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《 サッカー人物伝 》 クラウディオ・ジェンティーレ

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「 必殺の仕事人 」 クラウディオ・ジェンティーレ ( イタリア )

持ち前のハードタックルと鋭い読みで相手エースの動きを封じ、空中戦にも強さを見せたイタリアのCB。時にファールも厭わないタフなマンマークで「殺し屋」の異名をとり、そのしつこさ、冷酷さで恐れられたディフェンダーが、クラウディオ・ジェンティーレ( Claudio Gentile )だ。

名門ユベントスで守りの主力として長らく活躍。ディノ・ゾフ、ガエターノ・シレア、アントニオ・カブリーニとともに強固な守備陣を形成し、ビアンコ・ネリの70年代半ばから80年代半ばに掛けての黄金期を支えた。

イタリア代表としては、78年と82年のWカップに出場。スペイン大会のアルゼンチン戦では、執拗なマンマークで若きマラドーナを封じ、ブラジル戦ではジーコと激しく渡り合って名勝負を繰り広げた。そして決勝の西ドイツ戦では、好調リトバルスキーを沈黙させる働きで、イタリアの優勝に大きく貢献する。

ユベントス入団

ジェンティーレは1953年9月27日、北アフリカ・リビアの首都トリポリに生まれた。ジェンティーレの名前は、英語で言う「ジェントル(紳士・礼儀正しい)」。だがのちにディフェンダーとなった彼は、その名に似つかわしくないタフなプレーを見せることになる。

8歳の時に両親がルーツを持つイタリアへ移住。北部の町ブルナーテで少年期を過ごすと、15歳で地元に近いヴァレーゼのユースチームに入団する。71年に17歳でトップチーム昇格を果たすが、器用さに欠け、さしたる強みも持たないジェンティーレの出番はなく、すぐに4部のアローナへ貸し出された。

若きジェンティーレはそのアローナで守備のスキルを磨き、チームの主力として1年を過ごすと、翌72-73シーズンにはセリエBに降格したヴァレーゼへ復帰する。そしてセリエA再昇格を目指すヴァレーゼで34試合に出場、チームに不可欠な存在となった。

73-74シーズン、19歳のジェンティーレはセリエA・ユベントスへの移籍を果たす。当時のユベントスは世代交代期を迎えており、トリノの名門クラブは若手成長株の将来性を買ったのだ。73年8月のコッパ・イタリア、アスコリ戦で公式戦デビュー、12月のエラス・ヴェローナ戦でセリエAへの初登場を果たした。

73-74シーズンは13試合に出場。翌シーズンにはアタランタからガエターノ・シレアが加入し、強力なCBコンビを組む。泥臭さ、激しさを身上とするストッパーのジェンティーレと、優雅なスタイルで守備を統率するリベロのシレア。剛と柔による二人の組み合わせは見事に融合し、経験豊富なGKディノ・ゾフとともに強力なDF網を築いた。

「ゾナ・ミスタ戦術」の申し子

74-75シーズン、ジェンティーレは30試合中29試合に出場。ホームでの失点を僅か3点に抑え、ユベントス2年ぶりのリーグ優勝に貢献する。翌75-76シーズンはタイトルを逃したが、76-77シーズン、ジョバンニ・トラッパトーニがユベントスの監督に就任。ここからクラブの10年続く黄金期が始まる。

トラッパトーニ新監督は、カテナチオの進化形である「ゾナ・ミスタ戦術」を採用。アタランタから移籍してきた若手SBのアントニオ・カブリーニを加え、4バックによる組織的かつ流動的な守備戦術でユベントスに最盛期をもたらした。

トラッパトーニの就任1年目、ユベントスはスクデットを獲得。翌77年4月にはスペインのアスレティック・ビルバオを1-0と下して、UEFAカップ優勝を果たし、クラブは初のヨーロッパタイトルを手にする。

77-78シーズンはセリエA2連覇を達成、78-79シーズンはリーグ3位に終わってしまったものの、コッパ・イタリアを13年ぶりに制覇する。こうした常勝チームの「ゾナ・ミスタ戦術」のもとで、ジェンティーレのマンマークDFは輝きを見せ、その技はもはや比肩する者のいないレベルまで達したのである。

