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アナザーストーリーズ「マラドーナが神になった日」

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イングランド戦の伝説ゴール

今回のNHK『アナザーストーリーズ』は、86年ワールドカップのアルゼンチン対イングランド戦、マラドーナによる2つの伝説的ゴールに迫った【マラドーナが “神” になった日】

2020年11月25日、サッカー界のスーパーレジェンド、ディエゴ・マラドーナが60歳で急逝。世界中のファンがその死を悼んだ。

そのマラドーナが、“神” と称されるようになったのは、キャプテンとして自国をワールドカップ優勝に導いたメキシコ大会。中でも準々決勝のアルゼンチン対イングランド戦は、天才児が世界に衝撃を与えた試合だ。

今も語り継がれる「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルの衝撃。この伝説的ゴールを、歴史の証言者3人がそれぞれの視点で語る。

ピーター・シルトンの証言

まず最初の証言者は、対戦相手イングランドの名キーパー、ピーター・シルトン。シルトンはマラドーナの先制点を「あれは神のゴールじゃない。ペテン師のゴールだ」と辛辣に語る。

それでも「ジーコやプラティニのように上手い選手は他にもいたが、マラドーナはボールを持ってもスピードが落ちない。彼の登場以降、競技自体のスピードが上がった」とその凄さを評価。

82年のワールドカップはラプレーで退場になるなど若さを露呈したが、86年のメキシコ大会は世界最高の選手として大舞台に戻ってくる。

このときのアルゼンチンはまさにマラドーナのチーム。卓越した技とリーダーシップで攻撃を自在に操り、得点の殆どは彼のプレーから生まれていた。

こうしてアルゼンチンは順調に勝ち上がり、準決勝で「マルビナス(フォークランド)紛争」の因縁を持つイングランドとの戦いを迎える。

対するイングランドは、厳しいマークと人数を掛けたチェックでマラドーナを封じにかかった。前半はイングランドの作戦通り、マラドーナに仕事をさせず、0-0でハーフタイムを折り返す。

後半は得点を目指してラインを上げるイングランド、するとマラドーナにボールを持つ猶予が生まれた。

その5分過ぎ、ワンツーを狙ったマラドーナのパスをイングランドDFがクリア。だがそのクリアボールは高く舞い上がり、ゴール方向に流れていく。

ラインを抜け出してジャンプするマラドーナ。飛び出したシルトンと重なった瞬間、ボールはゴールネットへ吸い込まれていった。

シルトンはハンドのジェスチャーで主審に抗議。パンチングのために伸ばした腕はマラドーナの頭上にあり、彼のヘッドに当たっていないのは明らかだった。

だが疑惑のゴールが決まったあと、小躍りで喜びを露わにするマラドーナ。得点はそのまま認められた。彼は子供時代から「神の手」ゴールの常習者であり、人を欺くのに何の躊躇もなかったのだ。

「彼は名誉のためでなく、ただ勝つために戦っている。選手としては最高だけど、スポーツマンとしては最低だね」とシルトン。それでも「あのゴール(5人抜きドリブル)だけについては、誰も批判できない」と振り返る。

ホルヘ・ブルチャガの証言

第2の証言者は、アルゼンチンのMFとして歴史的ゴールを目撃したホルヘ・ブルチャガ。「副官」と呼ばれた、マラドーナからの信頼厚い選手だ。

アルゼンチンでは『D 10 S(DIOS=神)』と称されるマラドーナ。「あの試合で彼は、10番を背負った “神” になった」とブルチャガは語る。

「神の手」ゴールの3分後、未だそのざわめきがまだ収まらない中、自陣センターサークル付近でパスを受けたマラドーナは素早く反転。ドリブルでたちまち2人を抜くと、脚を伸ばすブッチャーもかわしてペナルティーエリアに突進する。

さらに前を塞ぐフェンウィックを手で押しのけゴール前へ。飛び出たシルトンの逆を突き、後ろからのタックルに倒れながら2点目のゴールを叩き込む。

これがFIFAの『20世紀最高のゴール』にも選ばれた伝説的プレー。歴史的瞬間をそばで見ていたブルチャガは、「(前半で警告を受けていた)フェンウィックを狙ったのは計算通り。マラドーナしか出来ないプレーだ」と賞賛。

そして、いの一番にマラドーナへ駆け寄り「なんてゴールを決めたんだ このクソ野郎が!」と声を掛けたとのこと。

このあと、西ドイツとの決勝戦で優勝を決める3点目を(スルーパスを出したのもマラドーナ)を入れたブルチャガだが、「最も記憶に残るのはイングランド戦」と証言。

さらに「マラドーナが神になった瞬間を選ぶなら、あの “5人抜き”。サッカーのすべての歴史で、あれ以上の奇跡的瞬間はない」と熱弁する。

弟ウーゴ・マラドーナの証言

3人目の証言者は、マラドーナの8つ下の弟ウーゴ・マラドーナ。この歴史的瞬間は、ブエノスアイレスの自宅で見ていたとのこと。

「5人抜きゴールは自分のアドバイスのおかげ」と嬉しそう語るウーゴ。その後、ディエゴに呼ばれてナポリに入団するも、一度も公式戦に出場することなく、欧州の各クラブを転々とすることになった。

そんな彼に声を掛けてきたのが、92年にプロ化したばかりの日本のクラブ。ジーコ、リネカー、リトバルスキーといった晩年期のスターたちがJリーグに参戦する中、ウーゴは旧JFL2部のPGMフューチャーズ(のち静岡から佐賀へ本拠地を移転、現サガン鳥栖)でプレーする。

その後、福岡ブルックス(アビスパ福岡)、コンサドーレ札幌と籍を移して日本でプレーを続けた。97年には27試合19ゴール(リーグ戦10ゴール)の活躍で、札幌を初のJ1昇格に導いている。

昇格決定後の8日後(97年10月30日)、兄のディエゴが現役を引退。当初、弟の日本行きに「頭がどうかしたのか」反対したディエゴも、「お前が正しかった。お前はお前にしかできないキャリアを積んだな」と認めてくれたそうだ。

日本では7年間プレーし、172試合出場86ゴールと活躍した。それからアルゼンチンに戻り、2000年に現役引退。指導者の道へ進む。

12年にかつてディエゴが活躍したナポリへ移住。英雄マラドーナを称えるこの街で、兄の突然の訃報を知ることになる。

死去の2日前の早朝3時、ディエゴから「今から踊りにいくんだ」と電話が掛かってきたとのこと。ウーゴは「頭を手術したばかりだろ 無理すんなよ」と返し、結局それが兄弟最後の会話となった。

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