彷徨う俳優 ピーター・フィンチ

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常識に挑戦し続けた人生

ジョン・シュレンジャー監督の『日曜日は別れの時』や、シドニー・ルメット監督の『ネットワーク』などの作品で強い印象を残したイギリス出身の俳優、ピーター・フィンチ。

誰もが知るようなメジャー俳優ではないが、『日曜日は別れの時』で中年の同性愛者を演じて話題を集め、『ネットワーク』では妄想に取り憑かれたニュースキャスターを熱演、米アカデミー賞の主演男優賞に選ばれた。まさにそのファナティック(狂信的)さがインパクトを残す個性的な役者である。

しかも役柄だけではなく、彼の生き方そのものエキセントリック。自己のアイデンティティーを求め彷徨いながら、世の中の常識に挑戦し続けた人生だった。

自堕落な生活

ピーター・フィンチは1916年ロンドン生まれ。イギリス軍人の父ジョージ・イングル・フィンチ大尉と、母アリシア・グラディス・フィッシャーとの間に生まれたとされたが、その出生は非常に曖昧とされる。

ピーターが生まれた頃、母アリシアは夫と同じ軍人のジャック・キャンベルと深い関係にあり、その事実を知ったジョージは息子を連れて妻のもとを去った。そしてピーターはパリにいたジョージの母親に預けられ、彼女が死ぬと親戚の間をたらい廻しされることになった。

子供の頃から孤独な境遇に苦しんできたピーターは、青年になるとロンドンにいたジョージ・フィンチのもとを訪ねて「あなたは私の本当の父親か?」と聞いた。しかし当時すでに軍人生活を引退し、余生を過ごしていたジョージは「君は私の息子ではない」と気の毒そうに答えるだけだった。

フィンチ家の親戚が住むオーストラリアで育ったピーターは高校を卒業すると、新聞社のボーイ、ウェイター、タクシー運転手と様々な職業につき、やがて俳優を志してシドニーの小さな劇団を渡り歩く。金が入ると歓楽街で娼婦を買うなど、自堕落な生活を送っていたピーター。ようやく俳優として身を立てだした頃、シェイラ・スマートという名家の娘と知り合った。

シェイラは、ささくれだった生活を続けるピーターに母性的な愛情を抱いたのか、生活費を援助するだけではなく、自宅に連れ帰って風呂に入れ、汚れた身体を洗ってやったりもした。二人は1940年に婚約、シェイラの両親は当然の如く猛反対したが、娘の熱意に折れてついに二人の結婚を認めた。

しかしその婚約発表の当日、パーティーの仕度がすべて整っていたにもかかわらず、シェイラに何も告げずピーターは行方をくらました。後日、シドニーの歓楽街で娼婦と暮らしているピーターの姿が発見される。彼はまともな結婚生活が送れるような男ではなかったのだ。

のちに3度結婚するピーター・フィンチだが、夫や父親の責任を果たすことが苦手で、妻や娘の誕生日さえ覚えようともしなかった。2番目の妻ヨランダと結婚した直後、「寂しいから」という理由で別れた前妻タマラのベッドに行ったこともあった。

果てない心の放浪

しばらく役者としてくすぶっていたが、ローレンス・オリヴィエにその才能を見いだされ、フィンチは舞台役者として活躍するようになった。1940年代後半からは映画に重心を移し、50年にハリウッドデビューを果たす。

しかしその女性遍歴は派手で、映画で共演した美人女優ケイ・ケンドールや歌手のシャ-リー・バッシー(映画『007 ゴールドフィンガー』の主題歌などで有名)、ローレンス・オリヴィエの妻である大女優ヴィヴィアン・リーといった女性たちと次々に浮き名を流し、子供時代に味わった愛情の欠如を埋めようとした。

だが「私はノマド(漂流者)だ」と自称する彼と、女性たちの関係が長く続くことはなく、アボリジニの原住民生活に憧れてオーストラリアの原野を旅したり、『尼僧物語』(59年)のコンゴロケで現地の人々と親しくなったり、ジャマイカ・カリブ海の島に居を構えたりと、果てない心の放浪を続けた。

1971年、イギリス映画の『日曜日は別れの時』に出演。『真夜中のカーボーイ』(69年)で成功したジョン・シュレンジャー監督が、自らゲイであることを公言したあと、ホモセクシャルの中年医師とバイセクシャルの若い男、そして若い女性との奇妙な三角関係を描いたこの作品に取りかかり、フィンチを中年医師役に抜擢したのだ。

当時は真正面から同性愛を描くことがタブー視されていた時代。多くの俳優が尻込みする中、フィンチは「こういう役を演じられるとは役者冥利に尽きる」と、臆せずホモセクシャルの役を引き受けたのだ。もちろんフィンチ自身は過去の遍歴でも明らかなように、正真正銘の女好きだった。

フィンチは監督の期待に応え、若い愛人役のマレー・ヘッドと男同士のベッドシーンを演じたばかりか、堂々とキスシーンまで見せつけた。このシーンは映画界の事件として扱われ、ピーター・フィンチの名前は広く世間に知られるようになったのである。

フィンチの代表作

73年には、ジャマイカで知り合ったエレザという女性と3度目の結婚をする。この時フィンチは57歳でエレザは30歳。27歳という年の差もさることながら、この結婚が世間を騒がせたのは、新妻がジャマイカのネイティブ、すなわち黒人女性だったという事実が白人社会にショックを与えたからだ。

このことでフィンチから離れていった友人も多く、代理人は「映画の仕事が来なくなる」と二人の結婚を強固に反対した。しかしフィンチは「今は奴隷制の時代ではない。彼女は私に初めて心の安らぎを与えてくれた女性だ」と押し切り、エレザと結婚した。結婚式には親友のバート・ランカスターやフランコ・ネロが参列したという。

76年、シドニー・ルメット監督の『ネットワーク』に出演。この作品は、視聴率競争にしのぎを削るアメリカテレビ業界の闇を鋭く描いた物語。過当競争で精神異常をきたし、自分の番組の中で過激な発言を繰り返して人気を博したあと、最期はカメラの前で殺されてしまうアンカーマン役をフィンチは演じた。

ルメット監督は始めこの役に、異色俳優のジョージ・C・スコットを考えていたが、さすがのスコットも「ファナテックすぎる」と降りてしまった。そのあともグレン・フォードやヘンリー・フォンダに断られ、何番目かにフィンチの名前が挙がったのである。

送られた脚本を一読したフィンチは「この役は自分の代表作になる」と直感し、すぐさま出演を快諾した。そして『ネットワーク』は大きな話題を呼んで大成功、狂信的な老アンカーマンを演じきったフィンチも高い評価を得た。

主役のいない晴れ舞台

翌77年4月にはアカデミー賞の授賞式が行われ、『タクシードライバー』のロバート・デ・ニーロや『ロッキー』のシルベスター・スタローンが主演男優賞候補に挙がる中、プレゼンターのリブ・ウルマンが受賞者として読み上げたのは、ピーター・フィンチの名前だった。

しかしその授賞式会場に、名前を呼ばれた彼の姿はなかった。授賞式3ヶ月前の1月14日、フィンチは映画のプロモートのためルメット監督と待ち合わせたホテルのロビーで、心臓発作を起こして60歳で急死していたのだ。

亡くなったフィンチの代わりに、妻のエレザが壇上に登ってオスカー像を受け取る。“黒い女性” の出現に会場は一瞬静まったが、すぐに事情を知ったゲストたちは大きな拍手で彼女を迎えた。

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