《 サッカー人物伝 》 ジネディーヌ・ジダン(前編)

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「レ・ブルーの新将軍」 ジネディーヌ・ジダン ( フランス )

強靭なフィジカルと抜群のテクニック、高い戦術眼にシュート力も兼ね備え、現代サッカーで必要とされるあらゆる要素を最高レベルで体現したゲームメーカーが、 ジネディーヌ・ジダン( Zinedine Yazid Zidane )だ。

足裏やインサイドを使って巧みにターン、ボールを隠しながら相手をかわす “マルセイユ・ルーレット” が代名詞。ポジションやキャリア、移民系選手であるなどの共通項から、「プラティニの後継者」「新将軍」と呼ばれた。

代表ではWカップ優勝とユーロ制覇を達成。個人やクラブでも数々の栄冠に輝き、史上最高の選手の1人とされる。引退後は指導者としても手腕を発揮、レアル・マドリードに多くのタイトルをもたらしている。

マルセイユの才能

ジダンは1972年6月23日、アルジェリア移民家族の7人兄弟の末っ子として、港町マルセイユで生まれた。北アフリカ系移民が集まる居住区で育ち、兄や近所の子供たちと近くの広場でサッカーに興じる。2本の柱をゴールに見立てて行われるストリートサッカーが、少年ジダンの足技を磨いていった。

9歳で地元のジュニアチームに入団。いくつかのユースチームで輝きを見せ、その才能が認められて、13歳で古豪クラブのASカンヌへ移籍する。

練習環境の整ったカンヌでさらに力を伸ばし、最初プレーした3部クラブでは、誰も彼のドリブルを止められない程の選手になっていた。

リーグ戦終盤の89年5月、16歳でトップチームデビュー。だがチームに若手を育てる余裕はなく、デビュー・シーズンは僅か2試合の出場にとどまり、翌シーズンは再び下部リーグで修業時代を送る。

90-91シーズン、トップチームに再昇格。序盤はチームに順応できずスランプに陥るが、ベッケンバウアー監督率いるオリンピック・マルセイユ戦での好プレーできっかけを掴み、その後は出場機会を増やしていった。

91年2月のナント戦でプロ初ゴールを挙げ、28試合に出場。UEFAカップ出場権を得られるリーグ4位に貢献する。サッカー専門誌からは、「信じられないテクニック。ディヴィジョン1で最も才能に恵まれた若手」と評されるようになる。

翌91-92シーズン、カンヌはリーグ17位と低迷、2部落ちとなってしまった。内向的なジダンのプレーも好不調の波が大きく、資金難となったクラブは、有望な若手を売りに出すことになった。

故郷マルセイユへの移籍を望んだジダンだが、「技術は高いが動きが緩慢」の評価で関心を持たれず、結局1部に再昇格したばかりのボルドーと契約する。

ボルドーでの覚醒

不振にあえぐカンヌで自信を失っていたジダンだが、彼の才能を高く買っていたボルドーのクルービス監督に重用され、輝きを取り戻すようになる。

92-93シーズンは守備的MFとして起用され、35試合に出場して10ゴールを記録。プレーの幅を広げたジダンの活躍で、ボルドーはリーグ戦を4位で終えUEFAカップの出場権を得る。

翌93-94シーズンも4位を確保、すっかりチームの主力になったジダンは「ジズー」の愛称で呼ばれるようになる。だが相手の挑発に乗って、悪質なファールを犯すこともしばしば。普段は物静かだが、激高しやすいとう一面も持ち合わせていたのだ。

96年、3季連続となるUEFAカップに出場。4回戦(ベスト16)のベティス戦では35mのシュートを決めて勝利に貢献、準々決勝は優勝候補のACミランと対戦する。第1レグを0-2で落とし、ミランをホームに迎えた第2レグ、ジダンのアシストとデュガリーの2得点で3-0の快勝。強豪を下して準決勝に勝ち上がった。

準決勝も勝ち抜いて決勝へ進出。だがバイエルン・ミュンヘンとの決勝は、ジダンとデュガリーが累積警告で欠場となったことが響いて、優勝を逃してしまう。それでもこの大会での活躍が認められ、96年の夏には名門ユベントスへの移籍を果たす。

