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BS1スペシャル「黒澤 明映画はこうして作られた」

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巨匠監督の撮影現場

黒澤 明の映画はどう作られたのか。制作の現場を捉えた貴重な記録映像と、録音テープや台本などの秘蔵資料に加え、出演者や関係者の証言をもとに黒沢監督の映画に迫ったNHK BS1のドキュメンタリー番組『黒沢 明映画はこうして作られた 証言秘蔵資料からよみがえる制作現場』が8日に放送された。

番組では黒澤映画の全盛期である50年の『羅生門』から63年の『天国と地獄』までを前半で、それ以降の作品を番組後半で取り上げ、その制作現場を関係者の証言と秘蔵資料で振り返る。

黒沢組の俳優・仲代達矢、山崎努、井川比佐志に加え、スクリプターの野上照代、カメラマンの木村大作、今は亡き名脚本家・橋本忍、映画監督の山田洋次、晩年期の音楽を担当した池辺晋一郎、映画評論家の佐藤忠男、監督の長男・黒澤久雄といった関係者たちが黒澤映画の現場を語った。

黒澤明のバイタリティ

『羅生門』での太陽光を映し出した斬新な映像や、『七人の侍』での共同作業による脚本の練り上げ、そして『隠し砦の三悪人』での撮影スケジュールを無視してまでのイメージへの拘りは、天皇と謳われた黒澤明ならではのエピソードだ。

番組では『椿三十郎』でのクライマックス、三船敏郎と仲代達矢との一対一による斬り合いのシーンを紹介。長い睨み合いの緊張から、気を発しての抜刀。そして大量の血しぶきとともに、室戸半兵衛(仲代)は絶命する。一瞬で終わる勝負だが、それだけに緩急を鮮やかに使った映画文法が絶妙、何度見ても迫力満点である。

太陽の光、暴風、雨、雪、雲、霧など、自然を駆使してエモーショナルを生み出す映像はダイナミックの一言。山田洋次監督が「松竹の監督はスマートに映画を撮ったが、黒澤監督はのたうち回って作品作りをした」と証言しているように、そのスケール、構図の密度、俳優の演技熱、物語性の豊かさは、日本人離れしたバイタリティと執念から生み出されていると実感した。

それと印象に残ったのが、「私は編集の材料を集積するためにフィルムを沢山使う。編集は私がやる」という言葉。まさに黒澤映画は、1に編集、2に脚本。演出は3番目だ。最近の映画は技術ばかりに走りがちで、脚本や編集に魂が入っていないように感じる。

実は「複数の人数で脚本を練り上げる」と「編集の材料を集積するためフィルムを沢山使う」というのはハリウッド方式なのだが、製作者に編集権あるのが違うところだ。

そのことでハリウッドと行き違いを起こしてしまったのが、黒澤プロと20世紀フォック社との提携による『トラ、トラ、トラ』の企画である。編集権をプロデューサーが持つハリウッドシステムと、編集までを監督の流儀とした黒澤では、長男の黒澤久雄さんが証言しているように、始めから上手くいくはずがなかったのだ。

撮影開始からスケジュールは遅れに遅れ、病気を理由に『トラ、トラ、トラ』の監督を解任。そのあと作った『どですかでん』も興行は失敗となり、発作的に自殺未遂を起こしてしまう。そしてソ連に依頼されて監督した『デルス・ウザーラ』でも、自然の厳しさと共産主義国の官僚システムに苦しめられることになる。

晩年期の作品

番組の後半は1979年放送のNHKスペシャル『黒澤明の世界』で取材した『影武者』での密着映像や、85年公開『乱』の記録映像で構成。多くの未公開映像が使われており、大変興味深いものになっていた。『影武者』の撮影時には70歳、『乱』では75歳となっていた黒澤監督だが、歳を感じさせないエネルギッシュな姿が微笑ましい。

映像の風格、構図の面白さ、動きのダイナミックさは相変わらずだが、画面やストーリーに往年の緊張感や迫力は薄れており、晩年の作品には物足りなさや寂しさを感じずにはいられない。そして90年の『夢』以降は、死の境地に向かう巨匠の個人的作品となっていく。

93年に遺作となった『まあだだよ』を発表。その後、転倒で足を骨折してから車イス生活を送るようになり、98年9月6日に脳卒中により88歳で死去。30本の監督作品を残した。技術は向上しても小粒化した日本映画界では、もはやこれほどの制作現場が再現されることはない。

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