《 サッカー人物伝 》 グジェゴシ・ラトー

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「快速の得点王」 グジェゴシ・ラトー ( ポーランド )

100mを11秒台で駆け抜ける快速で敵陣に切り込み、卓越した得点感覚でゴールを量産した。右サイドから一直線にニアポストへ迫るそのスピードで、70~80年代に世界で輝きを見せたポーランド攻撃の急先鋒となったのが、グジェゴシ・ラトー( Grzegorz Boleslaw Lato )だ。

21歳でポーランド代表に選ばれ、まだレギュラーではなかったものの、72年のミュンヘン・オリンピック優勝を経験した。74年の西ドイツ・Wカップでは強力3トップの一翼を担い、7ゴールを挙げて得点王を獲得。負傷欠場した英雄ルバンスキの穴を埋め、ポーランドの3位入賞に大きな役割を果たした。

その後も代表の主力としてプレー。76年のモントリオール・オリンピック銀メダル、82年のスペイン・Wカップ3位入賞に貢献する。クラブチームではシュタル・ミエレツで長くプレー、当時国内2強クラブの影に隠れていたチームを、得点王の活躍で初優勝に導いた。

ラトーは1950年4月8日、ポーランド北部の町マルボルクで生まれた。子供時代に父親、思春期に母親を亡くし、自身も交通事故で瀕死の重傷を負うという、苦難の少年時代を過ごしたたラトーだが、12歳でシュタル・ミエレツのジュニアチームに入団。69年に19歳でトップチームデビューを果たす。

シュタル・ミエレツは70年に2部リーグから1部リーグへ昇格。ラトーはまだレギュラーではなかったものの、ある試合で2ゴールの活躍を見せ、それが認められてユース代表に招集される。その時ユース代表を率いていたカジミエシュ・ゴルスキが71年にA代表の監督へ就任、ラトーも21歳でフル代表に呼ばれることになった。

71年11月17日の欧州選手権予選・西ドイツ戦で代表デビュー。欧州選手権は予選敗退を喫して出場を逃すも、8月に開催されたミュンヘン・オリンピックのメンバーに選ばれ、初の大舞台に立つことになる。

それまで国際舞台ではこれといった実績のなかったポーランドだが、大黒柱のヴォジミエシュ・ルバンスキ、シャドーストライカーのカジミエシュ・ディナ、技巧派ウィンガーのロベルト・ガドーハなど力のある攻撃陣を揃え、虎視眈々とメダル獲得を狙っていた。

エースのルバンスキはポーランド史上最年少の16歳で代表デビュー。スピード、テクニック、インテリジェンスを備え、自らチャンスを作り得点もするマルチなストライカーぶりを発揮する。20代前半で国内リーグ4季連続得点王を達成、名門グールニク・サブジェ5連覇の原動力になるなど、ポーランドを代表する選手だった。

69-70シーズンには欧州カップウィナーズ・カップに出場。決勝でマンチェスター・シティーに敗れ準優勝に終わったが、8試合8得点と大活躍したルバンスキは一躍国外にも知られる存在となった。そんなルバンスキには名門レアル・マドリードからもオファーが届くが、当時の国内事情により国外に出てプレーすることはなかった。

オリンピックの1次リーグではコロンビアとガーナを大差で下し、2勝で並んだ東ドイツとの直接対決を2-1で制して1位通過を果たした。2次リーグのデンマーク戦では、ラトーが後半に出場を果たすも1-1の引き分け。続く第2戦はブロヒンのゴールでソ連に先制されるが、終盤ディナのPKなどで試合をひっくり返し、モロッコにも大勝してついに決勝へ進んだ。

決勝の相手はオリンピック2連覇中の強豪ハンガリー。劣勢とみられたポーランドだが、試合が始まるとたちまちハンガリーを圧倒した。主将のルバンスキを中心に、多彩でスピード豊かな攻撃を展開、何度も相手ゴールを脅かす。

一瞬のミスを突かれて42分に先制を許すが、後半の47分にディナが2人をかわして左足で同点弾。69分にも左からのクロスにルバンスキが競り、こぼれ球をディナが決めて逆転した。このままポーランドが2-1と勝利し、サッカー競技初の金メダルを獲得した。

決勝で殊勲の得点を挙げたディナが計9ゴールで得点王。2得点ながらゲームメイカーに徹して攻撃を操り、金メダル獲得の立役者となったルバンスキも英雄と称えられた。ラトーの出番は途中出場の1試合に留まったが、初の国際大会でビッグタイトルを手にすることになった。

