「ビアンコネロの10番」アレッサンドロ・デル・ピエロ(イタリア)
高いスキルと創造性あふれるプレーで、ピッチにアートを描き出した「ファンタジスタ」の継承者。ビアンコネロの10番を背負い、ユベントスの黄金期を支えたアタッカーが、アレッサンドロ・デル・ピエロ( Alessandro Del Piero )だ。
左サイドから切り込み、斜め45度の位置からゴールを対角に打ち抜くシュートは正確無比。得意の「デル・ピエロ・ゾーン」から放たれるゴールは、彼の代名詞となった。また芸術的なFKでも多くの得点を生み出している
Wカップやユーロといった国際舞台では、故障や不調で本領を発揮できなかったが、06年のドイツWカップはスーパーサブとして活躍。イタリア24年ぶりの優勝に貢献していている。
デル・ピエロは1974年11月9日、イタリアの北東部に位置するヴェネト県のコネリアーノに生まれた。父は電気技師という普通の家庭で育ち、プロを目指す兄ステファーノの影響でサッカーに打ち込むようになる。
8歳で地元のジュニアクラブに入団。最初は出場機会を得るためキーパーとしてプレーしていたが、兄の助言で攻撃的ポジションに役割を変える。
FWとしての才能を見せ始めたデル・ピエロは、13歳となった88年にスカウトを受けてセリエBのパドバに入団。宿舎生活を送りながら育成組織で力を伸ばし、91年には17歳でプロ契約を結ぶ。
92年3月のメッシーナ戦でトップチームデビュー、11月のテルナーナ戦でプロ初ゴールを記録する。ユース代表のエースとしても活躍するデル・ピエロには、セリエAの各クラブからも注目が集まり、93年に名門ユベントスの一員となる。
93年9月のフォッジャ戦でセリエAデビュー、次のレッジーナ戦で初ゴールを決める。94年3月のパルマ戦では、チームのカリスマ、ロベルト・バッジオに代わり先発出場。ハットトリックを達成して、「イタリアの将来を担う男」と注目される。
翌94-95シーズン、故障とW杯の疲れでエースのバッジオが登録抹消となると。その代役として20歳のデル・ピエロが攻撃陣の一翼を担うことになった。
そして94年12月のフィオレンティーナ戦で、デル・ピエロ伝説のゴールが生まれる。2-2の同点で迎えた試合終了間際の88分、後方から放たれたロングボールに鋭く反応、背後からのボールを落下直前に捉えて右足ボレー弾を決めた。
このゴールは世代交代を告げるシグナルとなり、ユベントスが9季ぶりにスクデットを獲得したシーズン終了後、クラブはエースのバッジオを放出する。そしてデル・ピエロが、“ビアンコネロ栄光の10番” を引き継ぐことになった。
続く95-96シーズンはリーグ2位に終わったものの、チャンピオンズリーグでは6得点の活躍、前年王者アヤックスを下しての大会優勝に貢献する。そして同年11月のトヨタカップでは、アルゼンチンの名門、リーベル・プレートと対戦した。
欧州と南米を代表する両チームの戦いは白熱の展開。ユベントスはデル・ピエロとボクシッチを中心とした攻めで主導権を握るも、リーベルの堅守に阻まれる。リーベルもオルテガとフランチェスコリのコンビで反撃を試みるが、徹底マークに遭い抑えられてしまう。
試合は一進一退の攻防が続き、延長が見えてきた終盤の81分。右からのCKキックをジダンが頭で繋ぐと、逆サイドで待つデル・ピエロがいち早く反応、得意の角度からゴールを叩き込む。
これが決勝点となり、ユベントスはプラティニを擁した85年以来、2度目となるクラブ世界一を達成。殊勲弾を挙げたデル・ピエロが、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。
96-97シーズンは、ハードスケジュール(クラブや代表など4チームを兼務)がたたってスランプに陥るが、復調した97-98シーズンはキャリア・ハイとなるリーグ戦21ゴールを記録。チャンピオンズリーグで10得点を挙げて大会得点王に輝く。
95年3月のエストニア戦でフル代表デビュー。21歳でユーロ96のメンバーに選ばれ、ブロック予選で活躍するが、イングランドで開催された本大会は初戦のロシア戦で負傷。1試合の出場に留まった。