そして彼の非情な仕事人ぶりは国際大会でも名を馳せるようになり、リビア人の血を受け継ぐジェンティーレは、かの国の独裁者の名前をとって「カダフィ」と呼ばれ、恐れられるようになる。

イタリアの世代交代

イタリア代表には75年に初選出。欧州選手権のグループ予選、4月のポーランド戦で初キャップを刻んだ。だがグループ予選ではクライフ擁するオランダの後塵を拝し、76年の本大会へ進むことは出来なかった。70年のWカップ準優勝以降アズーリは世代交代が遅れ、若手の台頭が期待されるようになった。

76年には、Wカップ・欧州予選が始まった。新生を図るアズーリは、ジェンティーレ、ゾフ、シレア、タルデリ、ベッテガとユベントス勢が大半を占め、当時のセリエA勢力図を反映したチーム編成となった。イタリアはG/Lのライバル、イングランドを得失点差でかわし、本大会への出場を決める。

78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。本大会の代表メンバーにはカブリーニも加わり、イタリアのDF陣は殆どユベントスの選手で構成されることになる。1次リーグの初戦は、プラティニ擁するフランスとの対戦になった。

開始1分に先制を許すも、29分にパオロ・ロッシのゴールで同点。後半の52分に逆転すると、残り時間はフランスの反撃を堅守で封じ、2-1の勝利を収める。続くハンガリー戦も3-1の勝利、最終節では開催国アルゼンチンをロッシとベッテガの連携で1-0と下し、堂々のグループ1位で2次リーグに進んだ。

2次リーグの初戦は、前大会チャンピオン西ドイツとの対戦。試合は両チーム守備的にゲームを運び、0-0のスコアレスドローに終わる。第2戦のオーストリア戦はロッシのゴールで1-0と勝利、ジェンティーレは相手エースのクランクルを封殺した。

決勝進出を懸ける最終節の対戦相手は、前大会準優勝のオランダ。クライフの抜けたオレンジ軍団との戦いになった。開始18分、オランダSBのブランツがオウンゴール。早くもリードを奪ったイタリアだが、後半50分、ブランツ汚名返上のロングシュートで同点とされてしまった。

そして終盤に入った74分、オランダのアーリー・ハーンが地を這う30mのシュート。名手ゾフの伸ばした手を弾き、逆転となるゴールを決められてしまった。こうしてイタリアは1-2と敗れて決勝進出を逃し、3位決定戦でもブラジルに1-2と逆転負けを喫してしまう。

それでもジェンティーレは、ゾフ、シレアとともに7試合フル出場を果たし、次の大会に向けて大きな経験を積んだ。そして大会前はあまり期待を持たれていなかった新生アズーリも、その健闘ぶりに評価は一変、帰国後は国民の暖かい声援に迎えられることになる。

「殺し屋」の本領

79-80シーズンは無冠に終わってしまったユベントスだが、翌80-81シーズンにスクデットを奪回。81-82シーズンには再びリーグ2連覇を成し遂げた。だが80年にはカルチョを騒がす八百長事件(トトネロ)が発覚、関与を疑われたヴィチェンツァのロッシらが長期の出場停止処分となった。

その80年には自国開催の欧州選手権が開催されるが、カルチョ・スキャンダルで何人かの主力を失ってしまったアズーリは得点力不足に陥ってしまう。イタリアの戦った4試合で記録したのは僅か2ゴール、地元の利を生かせずに大会4位に終わってしまった。

82年4月、出場停止処分の解けたロッシが移籍したユベントスで復帰。そしてWカップの本大会が始まる直前、ベアルツォット監督の判断で代表にも招集される。そして82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕した。

1次リーグ、イタリアはポーランドに0-0、ペルーに1-1、カメルーンに1-1と3戦全部を引き分け、頼みのロッシも調子が上がらず、得点力不足は解消されなかった。それでも僅かの差でカメルーンをかわし、どうにかグループ2位で2次リーグに進んだ。

2次リーグの初戦は、マラドーナを擁するアルゼンチンとの試合だった。ベアルツォット監督から2日前にマラドーナのマーク役を命じられたジェンティーレは、部屋にビデオを持ち込んでその動きを研究、万全の準備で与えられた任務へ臨む。

