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《 サッカー人物伝 》 パトリック・エムボマ

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「黒豹来襲」パトリック・エムボマ(カメルーン)

しなやかな身のこなしから、的確にゴールを捕らえる動きはまさに黒豹。抜群の身体能力と強いフィジカル、そしてテクニックの高さを備え、異次元のプレーで得点を量産したカメルーンのFWが、パトリック・エムボマ( Henri Patrick Mboma Dem )だ。

幼少の頃からフランスで育ち、パリ・サンジェルマンを経て97年にガンバ大阪へ移籍。4月12日のJ開幕戦、ベルマーレ平塚戦で見せたリフティングからのボレーシュートは、日本のファンに強い衝撃を与えた。

Wカップは98年と02年の大会に出場。日韓大会での中津江村との交流は大きな話題となった。00年にはO/A枠でシドニー・オリンピックに出場。リーダーとしてチームを牽引し、金メダル獲得に大きく貢献する。

傷だらけのパンサー

エムボマは1970年11月15日、カメルーンの大都市ドゥアラで生まれた。父親は元カメルーン代表のGK。情報エンジニアの仕事をフランスで見つけ、エムボマが2歳半のとき一家でパリに移り住む。

都市郊外のボンディに育ち、兄2人と地元クラブのスタッド・ド・レストに入団。一時サッカーを離れるも、20歳でパリ・サンジェルマンのテストを受け、21歳で研修生契約を結ぶ。

下部カテゴリーで英才教育を受けながらディヴィジョン3でプレー、90~93年の3シーズンで36試合、29ゴールを記録している。

93年にパリSGとプロ契約。すぐに下部リーグのシャルトールーに貸し出され、2シーズン目に29試合17ゴールと活躍する。

こうして94-95シーズンはパリSGに呼び戻されるが、左膝の靱帯、足首、ハムストリングと立て続けに痛め、思うような出場機会を得られなかった。

翌95-96シーズンはディヴィジョン・1のFCメスにレンタル。フランスリーグ・カップ優勝に貢献するなどの活躍が認められて1年でパリSGに戻るも、今度は監督と衝突して出場機会を失ってしまった。

「パリSGのエースになりうる大器」とエムボマへの期待は高かったが、怪我ばかりで能力を出し切れない状態に、「傷だらけのパンサー(豹)」と評されてしまう。

またもや他クラブに貸し出されるなど、不遇をかこっていたエムボマ。名古屋のベンゲル監督に誘われたことから日本に関心を持ち始める。そしてクラブをフリーとなったちょうどその時、ガンバ大阪からオファーが舞い込み、心機一転Jリーグでのプレーを決断する。

衝撃のリフティング・シュート

97年1月に来日。最初は生活習慣や文化のあまりの違いに戸惑うが、ガンバのヨゼップ・クゼ監督から指導を受けプレーの幅を広げる。

Jリーグデビュー戦となったのが、ベルマーレ平塚(現、湘南ベルマーレ)との4月12日の開幕戦。開始10分、ドリブルで突進するエムボマは、2人のマークを吹き飛ばしてシュート、クロスバーの跳ね返りを松波正信が頭で押し込んだ。

2点目、3点目も得点に絡み、大量リードで迎えた後半27分、松波からパスを受けると、左サイドでドリブル突破を図る。相手に当たってボールが浮き上がると、DFに囲まれながらリフティングで反転、落ち際を捉えたボレーシュートがゴール右隅に突き刺さった。

当時平塚の若き司令塔だった中田英寿が、「反則なほど衝撃的だった」と振り返ったスーパーゴール。無名だったエムボマの名を日本全国に知らしめた。

さらに開幕3試合で4ゴールの活躍。オールスターにも選ばれハットトリックを記録すると、「浪速の黒豹」のニックネームはたちまち定着していく。

このあとも規格外のプレーでゴールを量産。28試合で25ゴールを挙げ、Jリーグ得点王となる。ガンバはひたすら黒豹にボールを集めるという戦術を繰り広げて9連勝、かつて “お荷物” と呼ばれたチームが、第2ステージでは優勝争いを演ずるまでになっていた。

