「 バルサを支えるピボーテ 」 ジョゼップ・グアルディオラ ( スペイン )
中盤の深い位置から、広い視野と素早い判断力を生かしたパスワークで見る者をうならせ、常に攻撃の起点となった。「ドリームチーム」と呼ばれたヨハン・クライフのバルセロナで、チームの軸(ピボーテ)として活躍したのが、ジョゼップ・グアルディオラ( Josep Guardiola i Sara )だ。
ラ・マシア(バルセロナ育成組織)の生え抜きとして10代のうちにクライフに抜擢され、ロマーリオ、ストイチコフ、M・ラウドルップ、R・クーマンらスター軍団をピッチ上で指揮、リーグ優勝や欧州チャンピオンズ・カップ制覇に貢献した。
また地元バルセロナで開催された92年のオリンピックにも、スペイン五輪代表として出場。正確な技術で長短のパスを駆使し、中盤の要としてプレー、金メダル獲得の原動力となった。現役引退後は指導者の道へ進み、当代きっての名監督として実績を重ねているのはご存じの通りである。
ジョゼップこと愛称ペップは、1971年1月18日にバルセロナ郊外のサントペドロに生まれた。13歳でバルセロナの下部組織、ラ・マシアに入団。幼い頃からそのサッカーセンス、テクニックには見るべきものがあったが、フィジカル面の弱さが欠点とされていた。
88年、クライフがバルセロナの監督に就任。クライフはすぐさま下部組織にいたペップの才能を見抜き、右インナーからピボーテ(中盤底)へコンバート、ゲームメイカーとしての素質を開花させた。さらにペップは優秀なトレーナーによる肉体改造を行い、フィジカル面の弱点も克服していく。
90年、19歳のペップはクライフに抜擢され、カディス戦でトップチームデビュー。翌91-92シーズンは早くもレギュラーに定着し、リーグ連覇と悲願だったチャンピオンズ・カップ初制覇の立役者となった。
クライフは「グアルディオラは難しい状況判断を10分の1秒でやってのけ、それを生かす長短の正確なパスも持っている。当初はディフェンスが弱かったが、努力して克服した」と高く評価、さらには「ペレやベッケンバウアーと並び立てる才能」とさえ言わせた。
ペップはDFラインの前方で自在に動き回りながら、最前線にパスを供給してゲームメイク。一瞬の状況判断と技術で、豊富なイメージを正確に表現できるという、プレークオリティの高さを誇った。特に味方の足元にピタリと入るミドルレンジの低弾道パスは、見る者を唸らせた。
92年、地元開催となったバルセロナ・オリンピックにキャプテンとして出場する。G/L初戦はペップの先制点でコロンビアに4-0と快勝。そのあともエジプトとカタールに2-0と安定した強さを見せ、全勝で準々決勝へ進んだ。
準々決勝ではイタリアを0-1と退け、準決勝ではガーナを0-2と撃破。決勝はホーム・カンプノウでポーランドとの戦いになった。前半のロスタイムにポーランドの先制を許すが、後半の65分にペップのFKから同点、72分に勝ち越し弾を決める。しかしその4分後に追いつかれ、2-2のまま後半を終えようとしていた。
だが延長に入るかと思えた後半のロスタイム、キコが土壇場での決勝弾、ファンカルロス国王が観戦する中でスペインは初の金メダルを獲得した。キコはイタリア戦でも貴重な決勝点を決めるなど、大会5得点と活躍したが、それを支えたのはグアルディオラのプレーだった。
オリンピック後の10月14日、Wカップ予選・北アイルランド戦で代表デビュー。94年のWカップ・アメリカ大会のメンバーにも選出、チームはベスト8に進出したが、実力を出し切れなかったペップの出場はG/L2試合に留まってしまった。そのあとは屈強な選手を好むクレメンテ監督の構想から外れ、ユーロ96のメンバーには選ばれなかった。
クライフ率いるバルセロナは、93-94シーズンも制しリーグ4連覇を達成。チャンピオンズリーグの決勝にも進んだ。しかし決勝ではファビオ・カペッロ監督率いるACミランに0-4と完敗、2度目の栄冠はならなかった。
しかし94-95シーズンに「ドリームチーム」を支えた多くの選手が退団。クライフはペップを軸に、若い選手を登用した新しいチームの構築を目指すが、成績は低迷。長年にわたる会長との確執もあり、クライフは96年5月に解任されてしまう。
後任としてボビー・ロブソンが新監督に就任、ペップは不動のピボーテとして新加入のルイス・フィーゴやロナウドにボールを供給し、スペイン国王杯、欧州カップウィナーズ・カップ、欧州スーパーカップ優勝に貢献した。ちなみにこの時期アシスタント・コーチとして付いていたのが、ジョゼ・モウリーニョである。(2000年まで在籍)
