BSプレミアム「三船敏郎 生誕100年」

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サムライ、三船敏郎の真実

去年の12月29日にBSプレミアムで放送された【三船敏郎 生誕100年 サムライの真実・幻の大作映画・戦争と特攻】は、『七人の侍』『用心棒』などで豪快なサムライ像を生み出し、世界中を魅了した俳優・三船敏郎の特集。

生誕100年を迎えた今年、秘蔵資料と関係者の証言をもとに「世界のミフネ」はいかにして生まれたのか、その秘密に迫る。黒澤明との戦い、台本に残る緻密な役作り、戦争と特攻の記憶、幻の大作映画に向けた情熱。サムライと呼ばれた男の実像を解き明かし、波乱の生涯を追うドキュメンタリー番組だ。

生涯150本に及ぶ映画に出演、そのうち16本が黒澤明とのコンビによるもの。まさに黒澤映画のダイナミズムは三船あってこそ、数々の傑作群も互いの切磋琢磨から生まれた。黒澤はそんな三船を自伝の中で、「それまでの日本映画では類のない才能」と評している。

三船と黒澤

スクリーンでの豪放磊落なイメージとは違い、撮影には入念な準備と緻密な演技プランで臨んだという三船。彼の使った『七人の侍』(54年)の台本にも多くの書き込みがなされ、言い回しや声のトーンなど、細かな修正を施し試行錯誤したあとが窺える。

デビュー作『銀嶺の果て』(47年)以来50本以上の映画で共演、公私ともに親しく付き合っていた志村喬は「三船は下手だ。でもやりやすいんだ」と語っていたそうだ。演技者としては決して器用ではない三船だが、全身全霊で役に取り組むのが彼の凄みだ。

『酔いどれ天使』(48年)での、志村が演じる中年医師と三船の演じる若いやくざが揉み合う場面。三船が志村のシャツの襟を本気で締めてきたため、首には痕が残ったらしい。また『用心棒』(61年)の体当たり演技や、『椿三十郎』での三十人斬りシーンでのエピソードも紹介。手を抜くことを知らないこの迫力が、黒澤映画のダイナミズムを生み出した。

当時の撮影スタッフの証言によれば、“天皇” と呼ばれていた黒澤監督も、三船に細かい指示を出すことは無かったらしい。それどころか、言わずとも期待以上のものを見せてくれる三船を、黒澤監督は嬉々とした様子で撮影していたと伝えられている。

戦争体験と俳優としての成功

三船敏郎は1920年(大正9年)4月1日、中国の青島生まれ。5歳のとき一家で大連に移り、写真館を営む裕福な境遇で育った。しかし少年時代に母親と死別、成年してから父親も亡くなり、家業を継いだ三船は20歳の若さで弟妹を養う身となる。

その後日本は戦争に突入。23歳で陸軍に徴兵された三船は満州関東軍に配属され、カメラ技術の腕を買われて航空隊・偵察写真班の任に就く。そこで受けたしごきは凄さましく、上官に反抗的な態度をとった三船は顔が変形するほど殴られたという。

戦争末期には熊本の特攻基地に配属、学徒兵や少年航空兵の指導官となり、帰還することのない年下の彼らの特攻出撃を見送る毎日を過ごした。このことは三船の心に消えぬ傷を残し、その後の俳優生活に大きな影響を与えた。

特攻隊基地で終戦を迎えたあと上京。軍隊時代に知り合った先輩を頼り、カメラマン助手の職を求めて東宝撮影所の試験を受ける。しかしそのとき撮影部には欠員がなく、とりあえずということで東宝ニューフェースの面接を受けて補欠採用。思わぬ形で俳優への道を歩むことになった。

