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《 サッカー人物伝 》 ディエゴ・マラドーナ

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「 神に選ばれし悪童 」 ディエゴ・マラドーナ ( アルゼンチン )

ほとんど左足1本でボールを操り、魔術のようなテクニックと比類のないパスセンスで、いくつもの名プレー・名場面を演じた。サッカー界に一時代を築いたレジェンドとして、もはや説明の必要もないアルゼンチンのスーパープレイヤーが、ディエゴ・マラドーナ( Diego Armand Maradona )だ。

少年時代から類い希な才能と存在感を発揮、80年代にはアルゼンチン代表を18年ぶり2度目のWカップ優勝に導き、それまで無冠だった地方クラブのナポリに2つのスクデットをもたらした。しかしマラドーナが伝説となったのはその卓越したプレーだけではなく、周りの者を巻き込む強いメンタルとカリスマ性が多くのドラマを生み出したからだ。

その栄光の一方、サッカー界の問題児として奔放に振る舞い、多くのスキャンダルで世間を騒がせた存在だった。90年代以降はコカイン使用などで自らの栄光を汚し、94年のWカップではドーピングが発覚して15ヶ月の長期の出場停止処分を受けた。だがその陰の部分を含めた人間臭さが、マラドーナの魅力でもある。

天才児の誕生

マラドーナは1960年10月30日、ブエノスアイレスの郊外にある貧民街ビジャ・フィオーリに生まれた。ディエゴは8人姉弟の5番目(長男、上4人は姉)で、弟にはのちに日本でプレーするウーゴがいた。3歳の誕生日に従兄弟からボールをプレゼントされ、そこから彼のサッカー人生が始まる。

仲間とのストリートサッカーで技を磨いたディエゴは、9歳でアルヘンチノス・ジュニオールスの幼年チーム、ロス・セボジータスに入団する。セボジータスはディエゴの活躍で136連勝を記録。彼の卓越したリフティング技術はテレビ番組やアルヘンチノスのハーフタイムショーでも評判をとり、11歳にして少年は有名人となっていた。

12歳の時にはアルゼンチンきっての名門、リーベル・プレートのジュニアチームを7人抜きドリブルによるゴールで撃破、ディエゴの価値は跳ね上がった。15歳の時にはアルヘンチノスとプロ契約を交し、クラブから家賃不要のアパートを与えられる。そして16歳の誕生日直前に、史上最年少でのトップチームデビューを果たす。

日本での世界デビュー

デビュー戦は勝利で飾れなかったものの、1ヶ月もたたないうちに1部リーグ初得点を記録。2年目の77年には49試合に出場して19ゴールを挙げ、神童ディエゴ・マラドーナの活躍は、たちまちアルゼンチンサッカー界に大きなセンセーションを巻き起こした。

その存在は早くもセサル・ルイス・メノッティ代表監督の知るところなり、77年2月に行われたハンガリーとの親善試合でA代表デビュー(史上最年少)を果たす。このまま自国開催である78年Wカップ大会の25人の候補にも残るが、最終的に「彼は経験が浅く、激しさが足りない」という理由で出場メンバーから落とされてしまった。

メンバー落ちを知った彼は怒り狂い、泣きわめいたという。当時17歳のマラドーナはメノッティ監督の判断の正しさを認めながら、「その日は僕のキャリアの中で、一番悲しい日だった」とのちのちまで恨み節を口にすることになる。

アルゼンチン代表は自国開催の大会で初優勝。翌79年6月、マラドーナは海外遠征のスコットランド戦でフル代表初ゴールを記録、その2週間後に行われたアルゼンチン代表と世界選抜のメモリアルゲーム(Wカップ優勝1周年記念)のメンバーにも選ばれゴールを決めたが、代表落ちの気分が晴れることはなかった。

しかしその悔しさをぶつける機会はすぐに訪れた。8月25日、日本で第2回ワールドユース選手権が開催。マラドーナはメノッティ監督率いるアルゼンチン・ユース代表のキャプテンとして、遠いアジアの島国に降り立つ。

G/Lの初戦でインドネシアを5-0と粉砕、2戦目はユーゴスラビアを1-0と下し、3戦目はマラドーナの先制ゴールでポーランドに4-1と快勝、余裕で1位勝ち抜きを決めた。トーナメントの準々決勝もマラドーナの先制点とラモン・ディアスのハットトリックで5-0とアルジェリアを圧倒する。

