《 サッカー人物伝 》 ズボニミール・ボバン

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「愛国の闘士」 ズボニミール・ボバン ( ユーゴスラビア / クロアチア )

両足を自在に操り、俯瞰したかのような広い視野と冷静な戦術眼でゲームを組み立てた攻撃的MF。チェス好きで読書家という知性派ながら、ヒゲを生やした精悍な風貌と闘志を秘めたプレーから「ゾロ」の愛称を持つのが、ズボニミール・ボバン( Zvonimir Boban )だ。

87年の世界ユース優勝でその名を知られるも、民族紛争が続く祖国の事情により長らく国際舞台でその姿を見ることが出来なかった。90年代に入って旧ユーゴ解体でクロアチアが独立すると、ボバンは代表キャプテンとしてチームを牽引。ユーロ96ではベスト8、98年Wカップでは初出場3位の好成績に貢献する。

ACミランでは長らく10番を務め、本職のトップ下だけではなく、中盤の低い位置やサイドの起用にもフィット。周囲をサポートする献身的プレーと、汗や汚れを厭わない姿勢、あらゆる戦術に合わせられる柔軟性は、ファビオ・カペッロやアルベルト・ザッケローニらの指揮官をうならせた。


ボバンは1968年10月8日、旧ユーゴスラビア連邦時代のクロアチア共和国イモツキに生まれた。大のスポーツ好きだった父親の手ほどきでサッカーを始め、その後ユーゴスラビア1部リーグに所属するディナモ・ザグレブの下部組織に入団する。

85-86シーズン、16歳でトップチームデビュー。1年目の出場は2試合に留まったが、翌86-87シーズンは28試合に出場して8ゴール、87-88シーズンは30試合13ゴールと目覚ましい成長を遂げていった。さらにそのリーダーシップも認められるところとなり、19歳の若さでキャプテンに指名されている。

87年にはユーゴスラビアのユース代表に選ばれ、チリで開催された世界ユース選手権に出場する。この時のユース代表にはボバンのほか、ダボル・シューケル、ロベルト・プロシネツキ、ロベルト・ヤルニ、イゴール・シュティマック、プレドラグ・ミヤトビッチ(ユーゴ / セルビア・モンテネグロ代表)ら、のちに98年のWカップで活躍するメンバーが揃っていた。

地元チリとの開幕戦ではボバンが先制点、後半シューケルが2得点を重ね、ホスト国に4-2の快勝を収めた。続く第2戦もシューケルが2ゴール、ボバンが1ゴール、オーストラリアに4-0と圧勝する。最終節のトーゴ戦ではミヤトビッチの2ゴールでリードすると、最期はシューケルが3試合連続の得点を決め4-1、圧倒的な攻撃力でベスト8に進んだ。

準々決勝のブラジル戦はミヤトビッチとプロシネツキがゴールを決め2-1の勝利。ちなみにブラジルの1点は、アルシンド(のち鹿島アントラーズ)によるものである。準決勝は東ドイツと対戦。前半30分にシュティマックの先制点が生まれるが、後半の49分にマティアス・ザマーのゴールで追いつかれてしまう。だが70分にシューケルの得点で勝ち越し、2-1と逃げ切った。

決勝の相手は西ドイツ。0-0で進んだ終盤の85分にボバンのゴールが生まれ勝利を目前にするが、87分にPKをとられて追いつかれてしまう。試合は延長に突入するが、1-1のまま勝負はつかず、優勝のゆくえはPK戦にもつれる。西ドイツは1人目が失敗、ユーゴは全員が成功を続け、5人目のボバンが最期に沈めて優勝を決めた。

このあとイビチャ・オシム監督率いるフル代表に呼ばれ、89年にイタリアWカップの出場を決めると、ボバンも出場候補メンバーに選ばれた。しかし本大会を1ヶ月前に控えた90年5月13日、彼のW杯への道は突然閉ざされてしまうことになる。

