170㎝に満たないという身長で、10年間メキシコ代表のゴールを守り続けた小さな守護神。小柄というハンディを抜群の反射神経と高い身体能力でカバー。自身のデザインした派手なユニフォームが話題を集め人気者となったのが、ホルヘ・カンポス( Jorge Campos Navarrete )だ。
その高い能力と判断の良さでゴールを死守するだけではなく、ペナルティーエリアを大きく飛び出してスイーパーの役割も果たした。また足元の技術と非凡なスピードも持ち合わせ、時には背番号9を背負うフィールドプレイヤーとして試合に出場。二刀流の活躍は観客を沸かせた。
メキシコ代表としては3回のW杯に出場。そのうち2つの大会で正ゴールキーパーを務め、連続となる決勝トーナメント進出に貢献する。さらに93年のコパ・アメリカで準優勝を果たし、CONCACAFゴールドカップ(北中米・カリブ海選手権)では大会2連覇に寄与。米大陸屈指のGKと呼ばれた。
カンポスは1966年10月15日、メキシコの高級リゾート地アカプルコに近い、ブラン・デ・ロス・アマテスに誕生した。小さい頃から運動神経は抜群、サーフィン選手としても一流のセンスを見せたが、熱狂的なサッカーファンだった父親の英才教育を受けてサッカーのプロを目指すようになる。
高校卒業後、メキシコ3部リーグの地元アマチュアクラブに入団、すぐにレギュラーGKとして活躍する。そんな彼にチャンスが訪れたのは88年、1部リーグの強豪プーマス・デ・ウナム(UNAMプーマス)とプレシーズンマッチを行った時だった。
強豪を相手にしたカンポスは、小さな身体をフルに使ってゴールマウスを死守。さらに味方のカウンターチャンスには、Pエリアを飛び出しドリブルで前線へ切り込んでいった。しかもコーナーキッカーまで務めるという大胆さと技術の高さが対戦相手の目に止まり、カンポスは強豪プーマスとプロ契約を交わすことになる。
当時プーマスにはアドルフォ・リオスという優秀なGKがいたため、カンポスはFWとして起用されてゲームに出場。プロ2年目の89-90シーズンは40試合で14ゴールを記録し、チームのトップスコアラーを争った。翌90-91シーズンはリオスの怪我もあり、GKとFWの二刀流で活躍。プーマスのリーグ制覇に貢献した。
メキシコ代表には91年に初選出、7月26日のエルサルバドル戦でデビューを飾った。92年には正GKの座を掴み、93年6月には南米サッカー連盟から初めて招待されたコパ・アメリカに出場する。
G/Lでは3位となったものの決勝トーナメントに進出。準々決勝でペルーを4-2と破り、準決勝ではエクアドルを2-0と完封して決勝に勝ち上がった。決勝ではバティストゥータの2得点を許してアルゼンチンに0-2と敗れてしまうが、メキシコは初出場で準優勝の成績を残しレベルの高さを証明した。
翌7月には、息つく暇もなCONCACAFゴールドカップに出場。北中米で格の違いを見せつけるメキシコは圧倒的強さで決勝に進み、ファイナルではアメリカを4-0と圧倒して大会2回目の優勝を果たす。カンポスは5試合にフル出場し、失点は2つに押さえている。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会に出場。G/Lの初戦はノルウェーに0-1と敗れるが、続く第2戦はアイルランドに2-1の勝利。最終節でR・バッジオ擁するイタリアと1-1と引き分けて、メキシコの組は4チームが勝点と得失点差で並ぶ大混戦となった。それでも総得点で上回ったメキシコが1位となり、決勝Tに進む。
トーナメント1回戦ではブルガリアと対戦。開始6分にストイチコフの先制ゴールを許すも、18分にPKを得て1-1の同点に追いつく。このあとゲームは合計10枚のイエローカードが乱れ飛び、両チーム一人ずつの退場者を出すという大乱戦。延長の120分を戦ってもスコアは動かず、勝負はPK戦に持ち込まれた。