準決勝ではウルグアイと対戦。南米のライバルに散々脚を蹴られたマラドーナだが、ディアスの先制弾に続いてヘディングゴールを決めて2-0と勝利、決勝戦に進んだ。国立競技場行われた決勝は、52分にソ連のリードを許すも、68分にPKで追いつき、その3分後にはディアスが逆転ゴールを決める。

そして76分にマラドーナのFKで追加点、このまま3-1とアルゼンチンが勝利し、ワールドユース・チャンピオンのタイトルを手にした。メノッティ監督は「私が指揮した中で最高のチャンピオンチーム」と激賞、主将としてチームを引っ張ったマラドーナも大会MVPに選ばれた。

リーベル・プレートの英雄

アルヘンチノスでは78、79、80年と3年連続で首都リーグ得点王を獲得。全国選手権でも79、80年と得点王に輝き、2年連続で南米最優秀選手賞に選ばれた。もはや中堅クラブの選手として収まらなくなっていたマラドーナには、再びリーベル・プレートからのオファーが舞い込む。

しかしマラドーナは金持ちクラブの不遜な態度に反撥、労働者階級のクラブであるボカ・ジュニアーズへの移籍希望を口にする。そのラブコールを受けたボカは、資金を工面して移籍金プラス6選手の譲渡という条件で81年にマラドーナをレンタルで獲得。マラドーナには移籍ボーナスの代わりに、新築分譲アパートが渡された。

ボカで初めて10番を背負ったマラドーナは、「スーペルクラシコ」と呼ばれるリーベル・プレートとのダービーマッチで全3得点を挙げる大活躍。ライバルを打ち破った新スターは、たちまちボカの人気者を集めた。そしてこの年28ゴールを挙げ、チームの首都リーグ優勝(全国選手権優勝はリーベル・プレート)に貢献している。

しかしボカは多くの興行試合を打っても、マラドーナ獲得ために工面した巨額の移籍金を補えず、翌82年に彼はスペインの名門バルセロナへ売り渡される。

82年6月、21歳となったマラドーナはWカップ・スペイン大会に出場。1次リーグのハンガリー戦で2得点を記録するも、2次リーグのブラジル戦では「黄金の中盤」の前に劣勢を強いられ、冷静さを失った末に暴力行為で退場処分となる。前大会王者のアルゼンチンはここで敗退、エースと期待されたマラドーナは精神の未熟さを露呈することになった。

堕落する生活とナポリへの移籍

82-83シーズン、バルセロナに移籍したマラドーナは、リーグ戦20試合に出場して11ゴールを記録。開幕戦のバレンシア戦で初ゴールを記録するなど華々しいスタートを切ったが、この頃からコカインを試したり、夜遊びに興じたりと、ヌ二エス会長との関係は悪化していった。

83-84シーズンはメノッティがバルセロナの新監督に就任。だが開幕早々のビルバオ戦、ゴイコエチェアに脚を狙われて左足首の腱を損傷、3ヶ月の欠場を強いられる。だが復帰3試合目のビルバオ戦では、2ゴールを叩き込んだマラドーナの活躍で2-1と勝利、この時はプレーで復讐を果たした。

このあとコパ・デル・レイ(国王杯)の決勝でもビルバオと対戦するが、マラドーナは相手の執拗なマークに遭い、0-1と封じられて優勝を逃す。さらにビルバオの乱暴な接触プレーに怒り心頭となったマラドーナは、乱闘騒ぎを起こして3ヶ月間の出場停止処分を受けてしまう。

バルセロナの屋敷では取り巻きに囲まれながら暮らし、乱れた生活でウィルス性肝炎を患って試合を欠場することもあったマラドーナ。そういったプロ意識に欠けた態度に加え、ファン・カルロス国王が観覧したビルバオ戦での乱闘騒ぎはヌ二エス会長を激怒させ、二人の確執は深まっていった。

シーズン終了後バルセロナはメノッティ監督を解任、移籍を希望したマラドーナもクラブから放出されることになった。そしてユベントスなどいくつかオファーがあった中からマラドーナが選んだのは、莫大な移籍金を提示してきたイタリア南部の中堅クラブ・ナポリだった。

ナポリに移籍した84-85シーズン、マラドーナはリーグ戦30試合に出場してチームトップの14ゴールを記録。マラドーナの奮闘は、前季降格の危機に陥っていたナポリをリーグ8位まで浮上させた。翌85-86シーズンは29試合に出場して11ゴールを挙げ、チームをリーグ3位に押し上げる。

