「 至宝と呼ばれたエース 」 ラウル・ゴンザレス ( スペイン )
左脚のテクニックと豊かなイマジネーションを持ち、多彩な攻撃能力で多くのファンを魅了した。早くからその将来を嘱望され、「スペインの至宝」と呼ばれた男が、ラウル・ゴンザレス( Raúl González Blanco )だ。
キャリアを始めたレアル・マドリードでは、当時クラブ史上最年少となる17歳でトップチームデビュー。さっそくレギュラーの座を奪うと、毎年のように大型補強を行う名門クラブにあってチームの象徴であり続けた。
スペイン代表でも新世代のエースとして期待されたラウル。しかし勝負弱さや不運に泣いた代表チームにおいて、Wカップとユーロの大舞台で今ひとつ輝きを見せる事が出来なかった。
ラウルは1977年6月27日、首都マドリード郊外の町で生まれた。エンジニアの父は、アトレティコ・マドリードの熱心なサポーター。その影響を受けた息子ラウルは、素質を買われて12歳でアトレティコのカンテラ(下部組織)に入団する。
プレーは荒削りで細身ながら、得点に絡むセンスと才能は天賦のもの。チャンスメークにも長けており、攻撃の能力は他を圧倒した。
14歳でプレーしたカデット(ジュニアチーム)では、シーズン56ゴールを記録。とてつもない才能は、たちまちユースレベルで注目の的となる。
しかしクラブの財政難により、アトレティコの下部組織は解散。15歳でフリーとなった天才ストライカーには、すぐにライバルのレアル・マドリードから声がかかる。
93年にはレアルのCチームでプレー。たった9試合で16ゴールという驚異的な得点能力を見せ、バルダーノ監督によって飛び級でトップチームに引き上げられる。
デビュー戦となった94年10月のサラゴサ戦で、早くも先発出場。当時史上最年少となる17歳4ヶ月でのトップリーグ・デビューを果たし、イバン・サモラノのゴールをアシストする。
その1週間後、ホームで行われたアトレティコ・マドリード戦にも先発出場。M・ラウドルップのクロスから初得点を決め、4得点すべてに絡む活躍で勝利に貢献した。
この試合でラウルが背負った7番は、長らくレアルのエースを務めたブトラゲーニョがつけていた番号。この日のブトラゲーニョはベンチ入りさえ果たせず、若き後継者の活躍をスタンドから眺めることになった。
94-95シーズン、17歳のラウルは28試合に出場して9ゴールを記録、リーグ優勝に貢献する。一方31歳のブトラゲーニョは8試合出場1得点に終わり、シーズン終了後に12年を過ごしたレアルを離れていった。
翌95-96シーズン、ラウルは40試合に出場して19ゴールを記録。チャンピオンリーグの準々決勝、ユベントス戦では、20歳のデル・ピエロとの若手対決が注目された。2戦合計で1-2と敗れたものの、唯一のゴールを奪ったラウルは一躍その名を知られることになった。
さらに96-97シーズンも、41試合21ゴールで優勝に貢献。翌97-98シーズンは太腿を痛めて不調に陥るが、ユベントスを破って32年ぶりのチャンピオンズリーグ優勝を達成し、名実ともにレアルのエースとなる。
そんなラウルにはセリエAの名門クラブも注目。慌てたレアルは「スペインの至宝」を奪われまいと、20歳の若者に9年間の契約延長と高額年俸という破格の条件を提示。巨額の移籍違約金も設定した。
スペイン代表ではユース時代から活躍。95年のワールドユースでは3得点の活躍でベスト4入りを果たし、96年の自国開催U-21欧州選手権は、9試合で8得点を挙げて準優勝の立役者となる。そして同年のアトランタ五輪では、ベスト8に進んでいる。
五輪終了後、10月のWカップ欧州予選・チェコ戦でフル代表デビュー。3試合目となる12月14日のユーゴスラビア戦で初ゴールを記録する。その後スペインは無敗で欧州予選を突破、各ポジションにタレントを揃えた無敵艦隊は、Wカップ優勝候補の一角にも数えられるようになった。
ラウルは20歳で代表の10番を背負い、98年6月のWカップ・フランス大会に出場。G/Lの初戦で、「スーパーイーグルス」の愛称を持つナイジェリアと対戦する。