PK戦ではブルガリア1人目のコースを読んで阻止するも、あとの選手にはカンポスの手が届かないコーナーギリギリを狙われ、連続3本のゴールを許してしまう。対するメキシコは3人が続けて失敗、身長のハンディを突かれたカンポスにとって無念の敗退になってしまった。
プーマスでは不動の守護神として活躍を続けたが、その人気を買われて発足したばかりの米MLS(メジャーリーグ・サッカー)、ロサンゼルス・ギャラクシーにスカウトされる。そしてカンポスはLAギャラクシーと契約を結び、96年にアメリカへ渡る。
96年6月16日、カルフォルニア州ローズボール・スタジアムに9万2千人の観客を集め、USカップ(4ヶ国対抗戦)の最終戦・アメリカ対メキシコの試合が行われた。当然メキシコのゴールはカンポスが守り、試合は2-2の引き分け、母国のUSカップ優勝に貢献する。
その30分後、カンポスはLAギャラクシーのGKとしてタンパベイ・ミューティニーとのMLS開幕戦に登場、サッカー選手としては前代未聞のダブルヘッダーとなった。しかも後半70分にはユニフォームを着替えてFWに変身、巧みな足技で詰めかけた観客を喜ばせている。
試合はLAギャラクシーが3-2で勝利、このあと無傷の11連勝を記録して西地区優勝(MLSカップは準優勝)を果たす。カンポスの二刀流スタイルと、そのカラフルなユニフォームはたちまちサポーターの心を掴み、MLS最初の外国人スターとして絶大な人気を誇った。
MLSのオフシーズンには、メキシコリーグのアトランテFCでプレー。このチームでも二刀流ぶりを発揮し、97年のある試合ではバイスクルシュートによるゴールも記録している。
96年のCONCACAFゴールドカップでメキシコは2連覇を達成、ゴールを守ったカンポスは全4試合を完封して優勝に貢献した。97年には2度目のコパ・アメリカに出場、2大会連続の決勝進出とはならなかったが、3位入賞の好成績を残している。
98年6月、Wカップ・フランス大会に出場。しかし自身がデザインした派手なユニフォームの着用が認められず、フィールドプレイヤーと同じユニフォームで臨む試合もあった。G/L初戦はハ・ソクジュの25mフリーキック弾を許し韓国に先制されるが、その後逆転し3-1の勝利を収める。
続く第2戦は退場者を出してベルギーに2点をリードされるも、後半巻き返して2-2の引き分けに持ち込んだ。最終節のオランダ戦も先に2点を奪われて苦しい展開となるが、1点を返した後半終了直前にエルナンデスが起死回生の同点弾。勝点1を拾ったメキシコは、グループ2位で2大会連続のベスト16に進んだ。
トーナメント1回戦ではドイツと対戦。エルナンデスのゴールでメキシコは大会初のリードを奪うも、終盤クリンスマンとビアホフに決められて1-2の逆転負けを喫してしまう。4試合のすべてでゴールを守ったカンポスだが、計7失点と不本意な内容で終わってしまった。
99年7月には日本も参加したコパ・アメリカに出場。G/Lではブラジルに敗れるもチリとベネズエラに勝利しベスト8入り、PK戦にもつれた準々決勝ではペルーの2人を止めて準決勝進出に貢献する。準決勝ではまたもブラジルに敗れて決勝には進めなかったが、メキシコは2大会連続の3位入賞を果たす。
98年には古巣のプーマスへ復帰。だが次第に控えに廻されるようになり、欠場したFWの代役も務めたがカンポスの出番は減っていった。99年に香港で開催されたニューイヤーズ・カップにメキシコが招待され、カンポスも代表メンバーとして参加。だが父親が誘拐されたという報を聞いて、トーナメント途中に帰国している。
02年にはWカップ・日韓大会のメンバーに選ばれるが、第3キーパーに甘んじたカンポスに出場の機会はなかった。04年、メキシコ1部プエブラFCでのプレーを最期に、39歳で現役を引退する。
代表では10年の間レギュラーGKを務め130試合に出場、メキシコリーグでは最優秀GKに5度選ばれた。そして26年間を過ごしたプロ生活で、GKとしては異例の35ゴールを記録した。
引退後はメキシコ国内でファフトフード・チェーンを経営しながら、TVアステカのコメンテーターとして活動している。