長身で「黄金の左足」の異名を持つボールテクニックと鋭いドリブルを武器とし、意外性に溢れたパス&シュートでゲームにファンタジーを生み出した。まさに天才肌の攻撃的MFとして、ペレ、リベリーノ、ジーコと受け継がれたブラジル栄光の10番を背負ったのが、リバウド( Rivaldo Vitor Borbosa Ferreira )だ。
96年のアトランタ五輪では本来の力を発揮するに至らず、98年のWカップは優勝を逃してしまうが、99年のコパ・アメリカでは得点王とMVPを獲得する活躍でチームを優勝に導き、「セレソンの10番」としての力を証明する。また2002年のWカップでは、ブラジル自慢の攻撃陣「3R」の一翼を担い、カナリア軍団に5度目の栄冠をもたらした。
バルセロナでは、馴れない左サイドでのプレーに苦しみながらも、攻撃の中心選手として最初のシーズンでリーグ優勝と国王杯制覇に貢献、チームに不可欠の存在としてその地位を築く。そして98-99シーズンにはクラブと代表での活躍により、バロンドール賞とFIFA世界年間最優秀選手賞の個人タイトルをダブル受賞している。
リバウドは1972年4月19日、ブラジル北東部にある港湾都市レシフェで生まれた。サッカー好きの父親の影響を受けて幼い頃からボールを蹴り始めるが、苦しい家計を補うため、学校や海岸で果物を売って生活費を稼いだという。そんな貧しい少年時代を過ごしたリバウドは、栄養失調から全部の歯が蝕まれてしまう。
14歳の頃から地元クラブで頭角を現わすも、バス代がなく10キロ以上離れた練習場へは徒歩で通った。16歳の時に父親が交通事故死、いよいよ生活は困窮を極めるが、リバウドはプロ選手としての立身を決意、91年に2部リーグのサンタクルスFCと契約を結ぶ。
しかしサンタクルスでは、極端なO脚に苦しみ1年で解雇。リバウドは故郷レシフェを離れ、サンパウロ州内陸部の無名チーム、モジミリンに移って粘り強くチャンスを待った。そしてモジミリンで50mシュートを決めるなど注目され始め、93年にはサンパウロの名門コリンチャンスへの移籍を果たす。
だがコリンチャンスでは目立った活躍を見せないまま、クラブ間の話し合いで22歳となった94シーズン途中にライバルチームのパルメイラスへ移籍。そこからリバウドは、いよいよ天性の才能を開花させることになる。
移籍してすぐブラジル全国選手権決勝の第1戦に出場、2ゴールの活躍でチームを勝利に導く。続く第2戦も引き分けへと持ち込む値千金の同点弾、古巣コリンチャンスを破り、全国選手権2連覇の立役者となった。
当時のパルメイラスは、フラビオ・コンセイソン、ジャウミーニャ、ルイゾン、ミューレル、カフーと強力なタレントを揃えた最強チーム。リバウドはその魅惑的なチームで攻撃の中心となり、94年のサンパウロ州選手権優勝にも貢献。96年には、圧倒的な強さで州選手権を制覇したパルメイラスで23ゴールの活躍、リバウドの名は海外にも知られるようになった。
ブラジル代表には、93年12月のメキシコ戦でデビュー。翌94年のWカップ出場は叶わなかったが、96年のアトランタ五輪ではメンバーの一員に選ばれた。五輪初優勝を狙うブラジルは、W杯優勝監督のザガロを指揮官に据え、ロベカル、ロナウド、サビオ、ジュニーニョ、F・コンセイソン、ジダといった若きスター軍団に、O/A枠のリバウド、アウダイール、ベベトーを加えたドリームチームで大会に臨んだ。
しかしG/Lの日本戦で28本ものシュートを浴びせながら、0-1と思わぬ敗戦を喫して出鼻を挫かれる。それでもブラジルは決勝Tに進むが、準決勝のナイジェリア戦で3-4と敗れ、銅メダル獲得に留まってしまった。準決勝の延長に中盤でボールを奪われ、敗戦のきっかけを作ってしまったリバウドは戦犯と批判され、しばらく代表にも呼ばれなくなってしまう。
それでもパルメイラスでの活躍を認められたリバウドは、96-97シーズンにスペインのディポルティボ・ラコルーニャへ移籍。新天地にもすぐ馴れ、41試合21ゴールの活躍を見せてリーグ3位躍進の原動力となった。だが翌シーズンの開幕直前、同リーグの名門バルセロナへの移籍が突然発表される。
37ゴールを挙げたバルセロナの若きエース、ロナウドがインテル・ミラノへ電撃移籍。得点源を失ったラ・リーガの名門クラブは、その後釜としてラコルーニャを躍進させたリバウドに目を付けたのだ。慌ただしい移籍となったが、開幕戦に登場するといきなり2得点の活躍、たちまち仲間とサポーターの信頼を勝ち取った。
そしてリバウドは1年目から19ゴールを記録するだけではなく、馴れない左サイドでチャンスメーカーの役割も担い、リーグ優勝と国王杯制覇の2冠に貢献した。そしてバルセロナでの活躍がザガロ監督に認められ、98年Wカップ・フランス大会を目前に代表復帰を果たす。
ザガロ監督から10番を与えられたリバウドは、G/L3試合をフル出場。モロッコ戦では1ゴール1アシストと3-0の勝利に貢献する。トーナメント1回戦では、サラス – サモラノの2トップを擁したチリを、会心のゲームメークで4-1と撃破。そして激戦となった準々決勝のデンマーク戦は、決勝弾を含む2ゴールの活躍で、粘る難敵を3-2と退けた。
