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《 サッカー人物伝 》 ディノ・ゾフ

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「 カテナチオの番人 」 ディノ・ゾフ ( イタリア )

派手なセービングは好まず、冷静な判断と安定したキャッチング、抜群のポジショニングでゴールを死守し、「氷のゴールキーパー」と呼ばれたイタリアの守護神が、ディノ・ゾフ( Dino Zoff )だ。その冷静さの一方で、時に積極果敢なゴールキーピンピングを見せながら、決定的なピンチも鋭い反応で失点を防いだ。

リーダーとしても優れた資質を持ち、常にゲームの流れを見ながらDFとコミュニケーションをとってバックラインを統率。その読みの確かさと落ち着いたプレーはチームに安定感を与え、キャプテンを務めた82年のW・カップではイタリアを44年ぶりの優勝に導いた。

73年から74年にかけて国際試合で1142分無失点の世界記録を樹立、セリエAでも903分間無失点連続勝利の記録を作った。30歳で所属したユベントスではリーグ優勝6回、コッパ・イタリア優勝2回、UEFAカップ優勝1回と、数々の栄光をクラブにもたらしている。

ゴールキーパーとしての出発

ディノ・ゾフは1942年2月28日、イタリア北東部マリアーノ・デル・フリウリの農家で生まれた。運動能力に優れたゾフ少年は、自転車競技や陸上競技にも興味を持つが、14歳の時にプロを目指してゴールキーパーのトライアルを受ける。

しかしテストを受けたインテル・ミラノとユベントスでは、身長が足りない(当時149㎝)という理由で不合格となってしまった。それから雌伏すること5年、182㎝と背の伸びたゾフは、19歳でウディネーゼへの入団を果たす。61年9月のフィオレンティーナ戦でプロデビュー、その試合は5失点を喫して敗れてしまった。

デビューシーズンの出場は僅か4試合に留まり、不振のチームもセリエBに降格する。その環境でキーパーとして急成長を遂げたゾフは34試合に出場、翌シーズンのセリエA復帰に貢献した。63年にはマントヴァへ移籍する。

65-66シーズンは自身2度目となるセリエB降格の憂き目に遭うが、翌シーズンには再昇格。そのパフォーマンスが評価され、67年にナポリへ活躍の場を移すことになった。

アズーリの守護神

63年にはU-23イタリア代表に選ばれ、フランスやスペインも参加した地中海競技大会で金メダルを獲得。66年Wカップ・イングランド大会ではバックアップメンバーの候補となるが、結局世界の大舞台に参加することは叶わなかった。

A代表で初キャップを刻んだのはようやく26歳となってから。68年4月20日に行われた欧州選手権の準々決勝、ブルガリア戦に出場し、2-0の完封で代表デビューを飾った。その後地元で開催された本大会(準決勝、決勝)では、負傷したアルベルトージに代わって起用され、延長再試合を含む3試合1失点の堅守でイタリア初優勝に貢献、大会最優秀キーパーにも選ばれた。

しかし70年のWカップ・メキシコ大会ではアルベルトージに正GKの座を奪い返され、ブラジルに1-4と敗れた決勝までの6試合をベンチで眺めることになった。だが72年の欧州選手権予選の準々決勝では、イタリアがベルギーに0-2と敗れて本大会出場を逃し、これ以降アルベルトージを退けてゾフがアズーリの守護神に定着する。

5シーズンを過ごしたナポリでは143試合に出場、そのゲームの全てでゴールを守り続けた。72年、少年時代に門前払いを受けたユベントスへ移籍。すでに30歳となっていたゾフのパフォーマンスには疑問が投げかけられたが、移籍した72-73シーズンで903分の無失点による連勝記録を達成、円熟の力を見せつけた。

マントヴァ時代以来続けていた連続試合出場の記録は、骨折のため213試合でストップしてしまったが、7試合後に復帰すると再び出場を続けた。そして加入1年目のシーズンでユベントスのリーグ優勝とチャンピオンズ・カップ準優勝に貢献、その実力に疑う余地はなかった。