72-73シーズン、23歳のラトーは13ゴールを挙げリーグ得点王を獲得、ミエレツの初優勝に貢献した。しかし代表では攻撃陣の層の厚さに阻まれ、レギュラーの座を獲得することが出来なかった。73年、ワールドカップ西ドイツ大会の大陸予選が開始、ポーランドの入った欧州5組では強豪イングランドの1位が有力視された。

そのイングランドをホームに迎えた6月6日の第1戦、ルバンスキのアシストでポーランドが先制。さらにルバンスキが追加点を挙げ2-0と勝利する。敵地ウェンブリーでの第2戦は、手堅く守って1-1の引き分け。結果ポーランドが1位となり、36年ぶり2度目の本大会出場を決めた。

Wカップ本大会では、有力な優勝候補になるとみられていたイングランドの予選敗退。ポーランドの快挙は世界を驚かせた。しかしエースのルバンスキは、活躍したホームの第1戦でタックルを受け十字靱帯損傷の重傷、Wカップ出場は絶望視された。

74年、ラトーはWカップの代表メンバーに選ばれ、6月に開催し西ドイツ大会に出場する。1次リーグの初戦は南米の雄アルゼンチンとの対戦。欠場したルバンスキの代わりに、ディナが主将とゲームメイカーの役割を担うことになった。右ウィングのラトーは、左ウィングのガドーハ、新戦力シャルマッフとともに3トップを形成、古豪との試合に臨む。

アルゼンチンの新星、マリオ・ケンペスが絶好のチャンスを逃した直後の7分、ポーランドのコーナーキックをGKカルネバリがファンブル、そのこぼれ球をラトーが押し込み先制ゴールを決めた。その1分後、疾風のようにバックパスを奪ったラトーがシャルマッフへスルーパス、早くも追加点が生まれた。

その後アルゼンチンに1点を許すが、62分にカルネバリの投げた緩慢なフィードを、再びラトーが俊足でかすめ取り3点目を決めた。直後にまた1点返されるも、ラトーのスピードとガドーハの技巧的なドリブルはテンポの遅いアルゼンチンを翻弄、3-2の勝利で初戦を飾った。

次のハイチ戦もラトーが先制弾、直後にディナの追加点が生まれると、その後シャルマッフのハットトリックなどで得点を重ねた。87分にはラトーが仕上げのゴール、格下ハイチを7-0と粉砕した。

最終節は強豪イタリアとの対戦。右ウィングのラトーはライン際から中央へ流れ、マーカーのファケッティをゴール前に縛りつける。その空いた右サイドのスペースへ、中盤でタクトを振るディナが狙い澄ましたロングパス。そこに飛び込んだカスペルチャクの折り返しを、シャルマッフが頭で合わせて先制点を決めた。

さらに前半終了直前の45分、カスペルチャクのパスを受けたディナが20mのダイレクトシュート、堅守を誇るイタリアから2点のリードを奪った。終盤の86分にカペッロのゴールを許すも、残り時間を逃げ切り2-1と勝利、欧州の強国を1次リーグ敗退に追い込んだ。

3戦全勝で勝ち上がった2次リーグは、初戦をラトーのヘディングゴールでスウェーデンを1-0と下し、第2戦はユーゴスラビアに苦戦するも、ガドーハのCKをラトーが頭で合わせて決勝点、2-1の勝利を収めた。

決勝進出を懸けた第3戦は、地元西ドイツとの大一番。しかし豪雨でぬかるんだピッチはポーランドのスピードを殺し、体力に勝る西ドイツが有利に試合を進めた。それでもラトーやガドーハが少ないチャンスで決定的なシュートを放つが、ゼップ・マイヤーの好守に阻まれてしまう。

終盤に入った76分、ゴール前のもつれ合いからこぼれた球を、ゲルト・ミュラーが水たまりをモノともせずにシュート、西ドイツに先制点が生まれた。このあとのポーランドの追撃及ばす0-1の敗戦、決勝進出はならなかった。

この3日後の3位決定戦では、前大会チャンピオンのブラジルと対戦。0-0で進んだ後半の76分、カスペルチャクの縦パスにラトーが素早く反応、右サイドから一気に切れ込み、GKエメルソン・レオン(のち清水エスパルス、ヴェルディ川崎などで監督を歴任)の守りを破って決勝点を決めた。

貴重な場面で7ゴールを重ねたラトーは大会得点王に輝き、2度目の出場で3位入賞の快挙を果たしたポーランドの功労者となった。ポーランドが叩き出した総得点16は、「トータルフットボール」で大会に旋風を起こした準優勝国、オランダを上回る(15点)ものだった。