準決勝は、強敵オランダとの戦い。0-0で折り返した後半開始直後、リバウドのパスからロナウドが大会4ゴール目となる先制弾を決めた。このまま逃げ切るかと思えたブラジルだが、87分、R・デブールのクロスに反応したクライファートが同点ゴール、勝負は延長にもつれ込んだ。
だが延長の120分を終えても決着は付かず、決勝進出はPK戦に託された。ブラジルはリバウドら5人全員が成功、守護神タファレルがオランダの2本を止め、カナリア軍団が2大会ぶりの決勝へ勝ち上がった。決勝では体調を崩したロナウドが強行出場、開催国フランスに0-3と完敗を喫してしまう。
優勝は逃してしまったが、ザガロ監督からの信頼を取り戻したリバウドは全7試合にフル出場、10番としての役目を果たした。
翌99年にはパラグアイで開催されたコパ・アメリカに出場。準決勝ではライバルのアルゼンチンをリバウドとロナウドのアベック弾で2-0と破り、決勝のウルグアイ戦ではリバウドの2ゴールとロナウドのゴールで3-0と快勝、2大会連続優勝を果たした。
リバウドはロナウドと並ぶ5ゴールで得点王を獲得、チームを優勝に導く活躍で大会MVPにも選ばれ、ブラジルの10番として存在感を示した。
クラブでは98-99シーズンにキャリアハイとなる24ゴールを記録、バルセロナのリーグ2連覇に貢献し、代表での活躍と併せてバロンドール賞とFIFA世界年間最優秀選手賞の個人タイトル2冠を獲得する。
またハーフウェイラインからのキーパーの頭上を越す超ロングシュートや、巧みにボールを浮かしてのバイシクルシュートなど、ファンタジー溢れるプレーは世界のファンを魅了した。
クラブのオランダ人監督ルイス・ファン ハールとはサッカー観の違いから確執が続いていたが、無冠に終わった00年にファン ハールは退任。しかし02シーズンにファン ハールの監督復帰が決まると、30歳になるリバウドは迷わずバルセロナ退団を決意、ラブコールを受けたACミランへの移籍を決める。
02年6月、Wカップ・日韓大会に出場。リバウド、ロナウドにロナウジーニョを加えたブラジルの攻撃陣「3R」は注目を集めるが、まとまりを欠いたチームは南米予選で苦戦、優勝は難しいと思われていた。優勝候補として本命視されたのはフランスとアルゼンチンだったが、大会が始まるとこの本命2チームがG/Lで敗退を喫するという大波乱が起きる。
反対に、F・スコラーリ監督のもと結束したブラジルは「3R」が大爆発。初戦のトルコには先制を許しながらも、リバウドのアシストからロナウドが同点ゴール。87分に得たPKをリバウドが決めて2-1と勝利する。続く中国戦はロベカルの強烈なFKで先制し、そのあと「3R」が揃い踏みのゴール、初出場の相手を4-0と圧倒した。
最終節コスタリカ戦は警告1枚のロナウジーニョを温存、ロナウドの2発で早々と優位に立つと、後半にはリバウドも1点を挙げ5-2と余裕の勝利。全勝した3戦で11得点3失点という圧倒的強さを見せ、王国復活を印象づけたブラジルは一挙に優勝の本命へ躍り出た。
決勝T1回戦はベルギーと対戦。スコアレスのまま試合が進んだ後半の67分、ドリブルで切り込んだロナウジーニョが右サイドからクロス、リバウドはジャンピングの胸トラップからボールを浮かすと、振り向きざまの左足シュートを決めた。まさにリバウドならではの芸術的なゴールだった。
このあとロナウドが追加点を挙げて2-0と勝利、ブラジルは準々決勝へ進んだ。準々決勝はベッカム擁するイングランドとの試合。開始23分、DFのミスからオーウェンの先制弾を許すが、前半終了直前、ロナウジーニョの高速ドリブルからリバウドが同点ゴール。その5分後にはロナウジーニョが35mのFKを決め、2-1の逆転勝利を収めた。
準決勝では、再び対戦したトルコをロナウドのゴールで1-0と退け決勝進出。決勝ではドイツの守護神、オリバー・カーンの牙城をロナウドの2発で突き崩し、ブラジルが2大会ぶり5度目の優勝を成し遂げた。リバウドは得点王となったロナウドの8ゴールに続く5ゴールを記録、また数々のアシストで勝利に貢献し「代表で輝けない」という風評を一掃してみせた。
請われてミランに移籍したはずのリバウドだったが、イタリアサッカーに馴染めなかったことで、チームの構想から外れベンチを温める日が続いた。移籍した02-03シーズン、ミランはチャンピオンズリーグ制覇とコッパ・イタリア優勝を達成、翌03-04シーズンはスクデットを獲得するが、控えへと追いやられたリバウドに活躍の場面はなかった。
代表も03年11月のウルグアイ戦を最後に呼ばれなくなり、セレソンでは74試合に出場、35ゴールの記録を残した。そして04年、ミランとの3年契約を打ち切りブラジルのクルゼイロへ移籍。しかしさしたる活躍もなく、4ヶ月後にはギリシャのオリンピアコスに移った。
3年在籍したオリンピアコスでは3度のリーグ優勝を経験。06-07シーズンには17ゴールを挙げ、35歳ながら健在ぶりを見せた。また08年に移籍したウズベキスタンのブニョドコルでは、37歳でリーグ得点王(20ゴール)に輝いている。
10年にブラジルに戻り、いくつかのクラブを渡り歩いた後、43歳となった15年に自らが会長を務める古巣のモジミリンで現役を引退した。現在はバルセロナOBとして、多くのイベントや企画で元気な姿を見せている。