レ・ブルーの10番

代表には94年8月に初招集。ユーリー・ジョルカエフが負傷離脱しての、追加招集だった。17日のチェコ戦、2点のビハインドから後半63分に途中出場。いきなり2得点を挙げて、引き分けに持ち込むという衝撃的デビューを飾った。

このあと、代表のエメ・ジャケ監督はジダンを中心としたチームづくりに着手。カントナを外して彼を代表の10番に据えた。

ユベントスへの移籍が決まった96年5月下旬、ボルドーの高速道路で自損事故を起こしてしまい、頭部打撲と右臀部を負傷。直後に控えたユーロ96・イングランド大会への影響が危ぶまれたが、幸い怪我の程度は軽く出場を果たす。

しかし怪我の後遺症でコンディション調整に失敗。フランスは大会ベスト4へ進んだものの、ジダンのプレーは精彩を欠いてしまう。

ユベントスでの成長

ユベントスへ移籍した96-97シーズン、クラブとフランスのレジェンドであるプラティニと比較されることに悩み、なかなかチームに溶け込めなかったジダンだが、「海兵隊」と呼ばれるトレーニングコーチに鍛えられてフィジカルが向上。ポジションがトップ下に固定されると、その力を発揮し始める。

デル・ピエロ、ボクシッチ、ビエリら強力なFW陣にボールを供給、インテル戦では素晴らしいミドルシュートを決めるなど、スクデット獲得に貢献する。12月に行われたリーベル・プレートとのトヨタカップでは、デル・ピエロの決勝点をアシストして、クラブ世界一に寄与した。

翌97-98シーズン、チームの司令塔としてリーグ連覇に貢献。チャンピオンズリーグでも2度目の決勝(ユベントスは3大会連続)へ臨むが、レアル・マドリードに敗れてビッグイヤー獲得はならなかった。

それでも名門クラブで着実にキャリアを重ねていったジダンは、自国開催のワールドカップでその実力を世界に知らしめることになった。

Wカップの戦い

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。G/Lの初戦はジダンのCKからデュガリーが先制点を挙げ、南アフリカに3-0と快勝する。第2戦のサウジアラビア戦も、4-0の圧勝でベスト16進出が決定。だがしつこいファールに冷静さを失ったジダンが、相手選手を踏みつけ一発レッド、2試合出場停止の処分を受けてしまう。

ジダンを欠いた最終節のデンマーク戦は2-1の勝利、決勝Tに進んだフランスは、1回戦で南米のパラグアイと戦った。GKチラベルトが統率するパラグアイの堅守にレ・ブルーは大苦戦、ゲームは0-0のまま延長にもつれた。ようやく延長後半の113分にブランのゴールデンゴールが生まれ、準々決勝への勝ち上がりを決める。

準々決勝のイタリア戦でジダンが復帰、多彩な攻めで相手ゴールを脅かした。だがマルディーニ、カンナバーロを中心としたイタリアの堅い守りを崩せず、延長120分を戦って0-0、なんとかPK戦を制して準決勝へ進んだ。

準決勝は初出場のクロアチアと対戦。0-0で折り返した後半開始直後、テュラムのミスからシュケルの先制点を許してしまう。だがその1分後、ゴール前でボバンのボールを奪ったテュラムが同点弾、69分にもテュラムが逆転弾を決め、フランスが2-1の逆転勝利。初の決勝進出となった。

フランスの英雄

決勝の相手は優勝候補ブラジル。だが決勝当日の朝、ブラジルのロナウドが痙攣を起こして入院するというアクシデント。結局ロナウドは強行出場を果たすが、エースのトラブルでセレソンに動揺が生まれる。

開始27分、フランス右CKのチャンス。無警戒だったブラジルの隙を突いて、ジダンが頭で先制弾。さらに前半のロスタイム、左CKからジダンがまたもヘッドで追加点を叩き込んだ。終了間際にもプティがダメ押し点、3-0の鮮やかな勝利でフランスが初のWカップを手にした。