マラドーナが中堅クラブのナポリに移籍したのは、ビジネス面での理由が大きかったが、制約の多いビッグクラブに縛られるのを嫌ったからでもあった。まさにこの選択は正解で、マラドーナはこの地方クラブで伸び伸びとプレーする。またナポリもマラドーナ人気で多くの観客を集め、莫大な投資額を瞬く間に回収した。

W杯、伝説のゲーム

86年、Wカップ・メキシコ大会が開幕。カルロス・ビラルド監督はマラドーナをキャプテンに指名し、その個人能力を生かすチーム作を行っていた。ビラルドの戦術は相手の良さを消す守備的サッカー、攻撃の一切をマラドーナの能力とアイデア、そしてそのカリスマ性に頼ったのである。

G/Lでは前回王者イタリアに先制されるも、マラドーナが同点弾を決めて1-1の引き分け。あとは組み合わせにも恵まれて1位で決勝Tに進んだ。そして準々決勝で対戦したのがイングランド、4年前のマルビナス(フォークランド)戦争で敗戦という屈辱を味わった、因縁の相手だった。

密かに雪辱を誓うマラドーナは後半の51分、バックパスを受けようとしたGKシルトンより一瞬早くボールに触れ、「神の手ゴール」でネットを揺らした。場内の騒然とした雰囲気が収まらないその4分後、マラドーナは中盤から左足1本による「5人抜きドリブル」でゴールに迫り、タックルに倒されながら追加点を叩き込む。

このあとイングランドの反撃をリネカーの1点に抑え、アルゼンチンが2-1と勝利。スーパースター・マラドーナが見せた衝撃の大きさと劇的要素で、まさにWカップの歴史に残る伝説の試合となったのである。

マラドーナの大会

準決勝は、またもマラドーナが2ゴールの大活躍。ベルギーを2-0と破って、ついにアルゼンチンが2大会ぶりの決勝へ勝ち上がった。決勝の相手は前回準優勝国の西ドイツ。マラドーナはロータ・マテウスのマークをかいくぐり、攻撃の起点となって、アルゼンチンに2点のリードをもたらす。

しかし粘り強さを身上とする西ドイツは、終盤フェラーとルンメニゲのゴールで同点、勝負の行方は分からなくなった。84、攻め急ぐ西ドイツの後方にスペースが空くと、それを見逃さなかったマラドーナが必殺のスルーパス、走り込んだブルチャガが決めて3-2とした。

こうしてアルゼンチンが2度目のWカップ優勝を達成、マラドーナは大会MVPに選ばれた。5ゴール5アシストの他にも攻撃の起点となって、ほとんどの得点に絡んだ彼の存在がなければこの優勝はあり得ず、まさに「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」となったのである。

ナポリの王様

86-87シーズン、ナポリでジョルダーノという攻撃のパートナーを得たマラドーナはゲームメイカーとして躍動。自身も10ゴールを挙げ、チームを初のリーグ優勝に導いた。コッパ・イタリアでも10試合で7ゴールの活躍、2冠獲得の立役者となり、この年の世界年間最優秀選手にも選ばれる。

翌87-88シーズンはブラジル代表FWのカレカが加入、マラドーナも15ゴールを挙げセリエA得点王、ジョルダーノとの3人で強力な攻撃陣を作り上げた。88-98シーズンはUEFAカップ初制覇、89-90シーズンはナポリを2度目のリーグ優勝に導き、80年代後半はマラドーナのキャリアが頂点に達した。

しかし彼の自己中心的な言動や奔放な私生活は、エスカレートする一方。派手な女性関係で家庭外に多くの子供を設け、麻薬使用やシシリアン・マフィアとの交際も噂された。

この時期莫大なスポンサー収入を得ていたのにもかかわらず税金を滞納、のちにナポリ税務局から40億円もの支払いを求められることになる。そして王様然と振る舞うマラドーナとクラブ首脳陣の関係は、次第に険悪なものとなっていた。

90年、Wカップ・イタリア大会に出場。左足を痛めていたマラドーナの体調は決して万全ではなかったが、一撃のスルーパスで宿敵ブラジルを破るなど要所で存在感を発揮、アルゼンチンは準決勝へ進んだ。準決勝は地元イタリアとの対戦、試合はマラドーナのホームであるナポリで行われた。

「ナポリの王」と呼ばれたマラドーナは、試合前のインタビューで「南北格差」の問題を持ち出し市民にアルゼンチンへの応援を呼びかけた。だがその発言は、ナポリ市民とイタリア人の対立を無責任にあおるものだと開催国の人々を激怒させた。