不動の番人

72年10月からWカップの欧州予選が始まると、イタリアはルクセンブルグ、スイス、トルコを相手に6試合すべてを完封、無敗で本大会出場を決めた。すべての試合でゴールを守り続けたゾフは、フレンドリーマッチも含めて1,097分間無失点の記録を樹立し、74年Wカップ・西ドイツ大会に臨んだ。

1次リーグの初戦は、カリブ海・北中米代表の初出場国ハイチとの試合。優勝候補に挙げられていたイタリアには、どう考えても楽勝の相手だった。しかし予想に反して前半はハイチを攻めあぐね、0-0で折り返した後半早々、カウンター攻撃からDFラインを突破され先制ゴールを奪われてしまう。

ゾフにとって1142分ぶりの失点、格下相手の初戦でいきなり記録が途絶えてしまった。このあとイタリアは3-1と逆転勝利を収めるが、続くアルゼンチン戦は1-1の引き分け、最終節でポーランドに1-2と敗れ、1次リーグ敗退となってしまう。堅守を誇ると思われたイタリアだが、3試合で4失点の不覚、アズーリは世代交代の時期を迎えていた。

しかしその後のイタリアの不調は続き、76年の欧州選手権は予選敗退で本体会に進めなかった。だがその後、ベッテガ、タルデリ、カブリーニ、ジェンチーレパオロ・ロッシガエターノ・シレアといった新戦力が台頭、それでも36歳となった不動の守護神・ゾフの地位が揺らぐことはなく、78年Wカップ・アルゼンチン大会にはキャプテンとして出場する。

1次リーグは、フランス、ハンガリー、地元アルゼンチンといった強豪が揃ったG/Lを、新生P・ロッシの活躍で3戦全勝と勝ち抜き、1位で2次リーグへ進んだ。2次リーグの初戦は、前大会チャンピオン西ドイツとの戦い。試合はゾフと西ドイツのゼップ・マイヤー、両キーパーがゴールを死守、0-0のスコアレスドローとなった。

第2戦はロッシのゴールでオーストリアに1-0と勝利。そして最終節は、1勝1分けで並んだオランダとの試合。得失点差で下回るイタリアが決勝に進むには、勝利が必要だった。開始から攻勢に出るイタリアは、18分にオフサイドトラップをかいくぐったベッテガがゴールへ肉薄、後ろから追ってきたブランツのオウンゴールを誘った。

その際ブランツと衝突したGKシュリベールスが負傷交代、イタリアは1-0の優位で前半を終えた。しかし後半に入った50分、汚名返上を狙うブランツが20mの強烈シュート、不意を突かれたゾフは同点弾を許してしまった。さらに74分、オランダのハーンが地を這う40mの超ロングシュート。ゾフの素早い反応も及ばず逆転ゴールがネット隅に突き刺さる。

結果オランダに1-2と逆転負けを喫したイタリアは、ブラジルとの3位決定戦に廻ることになる。38分に先制するが、後半2発の強烈なシュートを浴びてまたもや1-2の逆転負け、イタリアは4位で大会を終えた。それでも果敢に戦った新生アズーリは、帰国後拍手で迎えられた。

自国開催の欧州選手権

80年6月、自国開催の欧州選手権に出場。しかし、その春に発覚した八百長疑惑に巻き込まれたロッシが長期の出場停止処分、イタリアはエースを欠いて大会に臨むことになった。ゾフはG/Lの3試合でスペイン、ベルギー、イングランドを完封。しかし得点もイングランド戦の1点に終わり、1勝2分けの2位で決勝に進めなかった。

3位決定戦では、前大会チャンピオンのチェコ・スロバキアと対戦。この試合で初めて失点を喫するも、終盤に追いついて延長戦に突入、それでも決着がつかず勝負はPK戦にもつれ込んだ。PK戦は両チーム一人も失敗しないままサドンデスとなる。最期チェコの9人目が決めたあと、イタリアの9人目が失敗、こうしてゲームは幕を下ろした。

