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《 サッカー人物伝 》 パウル・ブライトナー

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「 異端の反逆児 」 パウル・ブライトナー ( 西ドイツ )

積極果敢なオーバーラップと思いっきりのいいシュートを武器に、攻撃的な左サイドバックとして活躍した西ドイツの選手。その頭を覆い尽くすアフロヘアーと、びっしり生えそろったアゴ髭の風体は、もはやフットボーラーというより中南米の革命家。それが、パウル・ブライトナー( Paul Breitner )だ。

バイエルン・ミュンヘンでは、ベッケンバウアーゲルト・ミュラーらとともにチームの黄金時代を築き、ブンデスリーガ3連覇と欧州チャンピオンズ・カップ優勝に貢献。その後レアル・マドリードに移るとゲームメイカーの役割を担った。そして74年のWカップでは決勝戦で貴重なPKを沈めるなど、地元西ドイツの優勝に大きく寄与している。

その活躍の一方で、「毛沢東語録」を愛読し、革命家チェ・ゲバラに傾倒する左翼主義者として知られ、異端の反逆児と周囲との軋轢は絶えなかった。DFB(ドイツサッカー協会)とも対立してしばらく代表を離れるが、復帰した82年のWカップでは中盤の軸として活躍した。

カウンターカルチャーの申し子

ブライトナーは1951年9月5日、バイエルン州の小さな町コルバーモールで生まれた。6歳で地元クラブのジュニアチームに入団、10歳で父が運営責任者を務めていたESVフライラッシングに籍を移し、68年にはユース代表に選ばれ、ここで盟友となるウリ・へーネス(現バイエルン・ミュンヘン名誉会長)と知り合った。

ユース代表のデビュー戦で唯一の得点を挙げた(対ユーゴスラビア、1-4)ブライトナーだが、彼に与えられたのは賞賛ではなく、DFBからの「髪を切れ」という指示だった。しかしブライトナーはその命令に従わず、長く伸びた天然のアフロスタイルを変えることはなかった。

ベトナム反戦など体制に異を唱える60年代後半のカウンターカルチャーに影響されたブライトナーは、16歳のとき毛沢東思想やチェ・ゲバラの革命運動に興味を持ち、社会に反抗する若者となっていた。「俺は疑問を持つように教育されたんだ」とうそぶく彼の態度は、サッカー界に物議を醸し出す。

黄金期バイエルンの問題児

ユース代表でブライトナーを指導したウド・ラテックが、69年にバイエルン・ミュンヘンの監督に就任。ブライトナーはラテック監督に引き抜かれ、へーネスとともにバイエルンへ移った。70年、19歳でトップチームデビュー。豊富なスタミナと闘争心溢れるプレーで、たちまち左サイドバックのレギュラーに定着する。

そしてデビューの1年目でDFBポカール(ドイツ・カップ)優勝を経験、翌71-72シーズンは若手の期待株としてブンデスリーガ優勝に貢献する。ここからバイエルンはブンデスリーガ3連覇を達成、73-74シーズンはUEFAチャンピオンズ・カップの決勝に進出した。

1-1の引き分け再試合となった決勝の第2戦は、ミュラーとへーネスが2得点づつを記録してアトレティコ・マドリードを4-0と撃破、バイエルンが初の欧州王者に輝いた。大会初優勝に貢献したブライトナーは、ベッケンバウアー、ミュラー、へーネス、ゼップ・マイヤーらとともにチームの黄金期を支えていく。

それでもブライトナーの反逆者的な態度は、クラブ幹部を「成金貴族」と呼んだり、代表戦で歌う国歌を「退屈だ」と発言したりと相変わらずだった。バイエルンがリーグ優勝を果たした夜には、プールサイドで裸のまま踊っている写真を撮られ、クラブから多額の罰金を科せられたこともあった。

自国開催のワールドカップ

西ドイツ代表には71年に19歳で招集され、6月22日のノルウェー戦に初出場、3試合目のハンガリー戦で得点を記録した。代表でもすぐにレギュラーとなったブライトナーは、72年の欧州選手権に出場する。

西ドイツは、ベッケンバウアーとギュンター・ネッツァーによるコンビネーションが威力を発揮。快進撃を続けて決勝でもソ連に3-0と快勝し、欧州選手権初優勝を果たした。5試合に出場したブライトナーも、チームに不可欠な選手として活躍している。

