年ぶりの欧州王者に輝いた。

翌89-90シーズン、2季連続でリーグ優勝は逃したものの、チャンピオンズ・カップではライカールトの決勝点で連覇を達成、欧州チャンピオンを決めるスーパーカップでも2年連続優勝を果たす。89年のトヨタカップも制し、90年のトヨタカップではライカールトの2得点で2連覇を成し遂げた。

28歳の全盛期を迎えたライカールトは、攻守にわたる幅広いプレーと豊富な運動量で勝利に貢献。中盤のボール奪取に力を発揮し、確実な繋ぎから得点にも絡んでミランの黄金期を支えた。この安定した活躍で、バロンドール投票では2年連続3位に選ばれている。

90年、Wカップ・イタリア大会に出場。だが監督問題や内紛などで揺れたオランダ代表に2年前の結束力はなく、グループリーグ3引き分けの3位でようやくベスト16に勝ち上がった。

決勝T1回戦は、因縁の西ドイツとの戦い。前半の20分にライカールトがルディ・フェラーをタックルで倒し、イエローカードを受ける。この際ライカールトと口論となったフェラーも、同じくイエローカードを受けてしまった。

その直後、オランダGKファン ブロインケレンがボールを掴んだところに、フェラーが飛び込み転倒。駆け寄ったライカールトとフェラーが再び口論を始め、主審は二人にイエローカードを提示、両者に退場を命じた。この時ピッチを去るフェラーを追いかけ、ライカールトが後頭部に唾を吐きかけるという事件が起きる。

この出来事ははっきりテレビに映し出され、オランダと西ドイツの両国で大きな物議を醸し出すことになる。ライカールトがこんな暴挙に出たのは、フェラーが彼に人種差別的な言葉を吐いたからだとされたが、のちに両者はその噂を否定している。

このあと試合は白熱した内容となったが、攻守の要を失ったオランダは1-2と敗れてしまった。こうしてライカールト初めてのWカップは、苦い思いだけ残して終わった。

90年以降もミランの勝利に貢献し続けたライカールトだが、フリットの退団やファン バステンの故障でオランダトリオは解消。体力的な衰えも感じ始めたライカールトは、強いストレスを嫌って契約延長のオファーを断わり、93年に古巣のアヤックスへ移籍する。

代表ではユーロ92に出場。準決勝でダークホースのデンマークに敗れて連覇を逃してしまうが、2ゴール1アシストの活躍でベスト4入りに貢献した。94年のWカップ・アメリカ大会にも出場、準々決勝でブラジルと熱戦を演じるが2-3で敗退し、この大会を最後にライカールトは代表を退いた。

アヤックスに戻ったライカールトは、パトリック・クライファート、エドガー・ダーヴィッツ、クラレンス・セードルフら若手の手本となり、平均年齢23歳という成長期のチームを牽引、93-94、94-95シーズンのエール・ディヴィジ連覇に貢献する。

94-95シーズンにはチャンピオンズリーグの決勝へ進出。欧州チャンピオンの座を懸けて争う相手は、奇しくも古巣のACミランだった。そして0-0で迎えた85分、ライカールトのアシストからクライファートが決勝ゴール。1-0と勝利し、クライフ時代以来22年ぶりのチャンピオンズリーグ(旧チャンピオンズ・カップ)優勝を果たす。

そしてこの決勝の3日後、5月28日に行われたFCトゥウェンテ戦を最後に、ライカールトは32歳で現役を引退した。

そのあとしばらくサッカー界から遠ざかっていたライカールトだが、フース・ヒディンク監督の要請を受け、アシスタントコーチとしてオランダ代表に復帰。誰にも慕われるその人柄でスリナム系選手と白人選手の融和を図り、未然に内紛を防いで98年Wカップ・フランス大会のベスト4入りに寄与する。

Wカップ終了後にヒディンク監督が辞任すると、ミケルスやクライフの推薦を受けライカールトが代表監督に就任。ユーロ2000でオランダを指揮し、チームを準決勝進出に導いた。しかしイタリアを相手に優位にゲーム進めながら、勝ちきれなかったことで辞意を表明する。

その後スパルタ・ロッテルダムの監督を経て、03年にクライフの後押しを受けてバルセロナの監督に就任。当時低迷期にあった名門チームの再建に当たったライカールトは、補強したロナウジーニョ、エトー、デコらの活躍でスペクタクルなサッカーを展開、04-05、05-06シーズンとリーグを連覇し、05-06シーズンのチャンピオンズリーグも2度目の制覇を果たす。

しかし選手の自由を尊重するライカールトの指導に、次第にチームは慢心し始め、06-07シーズンは無冠。07-08シーズンにはロナウジーニョの退団騒動が起きるなど、ライカールトの手腕に疑問を抱くチーム関係者も出てきた。

そして08年5月8日、レアル・マドリードとのエル・クラシコで1-4の惨敗、2季連続で無冠になることも決定したことから、シーズン限りでの監督解任が発表された。そして名門バルサ再びの立て直しは、後任のペップ・グアルディオラに託される。

しかし当時若手だったイニエスタやメッシを積極的に起用するなど、ライカールトがその後のバルサ隆盛期創出に果たした役割は大きい。

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