前半はファールを交えた厳しいマークでマラドーナを封じ、0-0で折り返した後半、イタリアは攻勢に転じる。59分、ブルーノ・コンティのサイド突破からタルデリの先制点が生まれ、67分にはロッシのシュートの跳ね返りをカブリーニが決めて、イタリアが2点をリードする。そのあとアルゼンチンの反撃を1点に抑えて、2-1と勝利した。

23回にも及ぶマラドーナへの激しいファールは、アルゼンチンのメノッティ監督から「あれはサッカーではない」の批判を受けるが、「我々はワルツを踊ってるんじゃない」とジェンティーレはその口撃を一蹴。「マラドーナを止めるのは簡単ではなかったが、自分のやり方で上手くいった。一晩中彼を研究した結果だ」と胸を張った。

 

Wカップ優勝の功績

準決勝進出を懸ける第2戦は、ブラジルとの戦いとなった。開始5分、カブリーニのクロスからロッシが先制点。その7分後、ジーコがジェンティーレのマークをかいくぐり巧みなヒールパス、ソクラテスの同点弾を演出した。

25分、トニーニョ・セレーゾがゴール前で横パスを送ると、それを狙っていたロッシがインターセプト、ボールを奪って勝ち越し点を決める。こうして前半はイタリアが2-1のリード。ハーフタイムを迎える頃には、ジェンティーレに引っ張られ続けたジーコのシャツが破れていた。

後半に入った68分、T・セレーゾとの連携でファルカンが豪快な一撃、ブラジルが再び追いつく。しかし終盤に入った74分、イタリアCKのチャンスにタルデリがシュート。ゴール前にいたロッシが触ってハットトリックを決める。ブラジルは反撃を試みるも、ゾフの好守で失点を防いだ。

こうしてイタリアが激戦を制し、トーナメントの準決勝へ進む。後半はジーコの存在を消し去って勝利に貢献したジェンティーレだが、累積警告によって次戦は出場停止となってしまう。それでも準決勝はロッシの2点でポーランドを打ち破り、イタリアは3大会ぶりの決勝へ駒を進めた。

決勝の相手は西ドイツ。相手エース、ルンメニゲには18歳のDFベルゴミがつき、ジェンティーレは好調さを見せるリトバルスキーのマークに当たった。両チーム慎重な戦いで試合は進んだが、24分にコンティが倒されイタリアがPKを獲得。しかし絶好のチャンスでカブリーニがPKを外してしまい、前半を0-0で終える。

後半の57分、タルデリのリスタートからジェンティーレが中央へ低いクロス、それに反応したロッシが先制点を叩き込む。69分にはシレアのパスを受けたタルデリのシュートで2-0、さらに89分には決定的な追加点が生まれた。

終了間際にブライトナーのシュートで1点返されるが、西ドイツの反撃もここまで。イタリアは3-1と逃げ切り、44年ぶり3回目の優勝を飾った。大会のヒーローとなったのはロッシだが、相手エースを封じたジェンティーレの功績も大きなものだった。

黄金期ユベントスへの貢献

82-83シーズン、ユベントスはリーグ2位に終わったものの、コッパ・イタリアに優勝、チャンピオンズ・カップの決勝にも進むが、惜しくも優勝を逃してしまう。すでに30歳のベテランとなっていたジェンティーレは、スイーパーや守備的MFも務めるようになっていた。

ユベントスは83-84シーズンにリーグ優勝を奪い返し、ジェンティーレはこれを置き土産に名門クラブを去った。ユベントスに在籍した10年で、リーグ優勝6回、コッパ・イタリア優勝2回、UEFAカップとカップウィナーズ・カップも1度ずつ制するなど、多くのタイトル獲得に貢献した。

84年にはWカップ・メキシコ大会のメンバーにも選ばれるが、試合に出場することはなく、大会終了後に代表からも退いた。代表では71試合に出場、1得点を記録している。

その後フィオレンティーナへ移籍。ここで3シーズンを過ごしたあとの88年、ピアチェンツァでのプレーを最後に34歳で現役を引退した。引退後は指導者の道を進み、2000年にイタリアU-21の代表監督に就任。04年にはU-21欧州選手権で優勝を果たし、同年のアテネ・オリンピックでは、イタリアに銅メダルをもたらした。

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