東宝入社後、撮影部の空きを待っていた三船を谷口 千吉監督が説得、『銀嶺の果て』で27歳の役者デビューを果たす。この映画の脚本と編集を担当したのが、当時東宝のホープだった黒澤明監督である。このあと『酔いどれ天使』で初めて三船を起用した黒澤だが、そのあまりに強い存在感に引っ張られ、作品のバランスを崩してしまったと言われている。

その後も黒澤とは『羅生門』『七人の侍』『用心棒』『天国と地獄』『赤ひげ』といった名作群でコンビを組み、「世界のミフネ」の名声を得ることになる。海外からは多くのオファーが舞い込み、『グラン・プリ』(66年)『太平洋の地獄』(68年)『ミッドウェイ』(76年)といった大作・話題作にも出演した。

ミフネの熱演

その海外出演作品の中でも代表作と言われるのが、アラン・ドロンやチャールズ・ブロンソンと共演したヨーロッパ製アクション西部劇『レッド・サン』(71年)。この映画のプロデューサーから最高の待遇をもって迎えられた三船は、監督を選ぶ権利さえ与えられたという。

その監督候補のリストに名を連ねたのは、ジュールス・ダッシン、ブレーク・エドワーズ、ジョン・フランケンハイマー、ジョージ・ロイ・ヒル、ジョン・ヒューストン、スタンリー・キューブリック、サム・ペキンパー、アーサー・ペン、シドニー・ルメットといった錚々たる面々。

だがこれらの名監督たちが、単なる娯楽作に興味を示すとも思えないので「賑やかしでとりあえず名前を載っけときました」という程度なのかも知れない。結局『レッド・サン』監督を務めることになったのは、「007シリーズ」を成功に導いたことで知られるテレンス・ヤングである。

黒澤作品以外は今ひとつ精彩を欠くことも多い、と評されることもあった三船だが、親友の岡本喜八が監督を務めた『日本のいちばん長い日』では一世一代の演技を見せる。終戦の決定を巡る政府や軍部の葛藤を描いたこの作品で、三船は阿南惟幾 陸軍大臣役を熱演、鬼気迫る切腹シーンは観客を圧倒した。戦争で味わった、あの悲痛な想いがあふれ出した名演技だった。

国際俳優の終焉

79年に経営難から三船プロダクションが閉鎖。社長業から身を引いた三船だが、還暦を過ぎた俳優は主役を務めることも無くなっていた。そんなキャリアの晩年に取り組んだ企画が、30年来構想を暖めてきた大作『孫悟空』の映画化である。

三船は『孫悟空』の台本を自ら脚色。脚本を完成させると、手紙を書いてスティーブン・スピルバーグに協力を求めた。当時62歳、孫悟空の扮装をした三船のテスト写真を見ながら「無理があるんじゃないでしょうかね」と苦笑する子息の三船史郎さんだが、もはや道化にさえ見えてしまう痛々しさだ。

さすがに三船を敬愛するスピルバーグも、こんな見込みのない企画では協力出来るはずなく、資金集めも難航して『孫悟空』の映画化は立ち消えとなってしまう。それにしても、番組内でインサートされていた三船自筆の企画書原稿、あまりに達筆で驚いた。

70歳を過ぎた頃に認知症の症状が出始め、さらに心筋梗塞を患って入院、それでも仕事への熱意は衰えず、95年には遺作となった『深い河』に出演する。この頃すでに認知症がかなり進行していた三船だが、カメラを向けられるとたちまち研ぎ澄まされた演技を見せたそうだ。

97年12月24日、77歳で三船はその生涯を閉じた。番組では触れられていなかったが、認知症が進行すると内縁の妻だった喜多川美佳から関係を解消され、本妻・幸子夫人の元に戻って介護を受けていた。しかし95年、その幸子夫人にも先立たれてしまう。

最期は機能不全で衰弱し、口をきくことさえ出来なくなった三船。だが病院へ見舞いに来た志村喬の未亡人・島村政子が、耳元で励まして頬を叩くと、その目からは一筋の涙がこぼれ落ちたという。

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