1-1で迎えた後半の47分、ラウルが強烈なボレーシュートを決めて勝ち越し。しかし73分にGKスビサレッタのミスで同点とされてしまう。その5分後、ナイジェリアのオリセーがクリアボールを直接シュート。地を這うような弾道が25m先のネットに突き刺さり、スペインは2-3の逆転負けを喫してしまった。
続くパラグアイ戦はスペインが圧倒的に攻めながら、GKチラベルトとDFガマラを中心とする堅守に大苦戦。28本のシュートを放つも、0-0の引き分けに終わってしまう。
それでも勝てば決勝T進出の望みを残し、最終節でブルガリアと対戦。モリエンテスとキコの2得点で6-1の大勝を収めるが、パラグアイがナイジェリアに勝利したため、スペインの3位が決定。20年ぶりのG/L敗退となった。
98年12月、トヨタカップに出場したレアルは、ブラジルの強豪ヴァスコ・ダ・ガマと対戦する。試合はレアルのペースで開始、25分にロベカルの放った強烈なクロスが相手のオウンゴールを誘い先制する。しかし後半ヴァスコが攻撃に転じ、セードルフの不用意なパスからジュニーニョの同点ゴールを許してしまう。
1-1で進んだ終盤の83分、セードルフの放ったロングフィードに、ラウルが素早く反応。巧みなトラップと鮮やかな切り返しで2人のDFをかわすと、右足で決勝点を決める。こうしてレアルが2-1と勝利、この試合のMVPに選ばれたラウルは、クラブ世界一のタイトルを手に入れた。
98-99シーズンには故障も癒えて25ゴールを記録、初のピチーチ賞(リーグ得点王)を獲得する。
99-00シーズン、チャンピオンズリーグの準々決勝で、前回王者のマンチェスター・ユナイテッドと対戦。敵地オールド・トラッフォードでレアルが3-2の勝利、そのうちの2点はラウルによるものだった。
準決勝では前回準優勝のバイエルン・ミュンヘンを2戦合計3-2と撃破、2季ぶりの決勝へ進む。決勝はバレンシアとの同国対決、3-0の快勝で再び欧州クラブチャンピオンに輝く。この試合でも独走からの3点目を決めたラウルは、合計10得点を挙げて大会得点王となった。
99年ユーロのブロック予選では、オーストリアとの試合で4ゴールを記録。さらに4日後のサンマリノ戦で連続ハットトリックを達成する。続くユーゴスラビア戦もアシストで勝利に貢献、スペインはユーロ本大会への出場権を得た。
00年6月、ユーロ2000(ベルギー、オランダ共催)大会に出場。G/Lの初戦はノルウェーに0-1とまさかの敗戦。だが続くスロベニア戦をラウルの先制ゴールで2-0と勝利、最終節のユーゴスラビアを終盤の逆転劇で4-3と下し、ベスト8に進む。
準々決勝は、Wカップチャンピオン・フランスとの戦い。前半32分にジダンのゴールで先制されるも、38分にメンディエタがPKを決めて同点。しかし44分にジョルカエフの得点で再びリードされてしまう。
後半に入っても激しい攻防戦が続き、試合終了が迫った89分、スペインは土壇場でPKのチャンスを得る。ラウルは自らキッカーを志願、だが左脚から放たれたボールは無情にもクロスバーを超えていった。チャンスを逃したスペインは敗退、PKを失敗したラウルは、エースとしての責任を果たす事が出来ず、国民を失望させてしまう。
00-01シーズン、ラウルは24ゴールを挙げて2度目のピチーチ賞を獲得。01-02シーズンは、チャンピオンズリーグの準決勝・バルセロナ戦でゴールを挙げて決勝進出に貢献、決勝のレバークゼン戦ではラウルの先制点で2-0の勝利を呼び込み、自身3度目となる欧州クラブ王者のタイトルを手にする。
ペレス会長が推し進める「銀河系軍団」計画により、フィーゴやロナウドなど毎年のようにスター選手がやってきたが、ユーティリティーな能力を持つラウルは状況に応じて自分の役割を変え、埋没することなくその存在感を発揮した。
02年6月、Wカップ日韓大会に出場。G/Lの初戦は、ラウルの先制点でスロベニアに3-1の勝利、絶好のスタートを切った。第2戦は4年前も戦ったパラグアイとの試合。モリエンテスの2得点などで3-1と快勝し、無得点に抑えられた前回の借りを返す。