このあとスランプに陥り、Wカップ欧州予選では同じタイプのフランコ・ゾラにレギュラーポジションを奪われてしまう。
その後調子を取り戻し、Wカップ本番では攻撃の柱としての活躍が期待されるが、大会直前の98年5月20日、チャンピオンズリーグの決勝戦で右太腿肉離れを起こしてしまった。
チャンピオンズリーグはレアル・マドリードに0-1と敗れ準優勝。デル・ピエロのWカップ出場が危ぶまれるが、代表のチェーザレ・マルディーニ監督は回復を期待してメンバーに招集する。
6月10日、Wカップ・フランス大会が開幕。11日の初戦、チリ戦ではデル・ピエロに代わりR・バッジオが先発出場、貴重な同点ゴールを決めている。
第2戦のカメルーン戦、後半の65分にバッジオとの交代で途中出場。試合は3-0と圧勝する。故障が癒えた第3戦のオーストリア戦で初の先発出場を果たすが、後半72分にバッジオと交代。そのバッジオが終了直前に得点を決め、イタリアが2-1の勝利を収めた。
トーナメントの1回戦はノルウェーに1-0の勝利、準々決勝で開催国フランスと戦った。試合は膠着状態に入り、0-0で進んだ後半の67分、精彩を欠くデル・ピエロに替わりバッジオが投入された。
スコアレスのまま延長に持ち込まれた試合は、120分で決着がつかずPK戦に突入。イタリアは4人目のディ・ビアッジョが外し、敗退となった。
3試合に先発出場したデル・ピエロだが、結局主役の座をバッジオに譲り、1度も輝きを見せることなく大会を去る。
24歳の誕生日を目前に控えた98年11月8日、ヴィディネーゼ戦で左膝靱帯断裂の重傷。9ヶ月に及ぶリハビリを経て99-00シーズンの開幕戦で復帰を果たすが、コンディション上がらないままスランプに陥る。
00年6月にはユーロ2000(ベルギー、オランダ共催)に出場。しかし怪我の後遺症に苦しみ、若手選手フランチェスコ・トッティの台頭により出番が減ってゆく。
フランスとの決勝も後半53分に途中出場。直後の55分にイタリアの先制点が生まれるも、ロスタイムに追いつかれて延長に突入する。103分にはトレゼゲにゴールデンゴールを決められ逆転負け、イタリアは優勝を逃してしまう。
トッティからの決定的なパスを2度も外したデル・ピエロには、戦犯として厳しい批判をあびせる声もあった。
02年6月にはWカップ日韓大会に出場。しかし代表の背番号10はトッティに明け渡され、トラパットーニ監督とも対立してベンチを温める時間が続いた。
それでもG/L最終節のメキシコ戦、1点をリードされた78分にトッティに替わって途中出場する。そして終了目前となった85分、起死回生のヘディングゴールで同点、イタリアの決勝トーナメント進出に貢献した。
トーナメント1回戦は開催国の韓国と対戦、デル・ピエロは初めて先発に起用される。イタリアが1点をリードした後半の61分、デル・ピエロは守備固めのガットゥーゾと交代。だがここから攻撃的布陣で臨んだ韓国が猛反撃を開始、88分に追いつかれてしまう。
延長に入った103分、トッティが不可解な判定で退場処分。延長後半の117分に安貞桓のVゴールを許し、イタリアは思わぬ敗戦を喫してしまった。
Wカップ初ゴールを記録したデル・ピエロだが、代表の大舞台に弱いエースというイメージが定着していく。
02-03シーズンは16ゴールを記録しスクデット獲得に貢献、ユーロのブロック予選も、6試合5ゴールの大活躍でエース復活を思わせた。しかし、ポルトガルで開催されたユーロ本大会はまたも不調で結果が残せず、イタリアは1次リーグで敗退となる。
それでもユベントスでは好調を持続、攻撃の中心選手として04-05シーズン、05-06シーズンのリーグ2連覇に貢献する。
06年1月に行われたコッパ・イタリアのフィオレンティーナ戦で、ハットトリックをマーク。これがユベントスでの公式戦185ゴール目となり、チームの歴代最多得点記録を更新する。
その矢先の06年5月、イタリアサッカー界で「カルチョポリ」と呼ばれる審判買収の不正スキャンダルが発覚する。不正事件の主犯格とされたユベントスは、04-05、05-06シーズンのタイトル取り消し、セリエBへの降格と、厳しい処分を受けることになった。
