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《 サッカー人物伝 》 ローター・マテウス

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「 バイエルンの猛将 」 ローター・マテウス ( ドイツ )

173㎝、70㎏と小柄な身体だが、確かな技術と豊富な運動量を兼ね備え、旺盛なファイティングスピリットでチームを統率したドイツの猛将が、ローター・マテウス( Lothar herbert Matthäus )だ。

20年の長きにわたってドイツ(西ドイツ)代表で活躍、同国最多記録となる150キャップを誇り、「ドイツの鉄人」と呼ばれた。5度出場したWカップでは優勝1回、準優勝2回に輝き、決勝で2度まみえたマラドーナに「彼は僕の最大のライバル」とまで言わせた。

名門バイエルン・ミュンヘンでも、中心選手として数々のタイトル獲得に貢献。攻撃からリベロまでこなせる万能さを見せた。インテル・ミラノ時代には、バロンドール賞とFIFA年間最優秀選手に選ばれている。

闘争心の男

マテウスは1961年3月21日、バイエルン州のエアランゲンに生まれた。決して裕福とはいえない労働階級で育ち、ハングリー魂が身に染みついたマテウスは、やがてサッカー選手としての成功を目指すようになる。

少年時代は地元のユースチームで活躍。容赦なくタックルを仕掛ける闘争心、好守の切り替えの早さ、ゲームの流れを的確に読み取る眼などは、早くからユースのレベルを超えていった。

18歳となった79年、ブンデスリーガの強豪ボルシア・メンヘングラッドバッハと契約、プロ生活をスタートさせる。

まだ10代のマテウスは、そのファイティングスピリットで頭角を現し、1年目から28試合に出場、4得点を記録した。翌80-81シーズンは33試合に出場。万能型MFとして好守に活躍し、10ゴールを挙げてレギュラーの座を確立する。

81-82シーズンも33試合に出場、強靱な肉体によるタフなマークは「エースキラー」と恐れられた。その活躍の一方、気性の激しさからチームメイトや審判とぶつかることも多く、問題児というレッテルも貼られるようになる。

最初のワールドカップ出場

西ドイツ代表には80年に初選出され、6月14日の欧州選手権、対オランダ戦という大舞台でデビューを飾った。その後マテウスの出番は無かったが、いきなりの国際大会で優勝という貴重な経験を積む。

そしてその2年後の82年、21歳でWカップ・スペイン大会に出場する。1次リーグ第2戦となるチリとの試合、2-0とリードした後半60分から守備的MFとして交代出場し、マテウスは初めてWカップの舞台に立った。

ルンメニゲのハットトリックでリードは4点に広がり、このままクリーンシートで終えようとした89分、マテウスの不用意なパスがカットされ、そのまま失点に結びついてしまった。

このあと西ドイツは決勝まで進む(イタリアに敗れて準優勝)が、マテウスに与えられた出番は、「ヒホンの恥」と呼ばれた無気力試合、オーストリア戦での途中出場のみだった。

バイエルン戦でのPK失敗

84年5月、ボルシアMGはDFBポカール(ドイツ杯)の決勝へ進出、その対戦相手はバイエルン・ミュンヘンだった。試合は延長を戦っても1-1で決着がつかず、勝負はPK戦にもつれ込んだ。

1番手に登場したマテウスはPK失敗、このあとバイエルンの4人目もシュートを外してサドンデスとなったが、ボルシアの8人目が止められてタイトルを逃してしまった。

実はこの時、マテウスのシーズン終了後のバイエルンへの移籍が決まっており、1番手でのPK失敗は様々な憶測を呼んだ。このことで、翌シーズンにバイエルンで出場したボルシアとの試合では、古巣のサポーターからブーイングを浴びせられることになった。

渾身のフリーキック

84年の欧州選手権で代表レギュラーに定着するも、西ドイツはG/L敗退を喫してしまう。86年には、2度目のWカップとなるメキシコ大会に出場、G/Lの初戦で南米の古豪ウルグアイと戦った。

開始4分、マテウスの出した安易なバックパスが奪われ、ウルグアイに先制を許してしまう。リードされた西ドイツは必死の反撃を行い、ようやく84分に追いついて引き分けに持ち込む。

マテウスは71分にルンメニゲと交代。すでに代表では中堅世代となっていたが、闘争心の先走るプレーには安定感を欠くきらいがあり、まだベッケンバウアー監督の充分な信頼を得ていなかった。

続く第2戦も先制を許しながら、スコットランドに2-1と逆転勝ち。しかし最終節のデンマーク戦では、「ダニッシュ・ダイナマイト」旋風の前に0-2の完敗を喫してしまった。

それでも西ドイツはG/L2位でベスト16に進出、決勝トーナメント1回戦でモロッコと対戦する。高い個人技を誇るモロッコを相手に、西ドイツは大苦戦、試合はスコアレスのまま終盤へ突入した。

