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《 サッカー人物伝 》 ガブリエル・バティストゥータ

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「 フィレンツェの獅子王 」 ガブリエル・バティストゥータ ( アルゼンチン )

破壊力抜群の右足と、多彩なシュートテクニックでゴールを量産、打点の高いヘディングやマークを外す動きも得意とした。強引な突破から、猛々しく長髪をなびかせゴールに迫る勇壮な姿で「レ・レオーネ(獅子王)」と呼ばれたのが、ガブリエル・バティストゥータ( Gabriel Omar Batistuta )だ。

本格的にサッカーへ打ち込んだのが17歳という遅さながら、僅か2年後にはプロデビュー、能力の高さを見せた。22歳でイタリアのフィオレンティーナに移籍し、豪快な「バティゴル(バティ・ゴール)」でたちまちサポーターを魅了、フィレンツェの英雄として市民から絶大な支持を受ける。

アルゼンチン代表でもエースストライカーとして活躍、Wカップでは2大会連続でハットトリックを決めた。98年のフランス大会では初出場の日本と対戦、一瞬のミスを逃さない冷静なゴールで、格の違いを見せつけている。

「おデブちゃん」から「ダンプカー」へ

バティは1969年2月1日、アルゼンチン北部のサンタフェ州レコンキスタで生まれた。父親が養鶏場を経営していたことから毎日鶏肉と卵を食べて育ち、肥満児となったバティは「エル・ゴルド(おデブちゃん)」とからかわれた。

肥満対策でスポーツを始め、バスケットボールに熱中するも、78年に地元で開催されたWカップでのマリオ・ケンペスの活躍に刺激され、サッカーにも興味を抱くことになる。しばらくバスケットと平行してサッカーを楽しむが、17歳となった86年に地元のクラブへ入団、本格的なキャリアを開始する。

技術的にはやっと及第点というレベルだったが、天性の得点感覚は一級品。小さい頃から家業を手伝っていたおかげで頑丈な身体を持ち、爆発的なパワーから「エル・カミオン(ダンプカー)」とのニックネームが付けられた。

87年、ニューウェルズ・オールドボーイズに移籍。そこでバティは下部組織の指導者マルセロ・ビエルサに徹底的に鍛えられ、食生活の改善もあって82㎏の体重はあっという間に75㎏まで落ちた。翌88年にトップチームデビュー、プロ選手としてはまだまだだったが、リベルタドーレス杯で準優勝を経験している。

89年、名門のリーベル・プレートへ移籍。シーズン当初はレギュラーとして起用されるが、途中解任された監督の後任としてやってきたダニエル・パサレラによってベンチに追いやられ、出場の機会を失ってしまう。リーベルはこの年リーグ優勝を果たすが、出番のなかったバティは移籍を直訴。ライバルチーム、ボカ・ジュニアーズとの契約を勝ち取る。

ボカではリーグ戦30試合に出場して、13ゴールを記録。オスカル・タバレス監督によって、サイドアタッカーからセンターフォワードにコンバートされたバティは、ようやくストライカーとして頭角を現わし、91年の後期シーズン優勝に貢献した。

フィオレンティーナでの活躍

その活躍で6月に代表へ呼ばれ、27日の親善試合ブラジル戦でデビュー。さらにその直後チリで開催されたコパ・アメリカのメンバーにも選ばれ、初戦のベネズエラ戦でさっそく2得点を記録。続くチリ戦とパラグアイ戦でもゴールを決め、決勝リーグ進出の立役者となった。

決勝リーグのブラジル戦では決勝点を挙げて3-2の勝利に貢献、コロンビア戦でも貴重な得点で2-1の勝利に寄与した。そして大会6得点の活躍でアルゼンチンを優勝に導き、センセーショナルな国際大会デビューを飾ったバティは、91年の夏にイタリア・フィオレンティーナへの移籍を果たす。