74年、Wカップ・西ドイツ大会開幕、1次リーグの初戦でチリと戦った。中央を固めたチリの守りに苦戦する西ドイツだが、開始18分、オーバーラップしたベッケンバウアーからのパスを受けたブライトナーが、30mの距離から豪快なシュートを決めた。このあと西ドイツはチリの猛攻を凌ぎ、虎の子の1点を守りきって苦しんだ初戦をモノにした。

第2戦は、締まらない内容ながらも格下オーストラリアに3-0の勝利。最終節は、国際舞台で初の顔合わせとなった東ドイツとの対戦だった。歴史的な一戦となった会場には多くの観客が集まったが、両チーム絶好機を逃し、観る者をジリジリとさせる展開が続いた。

無得点のまま試合が進んだ77分、東ドイツのシューパルバッサーが鮮やかなカウンターからベルティ・フォクツを振り切りシュート、GKマイヤーを破って得点を決めた。終盤の西ドイツの反撃は不発に終わり、結果的に唯一となった東西決戦は0-1の敗戦、G/L2位となってしまった。そんな西ドイツのふがいない戦いは、詰めかけた地元の観客を失望させる。

実は大会前の強化合宿で、勝利ボーナスを巡る内紛が勃発。選手間に不和が生じた西ドイツチームは、一枚岩とは言えない状態に陥っていた。だが東ドイツ戦の敗戦で危機感を覚えた選手たちは、ベッケンバウアーを中心に再結束、先発メンバーの入れ替えも行ってチームの立て直しを図る。

2次リーグの初戦は、高いテクニックを誇るユーゴスラビアとの対戦。西ドイツは初先発のライナー・ボンホフが活発な動きで攻撃を活性化、38分にはブライトナーが見事なミドルシュートで先制のゴールを叩き込んだ。終盤の82分にはへーネスのクロスからミュラーが追加点、調子を取り戻した西ドイツは2-0の快勝を収めた。

雨の試合となった第2戦はスウェーデンに先制を許すが、粘りを発揮した西ドイツが後半に逆転、激戦となった試合を4-2と制した。

決勝進出を決める最終節は、快進撃を続けるポーランドとの戦い。再び豪雨の中の試合となったが、一進一退が続いた76分にミュラーが貴重なゴール。このあと好調のラトーが攻めるゴールを守護神マイヤーが死守、1-0と接戦を制した西ドイツが決勝に進むこととなった。

決勝戦のPK

バイエルンのホームグラウンド、ミュンヘンで行われた決勝は、大会に「オレンジ旋風」を起こしたオランダとの試合だった。開始1分、ヨハン・クライフが中盤後方から猛然と西ドイツ陣内を切り裂き、Pエリアに侵入したところをへーネスが堪らずファール、PKを与えてしまった。

これをニースケンスが豪快に蹴り込み、一度も相手にボールに触らせないうちにオランダが先制する。しかしあまりにも早すぎるリードはオランダに油断を生み、いつものリズムを失わせてしまうことになった。このあとフォクツがクライフを徹底マーク、その動きを封じると、自慢の「トータルフットボール」も機能不全となっていく。

25分、左サイドから猛然と駆け上がったヘルツェバインがPエリアで倒され、今度は西ドイツがPKをゲット。本来なら点取り屋のミュラーがPKを蹴る場面だったが、あまりの重圧により躊躇、キャプテンのベッケンバウアーも見守るだけだった。

そこへチーム最年少(22歳)のブライトナーが手を挙げキッカーを志願、さっさとボールを置くと何の躊躇もなくPKを決め、西ドイツが1-1と追いついた。のちにブライトナーは「ボールに一番近いところにいたので自分が蹴った。このPKの重要性を感じたのは試合が終わってからで、蹴る時は緊張もしなかった」と述べている。

43分、ボンホフが中盤からスピードで抜け出してゴール前へクロス、そこで待つミュラーがトラップミスから素早い反転、勝ち越しゴールを叩き込んだ。キーマンを封じられたオランダは、後半ロングボールを放り込むだけの単調な攻撃。このまま試合は終了し、西ドイツが2-1と勝利して2度目の栄冠を手にする。

内紛を起こした西ドイツを立て直し、W杯優勝に導いた「皇帝」ベッケンバウアーは偉大なキャプテンとして国民から賞賛された。だが内紛の当事者であるブライトナーは、西ドイツの実質的指揮官となった皇帝に対し「彼は独裁者だ。派閥を作り権威をふるう」と批判を行う。