試合は延長PK戦の末アルゼンチンが勝利。PK戦でゴールを決めたマラドーナは、雑誌で「卑怯者」と非難され、新聞のアンケートではイタリアで最も反感を買う人物(2番目はサダム・フセイン)に選ばれた。

決勝は2大会連続で西ドイツと対戦。アルゼンチンは主力4人を出場停止で欠き、不調のマラドーナもブッフバルトに抑えられて打つ手なしだった。試合は終始西ドイツ優勢のまま0-1で終了、「退屈な決勝戦」と呼ばれる凡戦となった。勝利に歓喜する西ドイツ選手の傍らには、涙にくれるマラドーナの姿があったが、彼に同情を寄せるイタリア人観客はいなかった。

ナポリではそれまで「王様」として君臨してきたマラドーナだったが、ここから彼に対する態度が大きく変化していく。

栄光の終末

91年2月、ナポリ警察が違法薬物取引を捜査する過程で、マラドーナが犯罪組織と結託して売春や薬物譲渡に関わっていた疑いが浮上。そのあと密売目的による麻薬所持の容疑で起訴される。そして司法取引の結果、執行猶予付き1年2ヶ月の禁固刑と罰金500リラの判決となった。

翌3月、バーリ戦直後のドーピング検査で、マラドーナの尿から微量のコカインが検出。検査が義務づけられて以降、マラドーナに対しては初めてのものだった。

それを受けてイタリアサッカー協会は15ヶ月間の出場停止処分を発表。マラドーナの麻薬使用はナポリで公然の秘密であり、誰も驚く者などいなかったという。マラドーナは数日のうちに自家用機を飛ばし、故郷アルゼンチンへ帰国。だがその数週間後、「コカイン使用」の容疑で地元の警察に逮捕されてしまう。

裁判では判事から依存症の治療を受けるように命じられ、アルゼンチンでいくつかのチャリティーマッチをこなしながら、マラドーナは出場停止期間が明けるのを待った。92年6月に処分が解けると、ナポリとの契約を解除、ビラルドが監督を務めるスペインのセビリアに籍を移した。

しかしそこでも夜遊びが止まらないマラドーナは、ビラルド監督と対立、1年でチームを離れて故郷に戻った。その後アルゼンチンのオールドボーイズでプレーするが、態度の悪さに僅か5試合で解雇、その後はブエノスアイレスの別宅で隠遁生活を送る。邸宅の門前に群がる報道陣に苛立ち、エアライフルを乱射するという騒動を起こしたのはこの頃である。

だがその一方、W杯南米予選でアルゼンチンは苦戦を強いられ、国民からはマラドーナ待望論が沸き上がっていた。93年10月、急いで身体を絞った(薬物も使用)マラドーナは、オーストラリアとの大陸間プレーオフで代表に復帰、アルゼンチンの本大会出場に貢献した。

94年6月、Wカップ・アメリカ大会に出場。マラドーナはG/L初戦のギリシャ戦で復活弾を決め、カメラに向かって狂気とも見える雄叫びをあげた。続くナイジェリア戦も2-1の勝利に貢献、しかし試合後のドーピング検査で、マラドーナの尿から禁止薬物エフェドリンの陽性反応が出た。

すぐにアルゼンチンサッカー協会は彼をチームから外し、2ヶ月後にFIFAから15ヶ月間出場停止の裁定が下る。この時マラドーナは33歳、彼の栄光のキャリアに事実上の終止符が打たれることになった。

晩年のマラドーナ

95年9月に出場処分が解けたあと、古巣のボカ・ジュニアーズで復帰。そのお騒がせぶりは相変わらずで、97年8月にまたもコカインの陽性反応に引っかかってしまう。そして37歳の誕生日となる同年10月30日に現役引退を発表、彼が栄光を刻んだナポリはその背番号10を永久欠番とした。

引退後は肥満、薬物中毒、アルコール依存症により入退院を繰り返して、一時危篤状態にも陥る。04年には食を細くするための胃切手術を受け、体重を減らしてようやく健康は回復に向かった。08年にアルゼンチン代表監督に就任、10年のWカップ・南アフリカ大会はリオネル・メッシを擁してベスト8まで進んだ。

しかしアルゼンチン代表で注目を集めたのはその試合内容ではなく、マラドーナ監督の表現豊かなパフォーマンスと奔放な言動だった。その後は各クラブで監督やコーチを務めていたが、2020年11月25日、心不全によりブエノスアイレスの自宅で死去。享年60歳。

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