89年から始まった東欧革命の流れを受け、ユーゴ連邦での自主性を訴えるクロアチア人と、連邦政府の中枢を担っていたセルビア人との間に当時激しい対立が生じていた。そんなとき、クロアチアの強豪ディナモ・ザグレブと、セルビアの名門レッドスター・ベオグラードとの試合(会場はクロアチア)で暴動が起こる。

試合開始前にクロアチア・サポーターとセルビア・サポーターが衝突。セルビア人で構成された警察隊が鎮圧にかかると、それにクロアチア・サポーターが応戦、グラウンドに投げ込まれた発煙筒と催涙弾で会場は煙で包まれた。このとき暴動が起こったのだが、「純粋な愛国者」を名乗るボバンが乱闘に参戦、警官隊を相手に跳び蹴りを喰らわせた。

結局試合は行われずに、レッドスターの3-0の勝利とされ、暴力行為を働いたボバンには9ヶ月の出場停止処分が下された。そのため1ヶ月後のWカップにも、出場できなくなってしまったのである。このあとも民族紛争によって国内情勢はますます不安定となり、ボバンは謹慎が解けた91年に誘いのあったACミランへ移籍することになる。

しかしイタリアでの1年目はミランでプレーすることなく、万年降格候補・SSCバーリにレンタル移籍される。弱小チームに馴染めなかったボバンの成績は低迷し、バーリもセリエBに降格。92-93シーズンにはミランでプレーするが、ユーゴのスター、サビチェビッチが務めるトップ下のポジションを奪うことが出来なかった。

豊富なタレントを抱え、独自のターンオーバ制を採用するミランで、ボバンが出場できたのは僅か13試合。しかし翌シーズンは、チーム戦術に自分のプレースタイルを適応させ、的確で多彩なパスワークを披露。状況に応じて果敢な突破も見せた。こうして93-94シーズンは出番を増やし、20試合4ゴールを記録してチャンピオンズリーグ優勝にも貢献、94-95シーズンも変わらぬ活躍を見せた。

だが翌95-96シーズン、「イタリアの至宝」と呼ばれたロベルト・バッジオが加入、さらに「リベリアの怪人」ジョージ・ウェアもミランに移ってきた。外国人枠の制限(3人)もあってボバンは先発の座からはじき出され、スーパーサブあるいは主力の代役的ポジションに甘んじることになる。

そこで「トップ下だけの選手と思わないでくれ。俺はどこで使われても要求された働きができる」とカペッロ監督に直談判。その言葉通り守備的MFとして、あるいは左サイドの繋ぎ役として、そして時にはサビチェビッチに代わる司令塔として中盤のあらゆる役目をこなし、チームを支える陰の存在となった。

それでもターンオーバー制と外国人枠によって出場回数は制限され、一時は移籍を訴えるなど不満を募らせたボバンだが、95年末に下された「ボスマン裁定」のおかげで再び活躍の場が増えていった。「ボスマン裁定」以降選手の権利が大幅に認められ、EU圏内の選手は出場枠制限の対象外となったのである。

96-97シーズン、クロアチアのボバンはユーゴのサビチェビッチ、リベリアのJ・ウェア、フランスのデサイーらと共存、多国籍軍の一員として活躍した。反対にスター軍団の中で機能しなくなったバッジオは、次第に出番を減らしてゆき、シーズン終了後にはチームを去ることになる。

91年6月にユーゴ連邦から抜けた、クロアチア最初のビッグイベントが、イングランドで開催されたユーロ96だった。G/L初戦はトルコに1-0と勝利、第2戦も前大会チャンピオンのデンマークを、シューケルの2得点とボバンのゴールで3-1と打ち破った。

主力を休ませた最終節はルイ・コスタやフィーゴら「黄金世代」が全盛期を迎えたポルトガルに0-3の完敗を喫するが、グループ2位でベスト8に勝ち上がる。準決勝はドイツと対戦。立ち上がりはクロアチアが押し気味に試合を進めるが、20分にハンドでPKをとられ、クリンスマンに決められてリードを許す。