最終節の南アフリカ戦はラウルが先制弾、2-2の同点となった後半56分にもラウルが決勝弾を決め、スペインが全勝でベスト16に勝ち上がった。フランスやアルゼンチンといった強豪が思わぬ敗退を喫する中、攻撃陣が好調なスペインは優勝候補にも挙げられるようになった。
トーナメント1回戦のアイルランド戦は、1-1で延長・PK戦にもつれる激戦となったが、GKカシージャスが相手の2本を止めて準々決勝進出を決める。
だがこの試合、ラウルが右足のつけ根を痛めて80分に負傷交代、次の韓国戦は欠場を余儀なくされてしまう。
韓国戦の後半50分、FKに合わせたバラハのシュートがゴールネットを揺らし、スペイン先制かと思えた。しかし直前にファールがあったとされ、得点は認められなかった。
試合は0-0で延長に突入。その直後に右サイドを破ったホアキンのクロスから、モリエンテスがヘッドでゴールを決める。しかしこれもクロスの時点でラインを割ったとされ、ゴールは無効となってしまった。
不可解なゴール取り消しに愕然とする選手たちを、ラウルがベンチから叱咤激励。しかしスペインの士気は明らかに低下し、PK戦を落として大会から去ることになってしまった。
Wカップ終了後、ラウルは代表を退いたフェルナンド・イエロからキャプテンマークを引き継ぐことになる。02年9月に行われたユーロ予選のギリシャ戦で得点を挙げ、イエロの持つ代表最多得点記録29に並んだ。
04年6月、ユーロ04・ギリシャ大会に出場。キャプテンのラウルはG/L3戦に出場するも、スペインは1勝1敗1分けの成績でポルトガル、ギリシャに続く3位となり、決勝ステージに進むことが出来なかった。
攻撃のスター選手に比重が偏ってしまった「ギャラクティコ(銀河系軍団)」は、チームのバランスを欠いてしまい、03-04シーズン以降はタイトルから遠ざかってしまう。
この頃からラウルのパフォーマンスも低下、スランプに陥った05-06シーズン終了後はレンタル移籍で放出されそうになったが、カペッロ監督が反対したためチームに留まることになった。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会に出場。だが昨今の不調と若手の台頭でレギュラーの座を失い、初戦のウクライナ戦と第2戦のチュニジア戦は後半からの途中出場。消化試合となったサウジアラビア戦で初先発するも、後半開始とともにベンチへ退いていった。
決勝Tの1回戦、対フランス戦でも先発出場。後半の54分までプレーするが、結果を残せずルイス・ガルシアと交代。ゲームは1-3の敗戦となり、ラウルのWカップは終わった。
9月6日の北アイルランド戦で代表100キャップを刻むと、その後はアラゴネス監督の構想外となり、29歳で代表の活動を終えることになった。スペイン代表で挙げたゴールは44、これは現在ダビド・ビジャに続く歴代2位の記録である。
「銀河系軍団」を彩ったスターたちが去って行った07-08シーズン、本来のポジションに戻って復調したラウルは18ゴールを記録、レアルのリーグ連覇に貢献する。翌08-09シーズンも18ゴールを挙げ、ディ・ステファノの持つクラブ最多得点記録(307)を更新している。
だが09-10シーズンには、クラブ大型補強の煽りを受けて出場機会が激減。シーズン終了後にユース時代から21年を過ごしたレアル・マドリードを退団し、ブンデスのシャルケ04に移籍する。
シャルケでは内田篤人とともに2年間プレー。10-11シーズンのチャンピオンズリーグ、ベスト4進出に貢献する。
その後、カタールのアル・サッド、NASL(北米2部リーグ)のニューヨーク・コスモスを経て、15年11月に38歳で現役を引退する。
引退後もニューヨークに住み続け、コスモスのテクニカルアドバイザーを務めていたが、17年に故郷のマドリードへ帰国。現在は古巣レアル・マドリードの下部組織で、指導者の道を歩んでいる。