カメルーン代表 異質のエース

カメルーンとフランスの二重国籍を持つエムボマは、カメルーン代表を選択。94年のWカップでメンバー入りの候補に挙げられるが、この時は呼ばれず、95年12月のリベリア戦が代表デビュー。97年のW杯予選でようやくレギュラーとなる。

フランス育ちで英語も流暢、都会的な雰囲気を漂わす彼の個性は、カメルーンのサッカー界では異質の存在。なかなか祖国のナショナルチームに受け入れられなかったようだ。

それでも代表に定着すると、W杯最終予選の6試合で5ゴールの大活躍。Wカップ3大会連続出場の原動力となった。

98年6月、Wカップ・フランス大会に出場。しかしエムボマに与えられたのは、ボランチという不慣れなポジション。G/Lの初戦はオーストラリアに1-1と引き分けるも、次のイタリア戦で0-3の完敗を喫してしまう。

最終節のチリ戦でようやくFWとして起用され、1点をリードされた55分、高い打点からのヘディングシュートで初ゴールを記録する。だが試合は1-1と引き分け、結局1勝も挙げられずにG/L敗退となった。

Wカップ終了後の7月、Jリーグ・シーズン途中だったガンバを退団し、イタリアのカリアリへ移籍。前年総合4位と健闘したガンバも、エムボマが移籍すると15位へ低迷してしまう。

アフリカ・ネイションズカップ優勝

カリアリではまずまずの成績を残し、カメルーン代表として00年1月にアフリカ・ネイションズカップ(アフリカ大陸選手権)へ出場する。

G/Lの初戦は開催国ガーナと1-1の引き分け。第2戦は当時17歳のFWサミュエル・エトーとのアベック弾で、コートジボワールに3-0の快勝を収める。最終節はトーゴに0-1の敗戦。4チームが勝ち点で並ぶ混戦となったが、カメルーンが得失点差で1位を確保する。

準々決勝は、エトーの先制ゴールでアルジェリアに2-0と勝利。準決勝はエムボマが2点、エトーもゴールを決めてチェ二ジアに3-0と圧勝した。

決勝はもうひとつの開催国、ナイジェリアと対戦。ナイジェリアはオコチャカヌー、イクペバ、オリセーら、アトランタ五輪金メダル組の「スーパー・イーグルス」がピークを迎えた強敵だった。それでもエムボマ、エトーのアベック弾で2-2と互角の戦い、PK戦を制して6年ぶり3回目の優勝を果たす。

シドニー五輪の大活躍

00年9月には、オーバーエージ枠のメンバーとしてシドニー五輪に出場。G/L初戦のクウェート戦で3-2の勝利を収めると、続くアメリカ戦とチェコ戦は1-1で引き分け。エムボマはクウェート戦とアメリカ戦で貴重なゴールを決め、ベスト8進出に貢献する。

準々決勝は強豪ブラジルと対戦。エムボマの先制弾でリードしたカメルーンだが、75分とロスタイムに2人が退場処分。終了直前となってロナウジーニョにFKを決められ、土壇場で追いつかれてしまう。

延長は9人での戦いを強いられ、絶体絶命の窮地に追い込まれたカメルーン。だがこの試合から抜擢された16歳のキーパー、イドリス・カメニが好守を連発。113分にエムバミがVゴールを決め、カメルーンが執念の勝ち上がりとなった。

準決勝の相手はO/A枠のイバン・サモラノが牽引する南米チリ。カメルーンは2人の主力を欠いて終始押し込まれる展開となるも、GKカメニを中心にピンチをしのぐ。

だが76分にミスから失点。またも追い込まれるカメルーンだが、84分にエムボマがCKのこぼれ球を蹴り込み同点。89分にはPエリア内への切り込みで、貴重なPKをゲットする。これをローランが決めてカメルーンが2-1の逆転勝利、決勝への切符を手にした。