97-98シーズンにルイス・ファン ハールが監督に就任。クライフの育てたイヴァン・デ・ラ・ペーニャやジョルディ・クライフ(クライフの実子)といった選手が一掃され、クライファート、コクー、デブール兄弟らが加入、オランダ色の強いチームが作られた。
そして太ももを痛めたペップもこの時期、長期の離脱を余儀なくされ、検査と復帰を繰り返しながらほぼ1シーズンを棒に振ってしまう。そのため中心選手として期待された98年Wカップ・フランス大会は、ピッチではなく病院のベッドで迎えることになった。
それでも同年12月のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で復帰。すると苦戦していたチームも上気流に乗り、フィーゴやリバウドの活躍で前季に続いて98-99シーズンを制す。しかし翌99-00シーズンは膝に深刻な故障を抱えるようになり、シーズンの後半には再び長期の欠場となってしまう。
長期欠場となったペップの代わりに、当時20歳のシャビがピボーテを務めるも、まだまだ力不足の感は否めず、この年のリーグ優勝はデポルティーボにさらわれてしまう。ペップトの確執が噂されたファン ハール監督は2000年に退任。00-01シーズンは4位に終わり、CLもグループリーグ敗退、バルサは2季連続で無冠となった。
ユーロ2000では代表メンバーに選ばれて、29歳のペップは最後となる国際大会のピッチに立った。G/L初戦でノルウェーに0-1と敗れ、2戦目ではスロベニアに2-1と辛勝。トーナメント進出は最終節、ユーゴスラビア戦にかかることになった。
試合はユーゴが常に得点をリードし、スペインが常にそれを追いかけるという展開になった。そして後半の終了時間も近づき、2-3とリードされたスペインは敗色濃厚となった。しかしロスタイムに入ってスペインがPKで同点、さらに直後にはアルフォンソがスペクタクルなボレーシュートを決め、スペインは劇劇的な逆転勝利で決勝Tへ進む。
準々決勝ではWカップチャンピオン、フランスに1-2と惜敗、ペップにとってこの大会が代表での最後の晴れ舞台となった。翌01年11月のメキシコ戦が代表のラストマッチとなり、ついにWカップやユーロの大舞台でその本領を発揮することなく終わってしまった。
01年4月、下部組織時代を含めて17年を過ごしたバルセロナを離れ、憧れのR・バッジオが在籍するセリエAのブレシアに移籍。そのあとASローマでも短期間プレーをするが、故障やドーピング疑惑(のちに無罪判決)などで出場機会を得られず、セリエA挑戦は失敗に終わる。それでもペップのゲームメイクは、共にプレーしたピルロやトッティに少なからぬ影響を与えた。
その後カタールのアル・アハリで2シーズンを過ごし、05年に移籍したメキシコのドナトス・デ・シナロアでのプレーを最後に、06年11月に36歳で現役を引退した。
引退後は指導者の道を進み、07年にバルセロナBの監督に就任。就任1年目でチームを4部リーグ優勝に導き、3部リーグに昇格させる手腕を見せた。08年5月、バルセロナは伝統の一戦、エル・クラシコのレアル・マドリード戦で1-4と完敗。2季連続の無冠も決まり、F・ライカールト監督のシーズン限りの退任が発表された。
後任候補となったグアルディオラだが、経験不足の指摘もあり、チェルシーで成功したモウリーニョ監督が有力候補とされた。だがクラブへの忠誠心や理解、そしてクライフイズムの継承者であるということが評価され、グアルディオラに名門バルサの舵取りが任されることになった。
監督に就任したグアルディオラは、トレーニングに対する姿勢、時間厳守、徹底した食事管理など、選手に対して厳しい規律を敷いた。そしてロナウジーニョ、デコ、エトーら中心選手を構想外とし(エトーは残留)、下部組織出身の選手を積極的に登用する。
09-10シーズンの5月、 優勝争いの天王山となる一戦でレアル・マドリードと対戦。敵地サンチャゴ・ベルナベウでライバルを6-2と破り、1年前に惨敗を喫した借りを返す。そして圧倒的な強さで勝点を重ねたバルサは、3シーズンぶりにリーグを制覇、スペイン国王杯にも優勝する。
さらにチャンピオンズリーグでは準々決勝でバイエルン・ミュンヘン、準決勝でチェルシーを下して決勝へ進出。決勝ではマンチェスター・ユナイテッドのC・ロナウドとW・ルーニーを抑え、エトーとメッシのゴールで2-0の勝利、3年ぶり3度目の栄冠を手にした。
こうしてグアルディオラ監督は就任前にささやかれていた不安を払拭、ファンの求めるスペクタクルなサッカーで、監督1年目でスペインサッカー史上初となる3冠を達成した。そしてその後バルセロナだけではなくバイエルン・ミュンヘンやマンチェスター・シティーでもタイトルを重ね、当代最高の監督としてその名を轟かせている。