このあとブライトナーはヘルムート・シェーン監督やDFBとも軋轢を起こし、「クラブのプレーに専念したい」と代表招集を拒否。78年のWカップには出場しなかった。

反逆者のステイタス

西ドイツ大会終了後、ブライトナーは自ら望んでスペインの名門、レアル・マドリードに移籍。この移籍は世間を困惑させた。当時のレアルは極右政権の独裁者、フランコ総統と関係の深いチームであり、「レッド・パウル」と呼ばれたブライトナーの政治思想に合わないと思われたからである。

しかし当のブライトナーはそんな事を気にする風もなく、中盤として起用されたレアルでは前年加入のネッツァーと西ドイツコンビを形成。74-75シーズンのリーグ優勝と、国内カップ「ヘネラリッシモ杯( “総統杯” のち コパ・デ・レイ )」の2冠獲得に貢献、翌シーズンはリーグ連覇を果たしている。

そしてレアルでは次第に高級車や贅沢な暮らしにお金を費やすようになり、そのためにタバコやマクドナルドのコマーシャルにも出演、お金目当てで下らない映画に顔出しした事もあった。かつて資本主義社会を痛烈に批判していたブライトナーのあまりの変わりようは、カウンターカルチャーの同志を激怒させる。

挙げ句の果てには「革命左翼へのシンパシーだ」と語っていたアゴ髭を、「俺にとってたいして重要なものではない。奥さんが好きだというんで生やしているんだ」と言うまでになり、現に香水のCMに出演したときはトレードマークのアゴ髭を剃り落としている。

そんなブライトナーには批判が集中するが、「反逆者とは、すべてをそのまま受け入れないこと」と涼しい顔。もはやその特徴的な風貌は、ファンの関心を呼ぶ “反逆ショー” を彩る看板に過ぎず、体制や権威に毒づくことだけが彼のステイタスとなっていた。

2大会ぶりのワールドカップ出場

78年、ブンデスリーガのアイントラハト・ブラウンシュバイクに移籍。しかしこのクラブとはソリが合わず、翌79年には古巣バイエルン・ミュンヘンへ復帰する。バイエルンではキャプテンに指名され、FWのカール = ハインツ・ルンメニゲとホットラインを形成し、ゲームメイカーとして活躍した。

そして79-80、80-81シーズンのリーグ連覇と、81-82シーズンのDFBポカール優勝に貢献。80-81シーズンはリーグ17得点を記録、翌81-82シーズンも18得点を挙げ、81年にはドイツ年間最優秀選手に選ばれるなど、キャリアのピークを迎えた。81-82シーズンはチャンピオンズ・カップの決勝に進むが、伏兵のアストンビラに敗れて優勝はならなかった。

81年にユップ・デアバル監督の要請を受けて代表に復帰。82年のWカップ・スペイン大会には中盤の軸として出場した。1次リーグの初戦では、新興勢力アルジェリアに1-2とまさかの敗戦。続くチリ戦はルンメニゲのハットトリックで1-4の勝利を収める。

混戦となった最終節はオーストリアと対戦。開始10分に西ドイツがリードすると、残り時間は両チーム単なるボールの蹴り合いに終始する。この「ヒホンの恥」と呼ばれる無気力試合の結果、西ドイツとオーストリアが仲良く2次リーグに進出、アルジェリアは得失点の差で敗退となった。

3チームで行われた2次リーグはイングランドと0-0の引き分け、地元スペインに2-1と勝利して準決勝へ進む。準決勝ではプラティニ擁するフランスと歴史的激戦を繰り広げ、PK戦を制して2大会ぶりの決勝へ勝ち上がる。

決勝はイタリアの勢いの前に1-3と敗れて優勝は叶わなかったが、終盤に生まれた唯一の得点はブライトナーのゴールによるものだった。これでブライトナーは、2つの大会の決勝で得点を挙げた3人目の選手(ババ、ペレ、06年にはジダンも達成し4人)となった。

83年、試合中に負った怪我が悪化し、思うようなプレーが出来なくなったことから32歳で現役引退を発表する。ブンデスリーガで283試合に出場し93ゴール、スペインでは84試合10ゴールの記録を残した。西ドイツ代表としては48試合に出場し、10ゴールを決めている。

引退後はコメンテーターとして活動。バイエルンの名誉選手にも選ばれたが、18年にへーネス会長やルンメニゲCEOと対立を起こし、長らく保持していた名誉会員の指定席券を返上、変わらぬらしさを見せた。

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