決勝はスペインとの対戦。開始1分、シャビのFKで早くも失点。前半終了直前にも追加点を決められ、2点のビハインドで前半を折り返す。

だがここから、「不屈のライオン」が本領を発揮する。後半53分、エムボマの折り返しがラッキーゴールを生んで反撃開始。その5分後、右サイドを突破したエムボマが低いクロスを送ると、走り込んだエトーが同点弾を決める。

終盤に2人が退場となったスペインは、プジョルを中心に必死の防戦。120分を戦い終わって勝負はPK戦に持ち込まれた。

カメルーンはエムボマ、エトーら5人全員が成功。GKカメニがスペインの3人目を止めて、ついに念願の金メダルを獲得する。カメルーンにとってサッカーはもちろん、全競技を通じて初めての金メダルだった。

アフリカ・ネイションズカップ優勝と、シドニー五輪金メダル獲得の立役者となったエムボマは、この年のアフリカ年間最優秀選手に選ばれた。

中津江村との交流

20-21シーズンには、ローマへ移ったエルナン・クレスポの後釜としてパルマに移籍。しかし再び脚の故障を繰り返すようになり、芳しい成績を残せないまま01シーズンにはプレミアのサンダーランドに移籍する。

02年1月には、マリで開催されたアフリカ・ネイションズカップに出場。ここで調子を取り戻したエムボマは、得点王の活躍でチームを2大会連続優勝に導く。さらにW杯予選も6得点の大活躍、自身2度目となるWカップ出場に貢献した。

カメルーンチームのキャンプ地に決まったのは、大分県の山間にある小さな自治体、中津江村。だが来日予定の5月19日を過ぎても、「不屈のライオン」たちがやって来る気配はなかった。

チームの出発前、出場ボーナスを巡って選手と協会が一悶着。ようやく解決を見てチャーター便で出発するも、途中の給油地でもたついたり、領空通過の許可を得ておらず待たされたりと、珍道中さながらの旅を続けていたのだ。

その間、カメルーンチームの到着を待ちわびる村長や人々の姿がテレビで放送され、大会を賑わすエピソードとして取り上げられた。

選手を乗せたバスが村に着いたのは、予定日を5日過ぎた24日の夜中3時過ぎ。深夜の到着にもかかわらず、村人総出で選手たちを暖かく迎えた。すると、エムボマを始め陽気なアフリカンたちはすぐに村人たちと打ち解け、中津江村との交流は大きな話題となる。

だが来日が遅れたことで、カメルーンはコンディション調整に失敗。大会は1勝1敗1分けの3位でG/L敗退となり、早々と帰国する。また大会直前に両膝を痛めたエムボマも、アイルランド戦の1点に終わってしまった。

それでもカメルーンと中津江村との友好関係はその後も続き、現在も積極的な交流が行われている。

エムボマと日本

サンダーランドでも故障に苦しみ、1シーズンで退団。リビアのクラブでプレーしていた03年に東京ヴェルディからオファーが舞い込み、再び来日を果たす。

03年シーズンは13ゴールで復活の兆し。04年1月にはチュニジアで開催されたアフリカ・ネイションズカップに出場する。

準々決勝でナイジェリアに敗れ、カメルーンの3大会連続優勝はならなかったが、4ゴールを記録(他に3人)したエムボマは、2大会連続の得点王に輝く。

だが再び膝の故障が悪化。04年にヴェルディを退団してヴィッセル神戸に移るも、体力の衰えもあって05年5月に34歳で現役を引退する。

カメルーン代表では57試合33ゴールを記録、Jリーグでは79試合で49ゴールを挙げた。現在は会社経営のかたわら、代理人業やコメンテーター、カメルーン代表のアドバイザーも務めている

「もしガンバに来ていなかったら、その後のキャリアはなかった」と日本への愛着を語るエムボマ。01年に生まれた三男を「ケンジ」と名付けた。

その後もたびたび日本を訪れ、様々なイベントやOB戦に参加。中津江村ではサッカー教室を開催している。

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