カンナバーロ、ヴィエラ、イブラヒモビッチ、テュラムら多くの主力がチームを去る中、デル・ピエロはマンチェスター・ユナイテッドからの誘いを断り、キャプテンとして残留を表明。ブッフォン、トレゼゲ、ネドベドが彼に続いた。
新しく就任したデシャン監督のもと、ユベントスはセリエB優勝を決めて、1年でのセリエA復帰を果たす。主将のデル・ピエロも、35試合20ゴールで昇格に大きな役割を務めた。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会に出場。初戦のガーナに2-0の快勝を収め、続くアメリカ戦は双方退場者を出しながら1-1の引き分け。最終節のチェコ戦では、ネスタの負傷退場というトラブルに遭いながら、2-0と勝利してG/L1位突破を決める。デル・ピエロは2試合で途中出場、ベテランの味で攻撃に変化をつけた。
トーナメント1回戦の相手は、知将ヒディンク監督率いるオーストラリア。故障明けで今ひとつ調子の上がらないトッティに代わり、デル・ピエロが初先発を果たす。
果敢な戦いを見せるオーストラリアにアズーリは大苦戦。50分にはマテラッツィが一発レッドとなり、イタリアは劣勢に追い込まれる。75分、相手のマークに苦しんだデル・ピエロに替えてトッティを投入、試合は0-0のまま後半のロスタイムに突入した。
ロスタイムの3分、左サイドからゴールに迫ったグロッソが倒され、イタリアがPKを獲得。それをトッティが冷静に沈め、土壇場で1-0の勝利を収める。
準々決勝は、シェフチェンコ率いるウクライナに3-0と大勝。準決勝は開催国ドイツとの戦いになった。
イタリアは、カンナバーロとブッフォンを中心とした鉄壁の布陣でゴールを堅守。ドイツも粘り強い守りで失点を許さなかった。
試合はスコアレスで延長に突入、疲れで足の止まるドイツに、イタリアは攻勢を強める。104分、リッピ監督はベロッタに替えてデル・ピエロを投入、一気の勝負を仕掛けた。
PK戦になるかと思えた119分、デル・ピエロが蹴ったCKのこぼれ球をピルロが拾い、DF3人を引きつけてのスルーパス。これをグロッソがダイレクトで決めて、イタリアが待望の1点を得る。
追いつきたいドイツはパワープレーで得点を狙うが、逆にイタリアはパスカットからのカウンター。GKレーマンと1対1となったジェラルディーノがヒールで流し、走り込んだデル・ピエロが得意の角度からとどめを刺した。
2-0と激戦を制したイタリアは、決勝でフランスと対戦する。開始7分、マテラッツィのファールでPKを献上。これをジダンに決められ早々にリードを許すが、19分にマテラッツィがCKから汚名返上の同点弾を叩き込む。
このあと試合は膠着状態となり、積極的な交代策で打開を図るリッピ監督は、86分に3枚目のカードとして切り札のデル・ピエロを投入、だがゲームは動かず延長に突入した。
延長後半の5分、マテラッツィの挑発に乗ったジダンが頭突きで退場処分。優勢となったイタリアだが、フランスも必死の防戦、優勝の行方はPK戦に持ち込まれた。
イタリアはデル・ピエロを含め5人全員がPK成功、フランスは2人目のトレゼゲが外し、栄冠は24年ぶりにアズーリの手に渡った。
このあとデル・ピエロは、08年のユーロ(オーストリア、スイス共催)に参加。34歳となっていた彼の出番は少なかったが、チームのキャプテンとしてベスト8進出に寄与した。
代表最後の試合となったのは、08年9月のWカップ予選・ジョージア戦。その後代表に呼ばれることなく、10年Wカップ・南アフリカ大会への出場は叶わなかった。代表では91試合27ゴールを記録した。
11-12シーズンは、セリエA復帰から初となるスクデット獲得に貢献。デル・ピエロはシーズン終了後にユベントスを退団する。
19年を過ごしたトリノの名門で、クラブ通算最多得点(290点)と通算最多出場(705試合)の記録を残し、セリエA優勝6回のほか、コッパ・イタリア、チャンピオンリーグ、トヨタカップなど、多くのタイトルをチームにもたらした。
その後、オーストラリアのシドニーFCとインドのテリー・ディナモスFCでのプレーを経て、15年10月に40歳で現役を引退する。
現在はサッカー解説者を務めながら、18年からは米国クラブのオーナとして活動している。