マテウスが85分に放った強烈なシュートは相手GKの好守に阻まれるが、その2分後、西ドイツはゴールから30mの距離にFKのチャンスを得た。

ボールの後ろに立つマテウスは、モロッコの壁に空いた隙間を狙って渾身のキック。そのシュートは低い弾道でゴールネットへ突き刺さっていった。こうして西ドイツは1-0と勝利、準々決勝に進んだ。

準々決勝は地元メキシコを延長・PK戦で下し、準決勝でプラティニ擁するフランスを2-0と打ち破って2大会連続の決勝へ駒を進める。

マラドーナとの対決

決勝の相手はアルゼンチン、マテウスはベッケンバウアー監督からマラドーナのマークを命じられた。前半22分、マラドーナのフェイントに翻弄されたマテウスは、思わず後ろから倒してアルゼンチンにPKを与えてしまう。

そのセットプレーから西ドイツは失点、さらに55分にはマラドーナの起点のロングパスからバルダーノの追加点を許してしまった。

2点をリードされたことで、マテウスはマラドーナのマーカーを外れて攻撃に専念。それが功を奏し、74分にブレーメのCKからルンメニゲがゴール、80分にはまたもCKからフェラーのゴールが決まって2-2と追いつく。

さらに前掛かりになって攻勢を続ける西ドイツ、だがその裏に出来たスペースを、マラドーナは見逃さず狙った。そしてハーフライン手前から見事なパスが通り、そこへ駆け上がったブルチャガがシュート、アルゼンチンの決勝点が生まれる。

西ドイツは2大会連続の準優勝、マテウスは果敢なタックルでマラドーナの動きを封じにかかったものの、ここ一番で仕事をさせてしまい、悔しい思いを味わうことになった。

インテルの「ドイツ・トライアングル」

バイエルン・ミュンヘンでは、攻撃の中心として活躍。インテル・ミラノへ移籍したルンメニゲに代わり、チームのトップスコアラーとなった。84-85、85-86、86-87とリーグ3連覇に貢献する。

85-86シーズンはDFBポカールを制覇し、86-87シーズンはチャンピオンズ・カップの決勝へ進む。決勝のポルト戦はバイエルンが先制するが、終盤逆転されて1-2の敗戦、準優勝に終わってしまった。この屈辱は12年後にも繰り返されることになる。

88年6月には代表キャプテンとして自国開催の欧州選手権に出場。準決勝のオランダ戦はマテウスのPKで先制するも、ファン バステンに逆転ゴールを決められて決勝へ進めなかった。

88-89シーズン、バイエルンの同僚ブレーメと一緒にインテル・ミラノへ移籍。マテウスは持ち前の “ゲルマン魂” でチームを牽引し、マラドーナのナポリ、オランダトリオのACミランとの三つ巴を制して、インテル9季ぶりとなるリーグ優勝を果たす。

89-89シーズンにはクリンスマンが加わり「ドイツ・トライアングル」を形成、シーズン始めのスーパーカップを制する。マテウスはトラパットーニ監督のもとでゲームメーカーとしての才能を開花させ、インテルの10番を背負うことになった。

西ドイツキャプテン マテウス

90年、Wカップ・イタリア大会に出場。G/Lリーグ初戦のユーゴスラビア戦は、インテルのホームであるサンシーロ・スタジアムで行われた。前半28分、マテウスの強烈なミドルシュートで先制、2-1とした65分にもミドルシュートでリードを広げた。こうしてインテル・トリオを擁した西ドイツが、ユーゴスラビアを4-1と粉砕する。

第2戦もマテウスがミドルシュートを決めてUAEに5-1と圧勝、最終節のコロンビア戦は1-1と引き分けて、西ドイツはG/L1位で決勝トーナメントへ進んだ。

そしてトーナメント1回戦は、欧州選手権で苦杯を舐めさせられたオランダとの戦い。舞台は再びサンシーロ・スタジアム、オランダトリオを擁するACミランのホームでもあった。

前半22分、フェラーとライカールトが揉めて両者退場。しかし攻守の要を失ったオランダの方が痛手となった。後半51分、クリンスマンのゴールで先制、82分にもブレーメのゴールで2-0とした。終了直前にPKを与えてしまったが、余裕で2-1の勝利を収める。

準々決勝はマテウスのPKでチェコスロバキアに1-0と勝利、準決勝でイングランドを延長・PK戦の末下し、西ドイツは3大会連続の決勝へ進んだ。

決勝は、前大会と同じアルゼンチンとの対戦になった。だがアルゼンチンは主力4人を出場停止で欠き、頼みのマラドーナも満身創痍の状態。開始から一方的に攻める西ドイツだが、PK戦狙いで守りを固める相手に手こずってしまう。

それでも終盤の85分、フェラーが倒されPKを獲得、西ドイツは絶好のチャンスを得た。ここは主将のマテウスが蹴る場面だったが、試合中に負傷していたため大役をブレーメに譲る。ブレーメはこれを確実に決め、待望の1点を挙げた。

