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《 サッカー人物伝 》 ロナウド

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「 世紀をまたいだフェノメノ 」 ロナウド ( ブラジル )

スピード、テクニック、身体能力、得点感覚と、FWに必要な資質を高い次元で兼ね備えた驚異のストライカー。爆発的な突破とやすやすとゴールを陥れる力で「フェノメノ(怪物・超常現象)」と呼ばれたのが、ロナウド( Ronaldo Luíz Nazário de Lima )だ。

98年のWカップ決勝は不慮の事態でフランスに敗れたが、世紀をまたいだ02年大会で優勝を果たして雪辱。06年の大会では、ゲルト・ミュラーの持つW杯通算最多得点を更新する15ゴールを記録した。

02年からは「ギャラクティコ(銀河系軍団)」レアル・マドリードの一員として活躍。度重なる故障で全盛期の走力、突破力は陰を潜めたが、円熟味を増した技で2度目のピチーチ賞(得点王)を獲得している。

ブラジルの怪物出現

ロナウドは1976年9月22日、リオ・デ・ジャネイロ郊外のベント・リベイロに3番目の子供として生まれた。父は電話局の技師、母は自宅の近くで働く店員。家庭は決して裕福ではなかったが、友達とサッカーに明け暮れる毎日を送り、すくすくと育っていった。

11歳でフットサルチームに加わり、狭いスペースでボールを操る足技を磨く。この頃の夢は「いつかフラメンゴの選手となって、ジーコのようなゴールゲッターになる」というものだった。

13歳の時、両親を説得して学校を辞めると、地元クラブのインドアチームとアウトドアチームのストライカーとして活躍する。寝坊で遅刻しながら、出場残り5分で立て続けに2ゴールを決めたり、ある試合では1人でチーム12得点のうち11ゴールを叩き出すという快挙を演じたりと、その怪童ぶりがファンの間で話題となっていった。

90年には、憧れだったフラメンゴの入団テストに合格。しかしこの頃、母と父が離婚。家計が苦しくなったことから、遠方のクラブへ通う交通費が工面できなくなり、フラメンゴ入団を諦めることになる。

だが地元クラブで活躍するロナウドの才能は、すぐに幾つかの有力チームの目に止まり、93年には名門クルゼイロにスカウトされて16歳でプロ契約を結ぶことになった。

5月25日の州選手権カルデンセ戦でプロデビュー。同年11月7日のバイアー戦で5ゴールを決め、ブラジル全国選手権では16試合14ゴールの活躍で得点王を獲得。チームのコパ・デ・ブラジル優勝にも貢献し、若き怪物はブラジル全土から注目を浴びる存在となる。

代表での修業時代

ブラジル代表には17歳で招集され、94年3月のフレンドリーマッチ・アルゼンチン戦でデビューを果たす。このまま6月のWカップ・アメリカ大会のメンバーにも選ばれるが、出場機会を得ることなく優勝を経験する。

それでも大会MVPを獲得したロマーリオに可愛がられ、エース・ストライカーとしてのノウハウを学ぶことになった。

96年には、ベベトー、リバウドロベカル、アウダイール、ジュニーニョとスター選手を揃えた「ドリームチーム」の一員(登録名はロナウジーニョ)として、アトランタ五輪に出場する。

五輪初優勝を狙ったブラジルだが、初戦の日本戦で敗戦を喫し出鼻を挫かれると、準決勝でナイジェリアに敗れて銅メダルに終わってしまった。ちなみにロナウドは、日本戦の後半64分に交代で出場している。

「フェノメノ」誕生

クルゼイロで得点を量産するロナウドには、早くもヨーロッパのクラブからオファーが殺到する。Wカップ出場後の94年8月、エール・ディヴィジのPSVアイントホーフェンへ移籍。母・兄とともにオランダへ渡った。

デビュー戦でいきなり初ゴールを記録、1年目から32試合で30ゴールを挙げる活躍で、リーグ得点王を獲得する。

2年目のシーズンも13試合12ゴールと驚異的なペースで得点を重ねていたが、膝の手術で後半の6ヶ月を棒に振ってしまう。そしてこれが、度重なる故障との戦いの始まりとなった。

進行していたインテルへの移籍話は怪我でご破算となったが、アトランタ五輪前の96年6月に移籍金2000万ドル、年俸200万ドルの条件でバルセロナからオファーが舞い込み、戦いの舞台をスペインへ移すことになった。