イタリアは大会4位に終わってしまったが、失点1のゾフは68年大会に続く2度目の最優秀GKに選ばれている。

イタリア優勝を支えた大ベテラン

82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。すでに40歳となっていたゾフだが、正GKの座を守りキャプテンとして4度目の出場を果たした。そして出場停止処分の解けたロッシが、大会直前に代表への復帰を果たしていた。

しかし1次リーグは攻撃陣が低調、初戦のポーランド戦は0-0、続くペルー戦とカメルーン戦も1-1の引き分け、3試合勝ち星なしという不甲斐ない成績に終わった。それでも同じく3引き分けで並んだカメルーンを1点差でかわし、2位で2次リーグに進むことになった。

だがこの内容の悪さに、イタリアメディアのアズーリへの非難が高まった。するとベアルゾット監督は選手たちとマスコミとの接触を禁止し、試合前後の記者会見をキャプテンのゾフと二人で対応した。これによって選手たちは、次の試合に集中出来るようになったのである。

3チーム2組で行われる2次リーグの初戦はアルゼンチンとの試合。ここに来て結束を見せたイタリアは、「殺し屋」ジェンチーレがマラドーナを密着マークで封じ、攻撃陣も奮起して2-1の勝利を収めた。

第2戦の相手はジーコら「黄金の中盤」を擁するブラジル。大会屈指の激戦となったが、復活の狼煙を上げたロッシがハットトリックの大活躍で3-2、88分にオスカルが放ったヘディングシュートもゾフが難なくセーブ、強敵を下して準決勝進出を決めた。

準決勝は、1次リーグで0-0と引き分けたポーランドとの戦い。エースのボニエクを欠くポーランドに対して、イタリアはロッシがまたしても2得点の活躍。ゾフも落ち着いたセービングでゴールを守り切り、2-0の快勝を収めた。

9万人の観客を集めた決勝は、80年欧州チャンピオン・西ドイツとの決戦になった。イタリアは18歳のベルゴミルンメニゲを、ジェンチーレがリトバルスキーを徹底マーク、西ドイツの強力な攻撃陣を抑えた。しかしイタリアも前線の中心選手2人を欠き攻撃が停滞、24分には決定的なPKを外して前半を0-0で折り返す。

それでも後半の57分、ファールのリスタートからジェンチーレが中央にクロス、身体を投げだして頭で合わせたロッシが先制点を決めた。そして69分、タルデリが崩れた体勢から強引にシュート、シューマッハを破って2-0とした。さらに81分には、コンティのドリブル突破からアルトベリの3点目が生まれた。

終盤ブライトナーに1点返されたものの、ゾフの安定した守りで西ドイツの反撃を抑え3-1の勝利。イタリアが44年ぶり3度目のWカップ優勝を果たした。キャプテンとして優勝トロフィーを受け取ったゾフ、大会前は「老いぼれ」と揶揄されたが、風評を跳ね返して「ゴールキーパーはワインと同じ。年を重ねるほど味が出る」の名言を残した。

指導者の道

翌83年、ゾフは41歳で現役引退を発表、11シーズン在籍したユベントスでは476試合に出場した。その間チームはスクデット獲得6回、コッパ・イタリア優勝2回、UEFAカップ制覇1回、チャンピオンズ・カップ準優勝2回の記録を残し、ゾフは守護神としてユベントスの黄金期を支えた。

引退後はユベントスのキーパーコーチを務めたあと、86年に五輪代表監督へ就任。88年のソウルオリンピックではチームをベスト4入りさせた。88年からはユベントスの監督に就任し、コッパ・イタリア優勝とUEFAカップ優勝を果たした。

その後ラツィオ監督を経て、98年にはイタリアフル代表の監督に就任。ユーロ2000の決勝では、世界チャンピオンのフランスに延長で1-2と敗れてしまったが、堂々準優勝の好成績を残した。

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