《 サッカー人物伝 》 デニス・ロー

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「デニス・ザ・メナス」 デニス・ロー ( スコットランド )

シャープな動きとアクロバティックなシュートで、記憶に残る多くのゴールを挙げたストライカー。ファイティングスピリットとゴールへの執念、奔放な行動やその容貌で 「金髪の悪魔」の異名を持ち、“デニスの脅威(メナス)” と恐れられたのがデニス・ロー( Denis Law )だ。

細身で小柄ながら「ジャックナイフ」と呼ばれる切れ味鋭いヘディングシューを放ち、その闘争心溢れるプレーでファンからは「キング」と呼ばれた。11シーズンを過ごした過ごしたマンチェスター・ユナイテッドでは2度のリーグ優勝と63年のFAカップ制覇に貢献。ボビー・チャールトンジョージ・ベストとともに、60年代のクラブ黄金期を築いた。

64年には、数々の印象的なゴールが評価されてバロンドール賞を受賞。これは現在でもスコットランド人唯一の受賞歴となっている。スコットランド代表では55試合に出場して30ゴールを記録(同国最多得点タイ)、74年のワールドカップにも出場した。

貧弱メガネの少年

デニスは1940年2月24日、スコットランド北東部にあるアバディーンの漁師の家で、7人兄弟の末っ子(兄3人、姉3人)として生まれた。12歳になるまで靴を履けなかったほどデニスの家庭は貧しかったが、小さい頃からサッカー選手に憧れ、地元クラブチームを熱心に応援した。

生まれつきの斜視というハンディを抱えてサッカーをしていたデニス、中学校でフルバックからレフトインナー(中盤左)のポジションに移るとたちまち頭角を現わし、スコットランド学生代表選手に選ばれるまでになる。

やがてその活躍がスカウトの目に止まり、14歳でハダースフィールドのトライアルを受ける事になった。だが、トライアル会場に現れたデニスを目にしたハダースフィールドの監督は、「なんだこの少年は、貧弱で眼鏡をかけているサッカー選手なんて見たことがない。可能性はないな」と突き放した。

それでもデニスは見事トライアルに合格、55年に15歳でクラブと契約を結んだ。そして契約後に斜視を矯正する手術を受け、いよいよプロとしてのキャリアを出発させたのである。翌56年、ハダースフィールドは成績不振で2部リーグに降格。しかしこの降格が、若いデニスへ出場機会を与えることになった。

同年の12月4日、16歳のデニスはノッツ・カウンティFC戦でプロデビュー、2-1の勝利に貢献した。18歳となった58-59シーズンにはレギュラーに定着、58年の10月にはスコットランド代表に招集され、10月のウェールズ戦で代表デビューを果たしている。

イタリアでのトラブル

その将来性は明らかで、デニスを代表に招集したマンチェスター・ユナイテッドのマット・バスビー監督(58年には代表とクラブの監督を兼任)が彼の獲得を申し入れるほどだった。また57年からハダースフィールドの監督を務めていたビル・シャンクリー監督が59年にリバプールへ移る際、デニスを連れて行く事を希望したという。

こうして、英国きっての有望若手選手となったデニスには各クラブで争奪戦が繰り広げられ、59-60のシーズン途中に高額の移籍金55,000ポンドでマンチェスター・シティーと契約。60-61シーズンにはリーグ戦で19ゴールを記録し、その実力を証明した。

シティーで一段と評価を高めたデニスは、61年に当時最高金額となる110,000ポンドでイタリアのトリノに引き抜かれる。しかし当時イタリアに広まり始めたカテナチオの守備的戦術に馴染めず、リーグ戦27試合に出場して10ゴールに留まってしまった。

62年2月にはチームメイトのジョー・ベイカー(スコットランド出身)が運転する車に同乗し、大クラッシュの事故に巻き込まれる。ベイカーは瀕死の重傷、デニス自身は大事に至らなかったものの、すっかりイタリアに嫌気がさしてクラブへ移籍を願い出ることになる。

しかしその要求はクラブに無視され、デニスは不満を抱えたままトリノでプレーを続ける。しかしシーズン終盤のナポリ戦、不満が爆発したデニスは勝手なプレーを行い退場処分。そのことがクラブの不興を買い、数日後にはユベントスへ売却されてしまう。

しかしデニスはこの移籍通告を拒否、故郷のアバディーンに戻って徹底抗戦に出る。こうしたゴタゴタを経て、最期にはマンチェスター・ユナイテッドが移籍金115,000ポンドでデニスを買い取ることで、騒動は解決を見た。

バロンドール賞の栄誉

移籍したユナイテッドでの最初の試合は、62年8月のウェスト・ブロムウィッチ戦。デニスは開始7分間で得点を決めるという好調なスタートを切り、62-63シーズンはリーグ戦38試合に出場して23ゴールの好成績を残した。

しかし当時のユナイテッドは再建途上のチーム。デニスの活躍にも関わらずチームは12勝20敗10分けと低迷、降格は逃れたもののリーグ19位に沈んでしまう。ユナイテッドは「ミュンヘンの悲劇」と呼ばれる58年の飛行機事故でダンカン・エドワーズら多くの主力を失い、バスビー監督も重傷を負ってチームは壊滅状態になってしまったのだ。

しかし翌年復帰したバスビー監督は、生き残ったボビー・チャールトンを中心としたチームの再建に着手。しばらく低迷期は続いたが、ここにきてようやく陣容も整い、チームには光明が見え始めていた。