フランスの英雄となったジダン、エッフェル塔と凱旋門にその顔が掲げられた。そして同年末にはバロンドール賞、FIFA最優秀選手賞、世界年間最優秀選手賞と個人タイトルを独占、「新将軍」の名が冠せられるようになった。

激戦続きのユーロ2000

98-99シーズン、ジダンはWカップの疲労と膝の故障で出遅れ、デル・ピエロが左十字靱帯断裂の重傷で戦線離脱。戦力を落としたユベントスはリーグ6位に沈んでしまう。

翌99-00シーズンは一時首位を独走するも、執拗なまでの粘りを見せるラツィオに最終節で逆転優勝を許し、無念の2位となってしまった。

00年6月、ユーロ2000(ベルギー・オランダ共催)大会に出場。王者フランスはG/Lのデンマークに3-0、チェコに2-1の逆転勝利と強さを発揮、控え選手中心で臨んだオランダ戦も2-3と接戦を演じ、選手層の厚さを見せつけた。

準々決勝はスペインと対戦。前半32分にジダンが先制点、38分に追いつかれるも、44分にジョルカエフのゴールで再びリードする。

2-1のまま進んだ後半終了直前のロスタイム、土壇場でスペインがPKのチャンスを獲得。だがエースのラウルがこのPKを外し、フランスが辛うじて準決勝に進んだ。

準決勝の相手となったのは、「黄金世代」がピークを迎えたポルトガル。開始19分、ヌーノ・ゴメスのゴールでポルトガルが先制。しかし後半の51分にアンリの同点弾で追いつく。

試合は1-1で延長に突入。激しい攻防が続き、PK戦が見えてきた117分、ヴィルトールのシュートがDFの手に当たりフランスにPKが与えられる。故意のハンドではないとポルトガル選手が猛抗議を行うも、判定が覆ることはなかった。

延長はゴールデンゴール方式、PKキッカーは当然ジダンが努めた。長い助走からの強烈なシュートがゴール左上に突き刺さり、フランスが決勝へ進む。

王者フランスとマエストロ・ジダン

決勝はイタリアとの戦い。息詰まる応酬が繰り広げられた後半55分、デルベッキオがゴールを押し込みイタリアが先制する。フランス必死の反撃も、アズーリの固い守りに跳ね返され、ついにゲームは後半のロスタイムに入った。

その4分、カンナバーロのミスから左サイドを突破したヴィルトールが、起死回生の同点ゴール。最後の最後で試合は振り出しに戻る。そして延長の103分、DF網を突破したピレスの折り返しがトレゼゲに渡り、ボレーシュートでのゴールデンゴールが決まる。

こうしてフランスが、プラティニ以来16年ぶりとなる欧州選手権優勝を達成、王者の貫禄を示す。攻撃をリードしたジダンのボール捌きは、まさにマエストロの領域。大会MVPに選ばれ、同年末には2度目のFIFA最優秀選手賞を獲得、世界最高の選手であることを証明した。

絶頂期の落とし穴

00-01シーズン、選手としてのピークを迎えたジダンは人気絶頂。アンチェロッティ監督はフランス代表の3ボランチシステムを採用し、ジダンを中心据えたユベントスも上々のスタートを切った。

だが10月24日のチャンピオンズリーグ・グループ予選、ハンブルガーとの試合でトラブルが発生する。自分をマークする選手に悪質なファールを繰り返され、怒り心頭のジダンが頭突きによる報復行為、一発退場となってしまった。

この後ダーヴィッツもレッドカード、9人となったユベントスは1-3の敗北を喫し、2週間後のパナシナイコスも落として、早くも大会から姿を消していった。

ジダンはUEFAの規律委員会から5試合の出場停止処分を申し渡され、最有力とされた2度目のバロンドール賞も逃す結果となってしまう。

気性が激しいジダンの一面はもはや周知の事実。ハンブルガー戦では最初からそこを狙われ、まんまと挑発に乗っての退場だった。こうしてジダンはヒーローから一転、批判される立場となる。

ユベントスが2位に終わったシーズン終了後、ジダンはクラブに強く移籍を希望。こうして史上最高の移籍金とともに、戦いの場をスペインのリーガ・エスパニョーラへ移すことになった。

後半「物静かな闘将」に続く

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