リーガ・エスパニョーラが開幕すると、ゴールを量産するロナウドの活躍は連日新聞の一面を賑わすようになり、雑誌にはペレマラドーナとの比較特集が組まれた。

こうしてスペイン全土には、髪を短く刈り上げ仕草を真似る「ロナウド・マニア」が出現。中でも10月のコンポステラ戦、DFをかわしながら60mを駆け抜けたドリブルでの得点は、世界中のファンを驚嘆させた。

96-97シーズンは、37試合34ゴールでリーグ得点王を獲得。さらにコパ・デル・レイ(国王杯)優勝、欧州カップウィナーズ・カップ制覇の原動力となり、20歳にして同年のFIFA最優秀選手に選ばれる。

インテルは700万ドルの年俸でロナウドとの契約を延長。だがこの契約は、クラブの資金不足やロナウド代理人の移籍を巡る駆け引きなどでトラブルに発展。事態はスペインサッカー協会とFIFAを巻き込む騒動となるが、すったもんだの挙げ句、1年でバルサを去りイタリアのインテルへ移籍する。

97-98シーズン、守備的なセリエAでも32試合25ゴールと驚異的な得点力を発揮し、UEFAカップ優勝に貢献。「フェノメノ」と呼ばれるようになったロナウドは、2年連続のFIFA最優秀選手と南米選手初のバロンドール賞に選ばれる。

若きエースへの重圧

97年6月、ボリビアで開催されたコパ・アメリカに出場。ロナウドはロマーリオとの「Ro-Ro」コンビで5得点と大活躍、決勝のボリビア戦では1得点1アシストを決め、4大会ぶりの優勝に貢献する。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕するが、直前でロマーリオが怪我で離脱。ベベトーと2トップを組むも、優勝候補への期待は、ロナウド1人に集中してしまうことになった。

G/Lの第2戦、モロッコ戦でリバウドのアシストからW杯初ゴールを記録。最終節でノルウェーに敗れたが、グループ1位でベスト16に勝ち上がった。

トーナメントの1回戦では、サモラノサラスの強力2トップ「Za – Sa」コンビを擁するチリと対戦。サンパイオとロナウドが2得点ずつを挙げ、4-1の圧勝で南米対決を制する。

準々決勝は苦戦しながらデンマークを3-2と退け、準決勝でオランダと戦った。0-0でハーフタイムを折り返し、後半開始直後の20秒、リバウドからの絶妙なパスでロナウドが抜け出しブラジルが先制。

このあと守備を固めて逃げ切りを図るも、87分、R・デブールの放ったセンタリングをクライファートに頭で合わされ、土壇場で追いつかれてしまった。

このあと延長120分を戦っても決着はつかず、勝負はPK戦にもつれ込んだ。1人目で登場したロナウドは落ち着いてシュートを決め、続く3人もPK成功。守護神のタファレルがオランダの2本を止め、ブラジルは2大会連続の決勝へ進出する。

決勝は、開催国フランスとの対戦だった。その決勝の朝にロナウドが発作を起こして入院、試合前のメンバーリストにはFWエジムンドの名が記された。

だが病院から戻ったロナウドは、ザガロ監督に志願して強行出場。当然ながら病み上がりの身体は動きが重く、集中力を欠いたブラジルはフランスに0-3の完敗を喫してしまった。

ブラジル国民、サッカー協会、スポンサーからの大きな期待、そして故障と疲労も加わり、若いエースに過剰な負担が掛かってしまったのだ。それでもロナウドには、大会MVPの名誉が与えられた。

相次ぐ故障

98-99シーズンは膝の痛みに苦しみ、19試合の出場に留まるも14ゴールを記録した。99年6月にはパラグアイで開催されたコパ・アメリカに出場。5ゴールを挙げて得点王に輝き、ブラジルの2連覇に貢献、エースとしての復活を遂げた。

その矢先のリーグ戦、11月21日に行われたレッチェとの試合で右膝靱帯を部分断裂。それから4ヶ月に及ぶリハビリを慎重に行い、翌00年4月のコッパ・イタリア決勝のラツィオ戦で途中出場を果たす。

だがロナウドがフィールドに登場した僅か6分後、「ブチッ」の音とともに絶叫をあげてピッチへ崩れ落ちるエースの姿があった。今度は同じ箇所を完全断裂、ロナウドの唯一の弱点は、強靱な肉体を支えきれない自身の膝だったのだ。

致命的と言える程の重傷を負ったロナウドには、「再起不能」という声も囁かれた。それでも3度目の手術を受けた彼は、17ヶ月を超える歳月を費やしてリハビリに専念。選手としての復活を目指した。