こうして西ドイツが1-0の勝利、4年前の雪辱を果たして、3度目のWカップ優勝を成し遂げた。持ち前の闘争心はそのままながら、冷静沈着さも身につけてマテウスはチームを統率。ベッケンバウアー監督とは激しい口論を繰り広げることもあったが、固い信頼関係を結んで代表を優勝へと導いたのである。

猛将の怒り

この活躍で同年のバロンドール賞に輝き、翌91年には創設されたばかりのFIFA年間最優秀選手にも選ばれる。セリエAの90-91シーズンは、キャリアハイとなる19ゴールを記録、UEFAカップでも優勝を果たし、マテウスは選手としての絶頂期を迎えた。

だが92年4月に前十字靱帯を損傷し、6月に行われた欧州選手権は不参加。東西統一後初めてのビッグイベントとなった大会は、決勝で伏兵のデンマークに敗れて準優勝に終わる。

シーズン終了後にはインテルを退団し、古巣のバイエルンへ復帰。ベテランとなったマテウスはリベロにポジションを移し、バイエルンの攻守を支えた。

94年6月、Wカップ・アメリカ大会に出場。だがマテウスのプレーは負傷の影響で精彩を欠き、準々決勝のブルガリア戦では先制のPKを決めたものの、ストイチコフのFKなどで逆転負けを喫してしまう。

この大会直後から、マテウスは何故かクリンスマンを敵視するようになった。そして負傷で代表を離脱した期間、クリンスマンがキャプテンを務めたことにマテウスは激怒、二人の不仲は表面化する。

96年の欧州選手権は、「クリンスマンが監督と結託して自分を追い出そうとしている」と主張して大会を辞退。クリンスマンはマテウスの攻撃を無視して衝突を避けたが、バイエルンの同僚でもあった二人の関係は、チームに深刻な悪影響を与えた。

鉄人の偉業

97年にクリンスマンが移籍してチームの分裂は逃れるも、騒動を起こしたマテウスは主将の地位を剥奪、代表にも呼ばれなくなった。

だが98年のWカップ・フランス大会前にリベロのマティアス・ザマーが負傷したこともあり、代表へ復帰する。G/Lの第2戦、ユーゴスラビア戦の後半開始からマテウスが登場。フィールドプレイヤーとしては最多の、W杯5大会連続出場を果たす。

このあとマテウスはレギュラーの座を奪い返し、準々決勝でクロアチアに敗れるまでW杯最多出場記録を25まで伸ばす。

カンプノウの歴史的敗戦

92年に移籍したバイエルンでも、5度のリーグ優勝と2度のDFBポカール優勝、そして自身2度目となるUEFAカップ制覇に貢献。代表やクラブ、個人でも数々の栄冠を手にしたマテウスに残されたタイトルは、チャンピオンズリーグ優勝だけとなった。

98-99シーズン、ついにそのビッグタイトルを手に入れるチャンスが訪れた。99年5月、チャンピオンリーグの決勝にたどり着いたバイエルンは、欧州王者を懸け、カンプノウ・スタジアムでマンチェスター・ユナイテッドと戦った。

試合は早くも前半6分にバイエルンが先制。マテウスは的確な読みでDFを支え、タイミングを心得た攻め上がりで、ユナイテッド相手に優位にゲームを進める。

81分、マテウスは守備固めのフィンクと交代、ベンチで優勝の瞬間を待つことになった。だが勝利が近づいたロスタイムの91分、ベッカムのCKからシェリンガムの同点弾が生まれ、バイエルンは土壇場で追いつかれてしまう。

そのリスタートから30秒後、攻勢を掛けたユナイテッドは再びCKのチャンスを獲得。ベッカムの蹴ったキックをシュリンガムが頭で落とし、スールシャールが右足で合わせて逆転のゴールをネット上に突き刺した。

試合終了の笛が吹かれ、ピッチに崩れ落ちるバイエルンの選手たち。「カンプノウの悲劇」を目の当たりにし、マテウスは呆然とするしかなかった。そのあとの表彰セレモニーでは、悔しさのあまり首に掛けられた準優勝メダルをすぐに外した。

指導者マテウス

00年には39歳でユーロ2000に出場。ドイツはG/L敗退となったが、マテウスは3試合のキャップを刻み、代表最多出場記録(欧州)を150まで伸ばした。

そのあと北米MLSのNY / NJメトロスターズに移籍し、01年に40歳で現役を引退。引退後は指導者の道を進んだが、現役時代の乱暴な言動が災いしたのか、国内クラブからオファーが舞い込むことはなかった。

その名声はドイツ国内よりむしろ国外の方が高く、ハンガリー代表やブルガリア代表、その他各国クラブの監督を務める。だがどこも目立った成績を残せず、いずれも短期間で任を解かれている。

また私生活も、幾度の結婚・離婚を繰り返すなど賑やかで、14年には28歳年下の女性と5度目の結婚をして、世間に話題を振りまいた。

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