それでも51分にシューケルのゴールで追いつくが、シュティマックが2枚目の警告で退場。そのあと全体のバランスを崩したクロアチアは、59分にザマーの勝ち越し点で再びリードされ、百戦錬磨のドイツに1-2と敗れてしまった。それでも最初の国際舞台は、ベスト8とまずまずの成績を残した。

98年6月、クロアチアはWカップ・フランス大会に初出場を果たす。初戦はカリブ海地区代表のジャマイカと対戦、スタニッチ、プロシネツキ、シューケルと得点を重ね3-1の勝利、同じ初出場同士とはいえ格の違いを見せつけた。第2戦ではこれまた初出場・日本との試合。ボバンは怪我で欠場、猛暑の中の苦しい戦いとなったが、シューケルが一瞬のチャンを逃さず決勝点を決めた。

最終節は、ともに決勝T進出を決めているアルゼンチンとの対戦。ボバンは戦線に復帰するが、控え選手中心で意気盛んなアルゼンチン相手に、無理をせず勝ちを譲った。決勝T1回戦はシューケルがPKを決めてルーマニアに1-0と勝利、準々決勝では2年前のユーロで敗れたドイツと戦うことになった。

序盤はドイツに主導権を握られ再三のピンチを迎えるも、40分にシューケルを倒したDFヴェルンスが、一発退場となったことから戦況は一変する。前半終了直前の45分にヤルニのミドルシュートでクロアチアが先制、終盤の80分にも追加点が生まれた。守備の要を失った相手は立て直す余裕もなく、85分にはシューケルがゴール前の混戦からダメ押し点を入れ、欧州王者ドイツの息の根を止めた。

そして準決勝は開催国フランスとの対戦。前半はフランスにゲームを支配されるも、守備的に戦ったクロアチアは相手のゴールを許さず、前半を0-0で折り返す。そして後半開始直後の25秒、アサノビッチのパスを受けたシューケルがGKバルデスをかわして先制点を挙げる。

だがその僅か1分後、ボバンがゴール前でボールを奪われ、テュラムの同点弾を許してしまう。69分、再びテュラムがアンリとのワンツーから逆転弾、クロアチアが追いかける展開となった。74分、小競り合いでビリッチを倒したブランがレッドカード、数的有利となったクロアチアは攻勢に出る。

しかしフランスの粘り強い対応にかわされ、ついにゴールは生まれず試合は1-2で終了、クロアチアの決勝進出は叶わなかった。それでもクロアチアの選手たちは気落ちすることなく、オランダとの3位決定戦に臨んだ。

開始からオランダが積極的な攻撃を仕掛け中盤を支配、しかし空いたスペースを狙いクロアチアがカウンター、プロシネツキの先制点が生まれた。しかし怯まずに攻め続けるオランダは、21分にゼンデンがミドルシュートを決め1-1と追いつく。

35分、再びチャンスでクロアチアが速攻、ペナルティエリア左に展開したボバンのパスから、シューケルが決勝点となるシュートを左足で決めた。シュート数はオランダの20本に対し僅か5本と数少ないチャンスを生かし2-1の勝利、初出場で3位入賞を果たした。

01-02シーズン、ルイ・コスタがミランに加入してきたことから、怪我などで出場機会を減らしていた34歳のボバンはスペインのセルタへレンタル移籍する。しかし最初からモストボイの控えという扱いに不満を持ち、たった4試合に出場しただけで突如10月に現役引退を発表する。

セリエAでは195試合に出場し23ゴール、クロアチア代表では51試合出場12ゴールの記録を残した。引退後はザグレブ大学に入学し、歴史学の学位を取得。卒業論文のテーマは「ローマ帝国のキリスト教」というものだった。

その後は、イタリア・テレビ局のコメンテーターやカゼッタ・デロ・スポーツ誌のコラムニストとして活躍し、16年からFIFAの副事務総長を3年間務めた。19年6月には古巣ACミランの再建を託され、チーフ・フットボール・オフィサーに任命されるが、経営陣と対立し僅か9ヶ月で退任している。

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