00-01シーズンをまるまる棒に振るが、01-02シーズン終盤のブレシア戦で復帰。さっそく2ゴールを挙げると、残り10試合で7ゴールを記録し、完全復活を印象づけた。

世紀をまたいだリベンジ

ブラジル代表にも復帰を果たし、02年6月のWカップ・日韓大会に出場。まとまりの悪さが危惧されていたセレソンだが、G/Lでロナウド、リバウド、ロナウジーニョ “3R” の攻撃陣が大爆発する。

初戦はロナウドとリバウドのゴールでトルコに2-1と逆転勝ち。第2戦は、ロベカルを加えた “4R” 全員が得点を挙げ、初出場の中国を4-0と粉砕する。

最終節のコスタリカ戦はロナウドが2点を先制、5-2の勝利を収める。こうして全勝を果たしたブラジルは、余裕でベスト16に勝ち上がった。

トーナメント1回戦は、ロナウドとリバウドの4試合連続ゴールでベルギーに2-0と快勝。準々決勝は、ロナウジーニョの活躍でベッカムのイングランドを2-1と撃破する。

準決勝は、G/Lでも戦ったトルコとの対戦。この試合から「大五郎カット」で登場したロナウドは、後半の49分にGKリュシュトゥのタイミングを外すトゥー・シュート。トルコ守護神の堅守を打ち破った。

ロナウドの決勝点でトルコに1-0の勝利、ブラジルは3大会連続の決勝へ進む。そして決勝の相手となったのは、Wカップ初対戦となるドイツだった。

前半は攻撃力に勝るブラジルが優勢。しかしドイツの守護神、カーンの堅い守りで得点を塞がれる。後半67分、その名手カーンがリバウドのシュートをファンブル、すかさず詰めたロナウドが先制点を決めた。

さらに79分、リバウドのスルーパスからロナウドが追加点、勝負を決定づけた。こうしてブラジルが2-0の勝利、2大会ぶり5度目の優勝を成し遂げる。8ゴールとエースの活躍を見せたロナウドは大会得点王に輝き、4年前のリベンジを果たした。

「銀河系軍団」のストライカー

Wカップで栄冠を手にしたあと、インテルを離れてレアル・マドリードへ移籍。ラウルフィーゴジダン、ロベカルら世界のスーパースター(翌年にはベッカムも加入)を揃えた「銀河系軍団」の一員となった。

1年目の02-03シーズンは23ゴールを記録、2季ぶりのリーグ制覇に貢献する。12月に行われたトヨタカップのオリンピア(パラグアイ)戦では先制点を挙げ、優勝の立役者となった。

翌03-04シーズンは連覇を逃すも、24ゴールでスペインリーグ2度目の得点王(ピチーチ賞)を獲得。04-05シーズンも21ゴールの活躍を見せた。

膝の故障と肥満により、かつてのようなスピードと運動量は失われたが、技術と得点感覚は円熟味を増していた。ほとんどゴール前から動かなくても、ジダンとフィーゴが最高のお膳立てをしてくれたのだ。

06年には4度目となるWカップ・ドイツ大会に出場。5度目の優勝は果たせなかったが、日本戦の2得点とガーナ戦のゴールでW杯通算得点を15とし、ゲルト・ミュラーの記録を更新する。(のち、ドイツのクローゼに抜かれて歴代2位)

太っちょロナウド

しかし年齢とともにパフォーマンスは衰え、06-07シーズンにカペッロがレアルの監督に就任すると、ロナウドはベンチウォーマーに追いやられてしまった。07年1月にはACミランへ移籍、しかし怪我と体重増加で満足なプレーは出来ず、「太っちょ」と揶揄され2シーズンで契約は終了となった。

09年、ブラジルに戻ったロナウドはコリンチャンスと契約。公式戦15ゴールを挙げ、コパ・ド・ブラジル優勝とサンパウロ州選手権制覇に寄与する。

10年のWカップ・南アフリカ大会を最後の花道にすることを望んだが、ドゥンガ監督の構想外となり、5度目の出場は叶わなかった。

11年2月、34歳のロナウドは6月の代表親善試合、ルーマニア戦をもって現役からの引退を発表。ルーマニア戦は15分のみの出場となったが、19歳のエース・ネイマールとの共演を果たしている。

フル代表は98試合に出場。62得点はペレ、ネイマールに続く同国歴代3位の記録である。

引退後は代理人業、コメンテーター、クラブオーナーと多方面で活躍。自国開催の14年Wカップでは、組織委員会の理事を務めている。

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