移籍した1年目でさっそくハットトリックを記録、リーグ戦27試合出場13ゴールの活躍でレギュラーの座を確保した。翌92-93シーズンも16ゴールと安定した数字を残すが、ちぐはぐな戦いを続けるチームの成績は低迷、リーグ16位に終わりセリエBへ転落してしまう。

ファンの誰もが「バティはフィレンツェを出て行くだろう」と思っていたが、フィオレンティーナに愛着を抱くバティは残留を選択。翌93-94シーズンは16ゴールを挙げてチームをセリエB優勝に導き、1年でのセリエA復帰に貢献した。このことでバティはフィレンツェのシンボルとなり、市民から敬愛されるようになったのである。

消化不良に終わったアメリカ・ワールドカップ

代表では93年にエクアドルで開催されたコパ・アメリカに出場。決勝のメキシコ戦で2ゴールを挙げて勝利の立役者となり、アルゼンチンは2大会連続の優勝を達成した。そして翌94年、自身初となるWカップ・アメリカ大会への出場を果たす。

G/Lの初戦、初出場のギリシャ相手にバティはハットトリックを記録、4-0の勝利でこれ以上ないスタートを切った。しかしこの試合で注目されたのはバティではなく、復活弾を決めテレビカメラに向かって雄叫びを上げるマラドーナの姿だった。そして第2戦はアフリカの雄・ナイジェリアに2-1と勝利、アルゼンチンは勢いに乗ったかに思えた。

ナイジェリア戦終了後、ドーピング検査を受けたマラドーナの尿から禁止薬物が検出、アルゼンチン協会は直ちに彼をメンバーから外した。この騒動で失速したチームは、最終節のブルガリア戦で必殺の左足を持つストイチコフの前に、0-2と完敗を喫してしまう。

それでもアルゼンチンは決勝Tへ進み、1回戦でルーマニアと対戦。バティはPKで1点を決めるも、ゲオルゲ・ハジの操るカウンター攻撃に2-3と沈められてしまった。初のWカップで4得点を記録したバティだが、その内容は不満足なものだった。

フィレンツェの英雄

セリエAに復帰した94-95シーズン、バティはリーグ開幕戦から11試合連続ゴールの新記録を達成。最終的に26ゴールを決めてリーグ得点王を獲得し、Wカップでの鬱憤を晴らす。翌95-96シーズンは19ゴールでチームをリーグ4位に押し上げ、コッパ・イタリアに優勝してフィレンツェにタイトルをもたらした。

その後もバティはセリエAで得点を重ね、97年2月にはイタリア通算100ゴールを達成。チームで確固たる地位を築き、市民に愛されたバティは「フィレンツェの英雄」と称えられ、本拠地アルテミオ・フランキの前には、ファンによって彼の銅像が建てられたほどだった。

フィオレンティーナでは絶対的な存在となっていたバティだが、代表では94年のWカップ後に就任したパサレラ監督に冷遇されてしまう。フィオレンティーナへ移籍する際も「彼は臆病だ」と否定的な意見を述べたり、代表監督が投票権を持つFIFA世界最優秀選手選択で無視されたりと、もはやパサレラはバティにとって天敵同然の存在だった。

95年のコパ・アメリカでは2大会連続の得点王となるが、Wカップ予選が行われた97年に呼ばれたのは僅か2試合、二人の関係が改善されることはなかった。さらにパサレラは代表選手に長髪禁止令を発し、規律に従わないプレーヤーの締め付けにかかった。

パサレラの指導法に反撥したレドンドやカニーヒアは、自ら代表への招集を拒否。監督との関係に悩むバティの心は揺れた。「レ・レオーネ」の愛称とともにロングヘアーは彼のトレードマークだったが、自分を律する事を知っていたバティは、「目標は代表で歴史を刻むこと、髪型をキープすることではない」と自慢の長髪を切り落とす。

フランス・ワールドカップの戦い

こうして98年の代表メンバーに選ばれ、Wカップ・フランス大会に出場、G/L初戦で日本と対戦した。守備的布陣で試合に臨む日本と、慎重に戦いを進めるアルゼンチン。立ち上がりは静かな展開となったが、28分にシメオネの出したパスが名波の右足に当たり、跳ね返ったボールがバティに渡った。