63年のFAカップ、デニスは古巣ハダースフィールドとの対戦でハットトリックを記録。そこからチームは快進撃を続け、決勝戦へ進出した。決勝ではレスター・シティーと対戦、この試合で先制点を挙げたデニスは3-1の勝利に貢献。ユナイテッドは15年ぶり3回目となるFAカップ制覇を果たし、ついに復活の狼煙を上げた。

翌63-64シーズン、デニスはリーグ戦30試合30得点とゴールを量産。すべての公式戦で46ゴールという驚異的な記録(マンU、シーズン最多得点記録)を残し、スコットランド人としては初めて、そして現在でも唯一となるバロンドール賞を受賞する。

またこの年、スコットランド代表ではウェンブリー・スタジアムでイングランド代表と対戦、殊勲の得点を挙げてFA(英国サッカー協会)の盟主に2-1と勝利した。3年前に行われた試合にはイングランドに3-9で敗れており、デニスはのちにこの勝利を「キャリア最大の名誉」と語っている。

だがこういった華やかな活躍の一方、激しく時には荒々しくも見えるデニスのプレーは審判に目を付けられることになり、あるシーズンには2ヶ月に及ぶ長期の出場停止処分を受けることもあった。

マンチェスター・ユナイテッドの悲願

64-65シーズン、当時18歳のジョージ・ベストが主力に成長。デニスも38試合28ゴールの活躍を見せ、キャプテンのB・チャールトンとともにユナイテッド8シーズンぶりとなるリーグ優勝に貢献した。だが65年の10月に代表のポーランド戦で右膝を負傷、この故障はのちのちデニスを悩ますことになる。

65-66シーズンは怪我の影響で15ゴールに終わるが、闘志溢れるプレーとアクロバティックなシュートで、W杯優勝キャプテンのB・チャールトンを凌ぐ人気を得ていたロー。そこで次の契約更新での昇給をバスビー監督に要求。それが認められなかった場合クラブを辞めると脅した。

この要求は首脳陣を怒らせ、バスビー監督はすぐにデニスを移籍リストに載せて「このクラブには身代金のようなものを要求する選手はいないし、いらない」と宣言。結局デニスは書面による謝罪を出すことになり、それはすぐに報道機関に伝えられた。たが後年デニスは「この謝罪は、他の選手が同じ事をしないための警告に使われた」と主張。クラブからは密かに昇給が行われたと告白している。

そんなこともありながら、66-67シーズンは23ゴールと復調。ユナイテッドも2シーズンぶりのリーグ優勝を果たし、デニスはクラブで3つめとなるタイトルを手にした。しかし67-68シーズンは膝の状態が悪化し、奪ったゴールも7つに激減してしまう。

68年5月、ユナイテッドはチャンピオンズ・カップの決勝に進出。デニスに代わってエースとなったJ・ベストの活躍でベンフィカを4-1と破り、悲願の欧州初制覇を果たす。デニスは膝の手術を受けて入院していたため、準決勝・決勝のピッチに立てなかったが、バスビー監督が後日ビッグイヤー(優勝杯)を持って彼の病室を訪れたという。

ユナイテッドからの別れ

68-69シーズン、怪我から復帰したデニスはリーグ戦15ゴールを記録。連覇を目指したチャンピオンズ・カップでは、優勝したACミランに準決勝で敗れてしまったが、デニスは1回戦のウォーターフォード・ユナイテッド戦で7ゴール(2戦合計)を記録するなど、計9ゴールで大会得点王となった。

しかし69年にバスビー監督が勇退したあと、チーム成績は下降線を辿っていく。デニスも膝の故障に悩みながらプレーを続けていたが、73年にユナイテッドを退団することになった。ユナイテッドで過ごした11シーズンで公式戦404試合に出場、237ゴールを記録した。これはウェイン・ルーニー、B・チャールトンに次ぐクラブ3位の記録である。

73-74シーズン、マンチェスター・シティに復帰。すでに34歳という大ベテランになっていたデニスだが、公式戦29試合に出場して27試合にフル出場、12ゴールの記録を残して往年の力を見せた。

そしてシーズン最後の試合で、降格の瀬戸際にあったユナイテッドと対戦する。接戦となった試合は、81分にデニスのバックヒール・シュートが決まってシティが1-0の勝利。他会場の結果によりすでにユナイテッドの2部降格が決まっていたが、決勝点を決めたデニスはのちに「あのゲームほど落ち込んだ試合はなかった」と語っている。

銅像となった「黄金のトリオ」

74年6月、スコットランドは16年ぶりとなるWカップに出場。ベテランのデニスも西ドイツ大会のメンバーに選ばれた。そして1次リーグのザイール戦に出場、スコットランドは2-0と初戦を飾った。

しかし続くブラジル戦とユーゴスラビア戦(どちらも引き分け)に彼の出番はなく、スコットランドが1次リーグ敗退を喫したため、デニスのWカップ出場は1試合に留まった。そして大会終了後の8月、現役からの引退を正式に表明、19年間のプロ生活を終える。

引退後はラジオやテレビの解説者として活躍。02年には「黄金のトリオ」と呼ばれたB・チャールトン、J・ベストらとともに、英国サッカー殿堂の初代入会者に選ばれている。さらにユナイテッドのホームスタジアム、オールド・トラッフォードには、この3人の像が建てられることになった。

親友のJ・ベストは、デニス・ローを「歴史に名を残す選手の一人だ。人間としても、選手としても、尊敬できる」と敬愛。そのベストが05年の11月に肺感染症と多臓器不全で亡くなったとき、デニスはベッドサイドで彼の最期を看取ったという。

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