74-75シーズン、19ゴールを挙げて2度目のリーグ得点王に輝く。翌75-76シーズンも安定した活躍を見せ、ミエレツ3季ぶりのリーグ優勝、ポーランドカップ準優勝、UEFAカップ準決勝進出と、好成績を残したクラブの中心を担った。

76年7月、モントリオール・オリンピックに出場。優勝候補と目されたポーランドだが、予選リーグで格下キューバと0-0の引き分け、イランには3-2で辛勝するなど、予想外の苦戦となった。それでもトーナメントの準々決勝では北朝鮮を5-0と一蹴、準決勝では個人技頼りのブラジルをシャルマッフの2得点で退け、2大会連続の決勝に進んだ。

決勝の相手は初優勝を狙う東ドイツ。力に勝ると思われたポーランドだが、立ち上がりから猛攻を仕掛ける東ドイツの気迫に押されて7分に失点、14分にも追加点を決められた。反撃を試みるポーランドはラトーが縦横無尽に走って攻撃を牽引、しかし司令塔のディナが厳しいマークに封じられてしまう。

59分、ラトーのヘディングシュートが生まれポーランドが1点差に追いつく。しかし相棒のシャルマッフが精彩を欠き、ラトーは孤軍奮闘。84分には東ドイツの3点目を許してしまい、万事休すとなってしまった。試合は1-3で終了、ポーランドは連覇を逃したものの、2大会連続でメダルを獲得した。

78年、Wカップ・アルゼンチン大会に出場。長らく膝の怪我に苦しんでいた英雄ルバンスキも、欧州予選で代表復帰を果たしていた。開幕戦となった初戦では西ドイツと0-0の引き分け、第2戦ではラトーのゴールで新勢力のチュニジアに1-0と辛勝した。

1次リーグの最終節は、新星ボニエクの2得点とディナのゴールでメキシコに3-1と勝利。西ドイツを上回るグループ1位で、ポーランドは2次リーグに進んだ。最初の2試合に先発したルバンスキだが、本調子というにはほど遠く、メキシコ戦でついに先発の座をボニエクへ明け渡してしまうことになる。

2次リーグの初戦は、地元アルゼンチンのエース、ケンペスの2発に沈められて0-2の敗戦。次のペルー戦はシャルマッフのゴールで1-0と勝利し、最終節ブラジル戦に決勝進出の望みを繋いだ。最終節の試合はネリーニョのFKでブラジルが先制、前半終了直前にラトーのゴールでポーランドが追いつく。

しかし後半にブラジルのディナミッチが2得点、ポーランドが流れを取り戻せないまま試合は1-2で終了し、念願の決勝進出は果たせなかった。

この後ルバンスキは80年に行われた親善試合、チェコスロバキア戦を最期に代表から退いた。73年の怪我以降はほとんど活躍は出来なかったが、代表48ゴールは当時のポーランド最多得点記録だった。


80年、国外でのプレーが許されたラトーは、ベルギーのスポルティング・ロケレンに移籍。10シーズンを過ごしたポーランド1部リーグでは272試合に出場し、111ゴールの記録を残した。

82年、3度目のWカップとなるスペイン大会に出場。32歳となり往年のスピードは衰えたラトーだが、代わって攻撃の中心となったボニエクとスモラレクを、ベテランとしてサポートした。1次リーグのイタリア戦とカメルーン戦はともに0-0で引き分け。第3戦はラトーも得点を決めてペルーに5-1と大勝し、イタリアをかわしてグループ1位で2次リーグに進んだ。

3チームで戦う2次リーグの初戦は、ボニエクのハットトリックでベルギーを3-0と撃破、先制点と3点目はラトーのアシストから生まれた。第2戦はソ連と0-0の引き分け、ポーランドはグループ1位となり2大会ぶりの準決勝へ進む。

しかしイタリアとの準決勝ではパオロ・ロッシの活躍の前に0-2と完敗、またも決勝にたどり着くことは出来なかった。2日後に行われた3位決定戦では、若手主体のフランスを3-2と下し、74年大会に続いての3位入賞を果たした。ベテランのラトーは1得点ながら7試合にフル出場、その業績に大きな足跡を残した。

Wカップ終了後、メキシコのアトランテFCに移籍。そこで2シーズンプレーした後、84年に34歳で現役を引退した。ポーランド代表では100試合出場で45ゴールを記録。これは現在でもロベルト・レバンドフスキとルバンスキに続く歴代3位の得点記録である。

その後アマチュアクラブでプレーしたあと、クラブ監督を歴任。2000年代には政治家に転身し、08年から12年までポーランドサッカー協会の会長を務めた。

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