ここでバティは落ち着いてトラップ、飛び出してきた川口を冷静にかわし、右足で軽く浮かせるシュートで先制点を奪う。そしてこのリードを守り切ったアルゼンチンが1-0と勝利、バティの決定力と強豪チームの老練な試合運びは、世界の舞台に登場した日本の厚い壁となった。

続くジャマイカ戦でバティは3得点を叩き出し、史上初となる2大会連続ハットトリックの記録を作った。最終節のクロアチアも1-0と退け、順調に決勝Tへ進出、1回戦で因縁続くイングランドと戦った。バティのPKとオーウェンのスーパーゴールなどで2-2と折り返した後半の47分、シメオネの挑発に乗ったベッカムが一発退場となる。

数的有利となったアルゼンチンは猛攻を仕掛けるが、必死に踏ん張るイングランドの守備を崩せず、延長120分を終わっても勝負は付かなかった。PK戦ではGKロアが好セーブを連発、ようやくアルゼンチンが波乱の試合を制した。

続く準々決勝オランダ戦も白熱した試合となり、オランダは警告2枚でDFが退場、アルゼンチンも冷静さを失ったオルテガが一発退場となった。そして1-1で迎えた89分、ベルカンプが芸術的なトラップから決勝弾、アルゼンチンは土壇場で試合を落としてしまった。

念願のスクデット獲得

98-99シーズン、フィオレンティーナは序盤から首位を独走、バティも開幕17試合で17ゴールを記録するなど絶好調だった。スクデット獲得も間近に思えたが、優勝争いが佳境を迎えたシーズン終盤、試合中に肉離れを起こしたバティが戦線を離脱、1ヶ月の欠場を余儀なくされてしまう。

しかももう一人のエース、エジムンドが “リオのカーニバル休暇” をとってブラジルに帰国。得点源を失ったフィオレンティーナは失速し、結局リーグ3位に終わってしまった。好調だったのにも関わらず怪我で優勝と得点王を逃してしまったバティには、失意のシーズンとなった。

翌99-00シーズンは、リーグ戦23ゴールを記録。しかし一向に上昇の兆しを見せないチームに、バティは念願のスクデット獲得とチャンピオンズリーグ出場を求め、フィレンツェを離れて強豪ASローマへ移籍する。バティはフィオレンティーナに在籍した9年間で、168のゴールを決めている。

そして移籍した00-01シーズンに20ゴールを記録、ASローマは18季ぶりのリーグ優勝を果たし、バティはチームメイトのトッティや中田英寿らとともに念願のスクデットを手にした。しかし翌01-02シーズンから先発を外れることも多くなりゴールも激減、02-03シーズン途中にインテルへレンタル移籍する。

バティ・ゴールの後遺症

02年6月にはWカップ・日韓大会に33歳で出場。G/L初戦のナイジェリア戦では貴重な決勝ゴールを挙げるが、続くイングランド戦ではベッカム執念のPKで敗戦、最終節のスウェーデン戦で1-1と引き分け、優勝候補だったアルゼンチンは思わぬG/L敗退を喫してしまった。

大会終了後、バティは代表からの引退を表明。代表歴の11年で78試合に出場して、56ゴールの記録を残している。

インテルで半年間プレーした後、13年を過ごしたイタリアを離れてカタールのアル・アラビに移籍。移籍した03-04シーズンには25ゴールを挙げリーグ得点王を獲得、衰えないゴールハンターぶりを見せつける。そして翌04-05シーズンのプレーを最後に、35歳で現役を引退した。

しかし現役引退後、バティは長年酷使した右足首の痛みに悩まされることになる。それは歩行も困難になるほどの激痛で、苦しみに堪えかねたバティが担当医に右足の切断を懇願するほどだった。それでも医者のアドバイスと複数にわたる手術で症状も和らぎ、現在は軽い運動ならこなせる程度に回復したという。

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